9. 家族会議(ストラトス家)
アルティミシアがミハイルとの婚約打診を告げられたのは、宵の明星亭だ。
メルクーリ邸を出てエレンに馬車で送ってもらい、もともと連泊予定だったアルティミシアは宿に戻ったが、あんなに寝たはずなのにまた急激に眠気が襲ってきて、食事も摂らずにソールともあまり話ができないまま翌日までぐっすり眠ってしまった。
翌朝、店や商談に行かずにアルティミシアが目覚めるのを待っていたソールと共に朝食をとり、エレンに聞いていた通りの事情説明をした。
警備兵に誤認逮捕 (保護?) されたところを助けられたが、過度な緊張にさらされたせいで熱を出して倒れたところをメルクーリ家まで運んでもらって介抱された、というそこそこ実情に沿ったストーリーだ。
メルクーリ家としては、捜査の一環だったとしても半ば誘拐同然に令嬢を邸に連れ込んだことをあまり表に出したくないし、アルティミシアとしても急に倒れた理由を正直に言えるはずもない。
考えたらメルクーリ家のほうだって、アルティミシアが急に倒れた理由は「イレギュラーが重なったゆえの心労」だと思っているだろう。熱が出たわけでもないし、起きたらぴんぴんしていたし。
対外的に見て、要は、倒れた場所が問題なだけ。
アルティミシアはありがたく口裏を合わせることにした。
エレンがソールに説明した内容と大きく相違がないということで、ソールは納得した。
午前の予定をキャンセルしていたソールが午後に店に顔を出してから商談に行くと言うので、アルティミシアは店までは同行することを約束し、宿の部屋で外出準備をしていた時、ノックが鳴った。
何の疑いも持たずに兄だろうと思っていたアルティミシアは何の危機意識もなくドアを開けた。
「お兄様どう・・・お父様? お母様?」
どういうわけか目の前にいる両親に、アルティミシアは思わず大声をあげてしまった。
両親はストラトス領にいたはずだ。ストラトス領は、王都から遠い。
アルティミシアとソールは、馬車で2日がかりでここまで来たのだ。
「お前、誰かを確認もせずにドアを開けるなんて・・」
小言を言いかけた父を、アルティミシアは母もろともに腕を引っ張って部屋に引き入れた。ぱたりと後ろ手にドアを閉める。
アルティミシアを力なく見つめる両親は、どことなく疲れていて顔色もよくない。
長旅だったのだから当然だろうが、それにしても、表情が暗い。
「どうなさったのですお二人とも、こんな所まで。何の緊急事態ですか」
ここは王都にあるとはいえそれほど高級ではない宿だ。狭い部屋に応接セットなどあるはずもない。
立ったままでいいと渋る両親を、とにかく座れとベッドに並んで座らせた。
「お兄様を呼んできますね。お出かけになるのはこの後なので、今日はまだここにいらっしゃいますから」
両親がわざわざ王都まで来るなど、よほどのことだ。むしろ用があるのは自分ではなく嫡子である兄のはず。
自分の所に先に来たのはソールがもう外出していると予測してのことだろう。
そう思って兄を呼びに行こうとするアルティミシアを、父が止めた。
「アルティ」
「はい?」
「用があるのは、その、お前なんだが、そうだな。ソールもいた方がいいだろう。呼んできてもらえるかな?」
「私に用、ですか?」
「まずは、ソールを呼んできてくれる?」
母が促すので、アルティミシアはぎこちなくうなずいて兄を呼びに行った。
「・・・」
お一人様用の狭い宿部屋、ベッドにちょこんと座る両親、部屋に備え付けてある書き物机の木の椅子に座るアルティミシア、その隣で腕を組んで立っているソール。
貴族の家族会議の風景ではない。
「お父様・・・こんな所までいらして私に用、とは・・・」
まるで葬儀の時のような雰囲気に、アルティミシアの問う声も自然と小さくなる。
「アルティ。お前に婚約の打診があった」
まるで死刑宣告のような物言いに、アルティミシアはちゃんと言葉の内容を飲み込めずにいた。
「え?・・・・すみません、もう一度お願いします」
「メルクーリ公爵家から、お前に婚約の打診があった」
今度は死刑宣告というよりお悔やみを申し上げる口調だ。いまいち内容が頭に入って来ない。
「・・・メルクーリって・・・ミハイル様ですか?」
うつむきがちだった父の顔がくわっと上がる。
「お前いつの間に! 知り合っていたんだ! 直接アポなしでご本人がうちまで訪ねて来られたんだよ」
それは・・・さぞかし驚いただろう。アルティミシアはどこか他人事のように思う。
「いつ・・・ですか?」
いつの間に? と言いそうになって言い換えた。
ここにきてやっとじわじわと、父の言っている内容が頭に染みてくる。
(ちょっと待って。こんやく。婚約? イオエルと? いやミハイル様と?)
