56. 3年後
ルドヴィーク立太子から3年。
明日に結婚式を控えた昼下がり、アルティミシアは、ソールの建てた、王都にあるストラトス家別邸、別名果物御殿の応接室にいた。
「昨日お渡しできなくて申し訳ありませんでした。こちらが新しい味『ベリーチーズ』の基本レシピになります。ユリエ様にお渡しいただけますか」
アルティミシアはバラーシュ商会の担当者オットーに、薄い封筒を手渡した。
ダリルが「隊に欲しい」と要望していた保存食の堅焼きクッキーを、携帯食として再開発し、ユリエ経由でバラーシュ商会の商品として商品化してもらったのは2年前。
メルクーリ家の騎士隊に支給しつつ行った一般販売は意外に好評で、顧客のニーズを聞きながら新しい味を出してもう7種類目になる。
甘い系、おかず系を一回りして、今甘じょっぱい系に挑戦しているが、今回の『ベリーチーズ』は試食したダリルもお気に入りの一品だ。
オットーは封筒を受け取ると、裏返してしっかり封蝋がされているのを確認し、にっこり人の良さそうな笑みで言った。
「確かに。申し訳ありません、こんな所まで押しかけて」
全然申し訳なさそうではないが、嫌味に感じないところがこの青年の不思議なところだ。
「いえ。こちらこそ本邸までお越しいただいていたようで、ご足労をおかけいたしました」
「いやー初めて来ちゃいました、ユリエお嬢様がお住まいになるんですよね、ここ。近い将来」
「ふふ、そうですね。もうすぐです」
アルティミシアの結婚式は明日だが、ソールとユリエの結婚式は半年後だ。そうしたら、ここは二人の新居になる。
アルティミシアとユリエが学院を卒業してすぐの婚姻を、ミハイルとソールが争った。
王族が出席するレベルの結婚式を、同時期に行うことは難しい。
いつも「義兄上」とソールをたてるミハイルは、この時ばかりは頑として譲らなかった。
加えて、王族出席の結婚式をまさか自分がすることになるとは思っていなかったユリエが『アルティのを見て参考にしたい』とソールに訴えたため、ソールとユリエの結婚式は、半年ずらした気候の落ち着いた頃に決まった。
「すみません忙しいのにお引止めして! 確かにお預かりしました!」
ぺこりと頭を下げて軽い足取りで去っていくオットーの背中に、
「よろしくお願いいたします」
と、アルティミシアも貴族ではなく商人としてのお辞儀を返した。
「こんな日まで仕事かい? アルティ」
父パトリックがドアの陰から顔を出した。子供みたいな仕草なのに、妙に似合っている。
こんな人見知りの父が、2回も続けて王族出席の結婚式に出なければならなくなったことは、本当に申し訳ない。いや、半年後の式はアルティミシアのせいではないのだが。
「本当は昨日お渡しするはずだったんですが、私の都合で会えなくなってしまって。明日からは王都を少し留守にしますので、今日お渡しできてよかったです」
パトリックを伴って廊下を歩きだす。後ろから少し離れて、ダリルが付いている。
「まるで出張するみたいな言い方だね。新婚旅行だよ。楽しんでおいで」
苦笑する父に、アルティミシアはにっこり笑んでうなずいた。
「はい」
そんな風に聞こえてしまっただろうか。本当は、すごく、ものすごく楽しみにしているのに。
学院卒業前からマヌエルの仕事を手伝って忙しくしていたミハイルは、学院卒業後はルドヴィークの補佐官として勤め始めてさらに忙しくなった。
まとまった休みどころか普通の休みすらろくに取れず、とりあえず体を休めてもらいたいと思うほどの仕事中毒で、アルティミシアはミハイルの健康が心配で、新婚旅行など頭の隅にもなかったが、ミハイルはあっさりと結婚式後の2週間の休みをもぎ取った。このための仕事漬けだったようだ。
ミハイルと話し合って、行先は国内をゆっくりと一周することにした。
国外には聖女伝承のような想定外のリスクが潜んでいる可能性があるため、せっかくの新婚旅行は安全第一で、ゆっくりしようと決めた。
とはいえ、アルティミシアはストラトス領と王都以外は、それこそパヴェル領くらいしか国内でも行ったことはない。国内なので汽車も使える。行ったことのない場所に行けるのは楽しみだ。
何より、ミハイルとずっと一緒に過ごせるのは、パヴェル領から王都に帰る旅以来。しかもあれは観光旅行ではなかった。楽しくはあったが、ひたすらに帰りを急ぐ旅だった。
今回はエレンと、1年前に結婚したダリルとサリアが護衛と侍女として付いてきてくれる。
結婚後は、アルティミシアは今いる本邸から別邸に移り住むことになる。だから、新婚旅行にとどまらず、ミハイルとは別邸でずっと一緒に過ごせるようにはなるのだが、それでも、旅行となるとまた違う。
何度もスケジュールと荷物を確認して、サリアに微笑ましい視線を投げられるくらいには、楽しみにしている。
アルティミシアは軽くノックをした後、自分で広間のドアを開けた。
ここはソールの家だが、ソールは今日も仕事で家にはいない。
何度も訪れているアルティミシアにとっては、ここは勝手知ったる他人の家だ。
侍女はいない。ユリエが新居として移る際に連れてくる予定だという。
今は商業ギルドで雇った信頼できる掃除人に定期的に来てもらっている程度で、家の広さの割にはまったくと言っていいほど人がいない。ユリエが家に入れば、それも整っていくのだろう。
「お母さま。お待たせいたしました。お茶にしましょう」
広間に入り、アルティミシアが声をかけると、ソファに座ってくつろいでいた母アンジェラは、穏やかな笑みでうなずいた。
「私が淹れるわ。新しいフルーツティーをいただいたのを持ってきたの。あなたたちはそこで待っていて?」
立ち上がるアンジェラと入れ替わりに、パトリックがソファに座る。アルティミシアもその向かいに腰かけた。
「お母さまのお茶、久しぶりです」
アルティミシアが少しはしゃいだ声をあげると、アンジェラはにっこりと笑みを返した。
「新商品が出ると、ユリエさんが送ってくださるのよ。ありがたいことね」
「うちの子たちは、みんないい縁に恵まれたね」
ほんとにね、とアンジェラはパトリックに返事をかえし、広間を出て行った。
まるでストラトス領の実家にいるような雰囲気に、心が和む。ストラトス家も、家族の他に人はいなかった。それは、それほど広い屋敷ではないというのもあるし、経済的事情もあった。
特産品店と外交官のソールのおかげで今はもう困窮するような状態ではないが、新しく人を雇うことはしていない。
アルティミシアがここに来たのはつい先ほど。
結婚式に出席する両親に、宿に泊まるならうちを使えと、ソールが本人は不在だが邸を貸した。
誰もいない邸で不便はないかとアルティミシアは様子を見に訪れたのだが、すぐにアルティミシア宛てに来客が入り、対応を今終えたところだ。
「ソールは、明日ちゃんと出席できるのか?」
パトリックの問いに、アルティミシアはうなずいた。
「今移動中で、予定ではもう国内に入られているはずです。もうお戻りになってもおかしくない時間ですが・・・。おそらく今日中にはお戻りになるかと」
ソールがアルティミシアの結婚式に出られないなどあり得ない。世界の理を曲げてでも帰ってくるよ。
間に合わなかったらどうしよう、と不安を漏らしたアルティミシアに、そう言い切ったのはミハイルだ。
「そうか。みんな忙しいね」
ソールは、ルドヴィーク即位の際には外相として指名されることが決められてしまっている。
今は外交官としてあちこち飛び回ることも多く、王都にあるストラトス領の特産品店の経営がまわらなくなり、ユリエがストラトス領の特産品店の経営を引き継いだ。
ユリエは、新商品を実家に送ってくれているようだ。
「お父様たちは昨日こちらに?」
尋ねるアルティミシアに、パトリックは頷きを返した。
「うん。ミハイル様に汽車の往復切符を送ってもらったんだ。ソールの結婚式の時用の分も一緒に」
ミハイルの気遣いに嬉しくなる。
出会ってから4年。変わったこともあるが、こういうところは全然変わらない。
「シルフィーヌが残念がっていたよ。せっかく王都に行けるチャンスだったのにって」
「ご懐妊ですもの。仕方ありませんね」
アルティミシアは次姉のその様子が想像できて、くすりと笑った。
最近懐妊が判明したシルフィーヌは、アルティミシアの結婚式にも、ソールの結婚式にも出席できない。
王都には王立図書館があり、歴史的建造物も多い。歴史の研究に没頭するシルフィーヌが残念がっているのは、兄や妹の結婚式に立ち会えないことではなく、これらの場所に行ける滅多にないチャンスをふいにしてしまったことだ。
ソールやバラーシュ商会の会長が簡単に国外に出入りしたり、国内を汽車に乗って移動できるようになったことを考えると、世界は狭くなったように感じるが、一般的には旅をしないまま一生を終える人の方が多い。
魔族はいなくなっても、道中の盗賊や獣の危険はどうしてもつきまとう。自衛手段を持たない者が旅をすることは、無謀な行為と言える。
シルフィーヌの子育てが落ち着いたら、別邸にご家族で招待しよう、と思う。興味のあることに貪欲で、天真爛漫で憎めない次姉は、きっと目をきらきらさせて王都を巡るだろう。
「ダナは直行だね」
パトリックの確認に、アルティミシアはうなずいた。
「はい。侯爵家のタウンハウスから、ご夫妻でいらっしゃると伺っています。マリカ様はお留守番とのことで」
「ああ、聞いているよ。式の後、顔だけでも見に来ないかと言われているんだ」
「マリカ様は領ではなく、タウンハウスでお留守番なのですね」
「そのようだ」
「楽しみですね」
アルティミシアが微笑むと、パトリックは照れくさそうに笑う。
「そうだね。もう顔も忘れられてると思うけどね」
「ふふ」
長姉ダナは、当時数少なかったルドヴィーク派の侯爵家の次男に嫁いだ。
まだ幼い娘のマリカはアルティミシアにとって初めての姪で、両親にとっては初孫にあたる。