「昨日だ」
「私昨日お会いしてましたけど?」
正確に言うと、会ってはいたが、話したのはほとんどエレンだ。
というか初対面がそもそも一昨日の一瞬。知り合うも何も、ろくな会話も交わしていない。
(『至急の要件』って、まさか)
あの後、ミハイルがストラトス領に?
家族には冷静に見えていたかもしれないが、アルティミシアは頭から煙を出しそうなほどに混乱していた。
多すぎる情報の処理と、あふれかえる疑問の処理が追い付かない。
「お、お父様お母様、そういえばどうやってこちらに?」
いろいろおかしい。
昨日会っていたミハイルが昨日のうちにストラトス領にいて、両親が今王都にいる。
アルティミシアは、2日かけてここに来たのだ。
「汽車だ」
「汽車?」
鉄道というものが最近開通したのは、時事としてアルティミシアも知っている。
大きな鉄の箱が、トロッコに使うようなレールの上を、蒸気を動力にして馬車とは比べ物にならない速さで動くという、庶民どころか下位貴族にも一生触れることのない、雲の上の乗り物、だったはず。
「急ぎお前に連絡をとると私が話したら、メルクーリ様が『これを使ってほしい』と、切符を」
「受け取ったんですか?」
反射的に言ってしまったが、そもそもこれはもはや婚約『打診』ではない。通知だ。
公爵家の、しかも嫡男本人からの直接の申し出に、弱小伯爵家が断れるはずもない。
その連絡のために「これを使え」と切符を出されたら、それも拒否権はないに等しい。
うつむいてしまった両親に、アルティミシアは急いで声をかける。
「いえ、あの、すみません。早くにご連絡いただけて、ありがたいこと・・・です」
ミハイルが切符を手配してくれていなければ、両親は馬車で2日かかろうと、娘に直接会って話すためにここまで来ようとしていただろう。アルティミシアを呼び戻す手紙を出すこともできたが、それだと、連絡がさらに遅くなってしまうから。
「ちなみに所要時間は」
うっかり興味本位に聞いてしまった。現実逃避だろうか。
「汽車の乗車時間だけだと5時間。家から駅までの移動と駅からここまでの移動を合わせると7時間だな」
早い。とてつもなく早い。あと自分に関する物事の展開が早い。早すぎて頭が追い付いてきていない。
汽車賃がいくらかかるのか気になったが知らない方が幸せだろう。それは早々に考えるのをやめた。
(だめ)
完全に思考がとっ散らかっている。
(落ち着いて)
アルティミシアは自分に言い聞かせる。
「断ってもいいんだぞ?」
「お兄様?」
ずっと沈黙を保ってきたソールがやっと口を開いたら爆弾発言だった。できればその言葉は父に言ってほしかった。
両親は目を伏せたまま、「そうだぞ、いいんだぞ」とは言ってくれない。それはそうだろう、下手をすれば家が潰される案件だ。メルクーリ家が何をしなくとも、周りの貴族から『筆頭公爵家の婚約打診を断った家』として忌避されるようになれば、家は立ち行かなくなる。
「ミハイル・メルクーリと言えば、王国一の美男、『国の至宝』として今騒がれている有名人だ」
ソールが厳しい顔をして言う。
「確かに、人とは思えない造形だったな」
造形って。父がすでにミハイルを人扱いしていない。父にとってのミハイルが雲の上過ぎる。
アルティミシアもアトラスの記憶が戻らなければミハイルを見て平静ではいられなかったかもしれない。でも今のアルティミシアにとっては、正直なじみがあるというか、なんなら安心感すらわく顔だ。
そう、安心感。それが恋愛感情かというと、アルティミシアにはわからない。
「その彼がアルティを見初めたとなったら」
ソールの言葉に、アルティミシアははじかれたように椅子から立ち上がった。
両親の肩がびくりと跳ねたが、かまってはいられない。
「そうそれ! そこでした! お父様、メルクーリ様はなぜ私を?」
「・・・一目ぼれ、だそうだ。運命を感じたらしい」
そんな馬鹿な。
ここにいる全員が、おそらくそう思っている。
それは公爵家嫡男の求婚理由ではない。公爵家の婚姻ともなれば、間違いなく派閥と国政がからむ。
婚姻は契約。貴族の中でもその意味合いが強いトップクラスに公爵家は位置しているはずだ。
というかミハイルが本当にそんなことを言ったのか。両親のところに、本人が出向いて。
いや本人でなければ使えない「つっこみを受け付けない口実」とも言えるが。
でもつまり。
この婚約、ひいては婚姻には裏がある。確実に別の、本当の理由があるはずだ。
「そんな戯言を鵜呑みにはできません。お父様、お心当たりは」
父は苦笑した。
「私の方が聞きたいよ。王都で一体何があったんだい、アルティ」
アルティミシアはすとんと椅子に座り直した。
両親は、それすら知らされないまま、今ここにいる。
エレンと擦り合わせた『口裏』を、アルティミシアはもう一度両親に話した。
「警備兵・・・か」
アルティミシアが話し終えて、ぽつりとつぶやいたのは両親ではなく兄だった。
「お兄様?」
「んー。こうなると気になることがあるな。ちょっと王都にいる知り合いに話を聞いてみようかな」
ソールは穏やかに微笑んで、椅子に座ったまま見上げるアルティミシアの頭をなでた。
「アルティは、どう思う?」
「この婚約打診にどういう意図が含まれているのか、私にはわかりません。でも先方が『一目ぼれ』を理由に持ってきた以上、この後何を聞いてもそれが覆ることはないでしょう」
実は一目ぼれじゃなくてね、なんて話になるわけがない。貴族の嘘はつき通して誠にするものだ。
「ただどうであれ、こちらからお断りすることはできないことは確かです」
判断としては、それがすべてだ。こちらからどうこうできることではない。
もちろん思うことはいくつかある。そのうちの一番大きいのが『身分違いすぎる!』でもなく『ミハイルにとっては初対面のはずなのに』でもなく、『えっイオエル (の魂を持って生まれた者))がアトラス(の魂を持って生まれた者)に?』というのが悩ましいところではあるが。
ミハイルにイオエルの記憶がないとはいえ、アトラスの記憶を持ったアルティミシアからすれば、イオエルがアトラスに求婚しているような錯覚にとらわれる。
でもそれはアルティミシア側の心の事情で、ミハイルには何の罪もない。
いやなくはない。メルクーリ家が行っていたという『捜査』に関わることなのかどうかは不明だが、アルティミシアはおそらくメルクーリ家側の何らかの事情に巻き込まれて「婚約」することになっている。
ミハイルは、その事情を知っているだろう。嫡子で、婚約する本人なのだから。
ただ。
ミハイルがイオエルの記憶を持っている可能性は、本当にないのか。
確かめるすべはない。直接聞けるはずもない。ただ可能性は低い。
それに今記憶を持っていなかったとしても、婚姻後にミハイルにイオエルの記憶がアルティミシアのようにうっかり戻ってしまったとしたら。
ミハイルはイオエルにそっくりだし、アルティミシアの顔は男女の違いはあれアトラスにそっくりだ。
生まれ変わっても、魂が同じなら容姿は大きく変わらない、ということだろう。
とすれば、記憶をもし取り戻したらミハイルはすぐにアルティミシアがアトラスの生まれ変わりだとわかってしまう。
そうしたら。
後継問題が発生する可能性がある。
ミハイルがアルティミシアにアトラスを見出してしまったら、夫婦生活が成り立たなくなる可能性が出てくる。
公爵夫人に求められる一番の義務は、後継者づくり。
これは、最初から爆弾を抱えた婚約だ。
(この婚約には、無理がある)
硬い表情で物思いに沈むアルティミシアに家族が声をかけられないでいると、ノックが鳴った。
ソールが出ると、メルクーリ家の紋章のついたカフスを持つ使者だった。
封蝋のされた封筒と、美しくラッピングされた大きな箱と小さな箱がいくつか入った紙袋を置いて、使者は帰っていった。
封筒には、1枚のカードと日時指定なしの帰りの汽車の切符が家族分、4枚。
カードには、アルティミシアに対する3日後のメルクーリ別邸での個人的なお茶会の招待と、都合が合わない場合は当日迎えに行った者にその旨を言付けてもらえばいい、という但し書き。あとアルティミシアが王都に滞在するのと同じ日数分の、宵の明星邸の一番いい夫婦用の一室をアルティミシアの両親のために確保してある旨が書かれていた。
それは私信ではなく、メルクーリ家からの正式な書状。