領地が遠く、アルティミシアも一度しか会ったことがない。
「あっと言う間だったな」
しみじみと言うパトリックに、アルティミシアは目を丸くする。
「何がですか?」
「気が付いたらおじいちゃんで、気が付いたらあんなに小さかった君がお嫁に行ってしまうんだよ。特にアルティは、14歳で家を出てしまったからね」
「お父様・・・」
確かに、アルティミシアがメルクーリ家の本邸の預かりになる、となった時、パトリックは何度もアルティミシアにそれが自分の意志であるかどうかを確認した。あの時は、自分に何もかもが足りないと思っていたから、自分の意志だから問題ないと言い通した。
何のためらいもなく親元を離れようとする娘に、父は複雑だったのかもしれないと、今なら思う。
言葉につまるアルティミシアに、パトリックは安心させるように微笑んだ。
「責めているのではないよ。そうせざるを得ない状況に持って行ったのは、私たちだ」
公爵家の申し出に、弱小伯爵家が断れるはずがなかった。そう何度言っても、パトリックは婚約誓約書にサインをしたことを、娘の将来をつぶすことになったかもしれなかったと後悔している。
「お父様に何かを強制されたことはありません」
婚約誓約書については、ミハイルにも事情があった。誰が悪いわけでもない。強いて言うならやはりマリクということになるのだろうが、それももう終わったことだ。
パトリックは軽く首を横に振った。
「それは運が良かっただけで、やはり父としては、やってはいけないことだったと今でも思っている。ミハイル様が本当にアルティを大切にしてくださる方だったから今があるが、そうでなければ、アルティを私の手で不幸にする未来があったかもしれなかった。アルティが許してくれても、私は私を許してはいけない」
アンジェラが、ワゴンを押して部屋に入って来た。
「娘の結婚式の前日に、あなたはまた小難しい顔をして、小難しい話をしているのね?」
ふわりと漂う甘いフルーツティーの香りが、空気をやわらげてくれる。
手慣れた様子であっという間に茶をカップに注ぎ入れると、アンジェラはワゴンをソファの脇に置いて、すとんとパトリックの隣に腰を下ろした。
「ねえアルティ、今幸せ?」
アンジェラの穏やかな笑みに、アルティミシアは深くうなずいた。
「だって私、明日結婚式の花嫁ですよ?」
聞いてくれた意図がわかって、答える声が少し潤む。
「ですって。聞こえました? それがすべてですよ。小難しい理論は必要ありません。あなたが何をしてもしなくても、ちゃんとアルティは道を切り拓いて、自分で幸せになってたわ」
にこにこと笑って「ね?」とこちらに目線を向けるアンジェラに、アルティミシアはこくこくとうなずいた。
やはりアンジェラは最強だ。
硬い表情をしていたパトリックは、反論することもなく仕方ないなというように苦笑している。だからと言って考えを変えるような人ではないが、今ここで言うことでもないと納得したのだろう。
もし婚約誓約書を迫ったのがミハイルではなかったら。ひどい未来が見えたなら。
(きっと私、戦いますよ、お父様)
途方にくれることも、泣き崩れて立ち上がらない選択も、たぶんしない。
だから。
(いつか、ご自分を許してあげてください)
ひどいことには、ならなかった。今アルティミシアの隣にいてくれるのは、ミハイルだ。
「本当は明日言うべきところだけど、あなた明日忙しそうだから、会えるかどうかもわからないし。今言っておくわね? おめでとう、アルティ。今幸せだと言ってくれるあなたが誇らしいわ。ずっと、幸せにね? でももしこれはもう無理と思うことがあったら、さっさと帰ってきなさい。嫁いでもあなたはずっと私たちの娘よ。いつ帰ってきてもいいの」
涙で視界がゆがむ。
「たぶんあまり喧嘩もしないと思うので、そうじゃなくてもたまには帰ってもいいですか?」
思ったよりも細い声が出て、アルティミシアは自分にうろたえた。
両親は、「たぶんあまり喧嘩もしないので」のあたりで顔を見合わせて笑った。
「喧嘩しないと帰ってきちゃいけないなんてことはないよ」
「いつでも帰ってきなさい。ミハイル様に心配かけない程度にね」
王都のメルクーリ本邸に行ってから、数えるほどしか帰ってこなかったくせに。とは言われなかった。
そのことが、とても嬉しい。頬を伝った涙がぽろりと落ちる。
「お父様、お母様。今まで私を自由にさせてくださり、ありがとうございました。これからも、よろしくお願いいたします」
明日言うはずだった言葉を、アルティミシアもここで言わせてもらうことにした。
「育ててくださり、じゃないところがアルティらしいわね」
「はぁ。3人目だよ。子の巣立ちを見るのは親の役目とはいえ、寂しいね。アルティはもう巣立ってるようなものだけど。このあとソールもか」
「あの子はこんなこと言わないわよ、たぶんね」
目を赤くしながら、軽い会話で流してくれる両親に、アルティミシアは感謝した。
明日結婚式なのだと、今さらながらに実感が湧いた。