大きな箱には、一人で着られるタイプだが上質の外出用ドレスと、小さな箱にはアクセサリー一式。
まだ、ストラトス家から、「婚約打診」の返事もしていないのに。
アルティミシアは苦笑した。
怒りを通り越しての呆れに近い感情かもしれない。
婚約は確定。返事など必要とされていないのだ。
一方で、家族全員分の帰りの汽車の切符や両親の滞在費を持ってくれ、お茶会用のドレスとアクセサリーまで用意してくれる。
これは純粋な厚意で、気遣いで、貧乏伯爵家に対する施しではない。
何となくそんな気がした。ミハイルの、何を知っているわけでもないのに。
ただ、やっぱりストラトス家に拒否権はない。「こんなのいりません!」と突き返すことはできない。
(この婚約には無理がある)
アルティミシアは改めて思った。どこをとっても釣り合いがとれていない。
筆頭公爵家の嫡男の婚約者として取り込まれなければならないほどの、何の事情に自分が巻き込まれているのかは想像もつかないが、少なくともこの婚約、婚姻は公爵家にとって益がない。
「お茶会には出席します。メルクーリ様は話が通じない方ではないと初見では感じました。一目ぼれを口実にしてしまった以上それを覆すことはないでしょうが、それを盾に、『一時の気の迷いだった』だとして先方から解消いただけないかうかがってみます」
アルティミシアの言葉に、両親はうつむいた。アルティミシア本人が対処する話になって申し訳なく思っているのだろうか。両親が、急襲してきた公爵家嫡男に強く出られるはずがないからそこは一向にかまわないのに。
この時点ですでに婚約誓約書が交わされて提出されていたことを、アルティミシアは知らなかった。
「ちなみにだけど、アルティ」
「何ですか、お兄様」
「本当に一目ぼれっていう線は?」
アルティミシアはその可能性を考えたことがなかった。
自分はアトラスの記憶を取り戻した関係で、ミハイルに対して何となく初対面な感じがしていないが、イオエルの記憶を持っていないのだとしたら、ミハイルにとっては正真正銘の初対面。
確かに、何だかガン見されていた記憶はあるが、いや、でも。
「・・・ないと思いますよ? あったとしても、筆頭公爵家ですよ?」
そんな理由で婚約が成立するわけがない。だからそもそも考えもしなかった。
「そうか。本当に一目ぼれだったらいいなと思ったんだけど。・・・こっちから頼んで解消してくれるくらいなら、たぶんそもそも婚約打診なんてしてこないよ。公爵家ともなれば、指先一つ動いても周りに及ぼすその影響力を、わかっていないはずがない。でもどうせ決まった婚姻なら、それはアルティにとって幸せなものであってほしいと思って、ね。一目ぼれだったら、大切にしてもらえるだろうから」
ソールの、アルティミシアの頭をなでる手が止まらない。
言葉とその手の優しさに、うっかり涙ぐみそうになる。
「お兄様。言うだけ、言ってみます。私も直談判したからと言って婚約解消してもらえると確信しているわけではありませんが、こちらの意思表示をすることで、向こうの反応も見ることができるかもしれませんし」
「うん、わかった」
そうして、家族会議を終えた。
宵の明星亭にいる間は、まるで何もなかったかのようにその話題は避けられた。
かくしてメルクーリ家の、あの大きなガゼボでミハイルとのお茶会は催され、ソールの読みどおり、婚約解消の交渉は一瞬で没した。
宿に帰ったアルティミシアは「どうしてもっと早く婚約誓約書のことを教えてくれなかったのですか」と両親を詰め、平謝りされた。ちょっといい飲食店に連れて行ってもらい、ちゃらにした。
ソールは店の経営と商談でもう少し王都に残ることになり、アルティミシアと両親はありがたく汽車を使わせてもらって領に帰った。
ストラトス領に駅はないから、汽車に乗るのは王都から最寄りのランス領までだったが、それにしても快適な旅だった。
初めて乗った汽車は、不思議で、速くて、流れる景色がきれいで、席は揺れも気にならないくらいクッションが効いていて、飲み物も出て、何もかもに感動した。
もしかしたら、一生乗ることはなかったであろう汽車の体験は、沈みがちだったアルティミシアの心を少しだけ浮上させた。
ミハイルの気遣いに、感謝した。