38. 告白
アルティミシアが泣き止まない。
ミハイルが、話す途中からぽろぽろと涙を流し始めたアルティミシアを見かねて話の中断を申し出たが、続けてほしいと言われてしまった。続けるにも見ていられないので、ミハイルはアルティミシアの座る隣に移動して、緩く頭を抱きかかえるようにして、まるで幼子をあやしておとぎ話を話すような体勢で話を続けていた。
「俺が言うのもなんだけど、イオエルは自分で思ってるよりお人好しだよね」
イオエルの記憶を話し終えて、ミハイルはアルティミシアの頭をぽんぽん、と優しくなでた。
すり寄るようにアルティミシアが身を寄せてきて、愛おしさがこみ上げる。
ミハイルはアルティミシアのこめかみに口付けた。
するとアルティミシアの瞳からまた川のように涙があふれる。
「ごめん! 嫌だった?」
慌てるミハイルに、アルティミシアはふるふる、と首を横に振って顔を上げた。
「幸せすぎて・・・。私は私に関わるすべての人の気持ちの上に立っているのだと、改めてそう思って。もしアトラスが願わなかったら、イオエルが願わなかったら、ミハイルが私を見つけようとしてくれなかったら、女神が『考慮』してくれなかったとしたら。そのもしもの一つでも欠けていたら、今ここに私はいなかった。でもその感謝の気持ちと同じくらい、罪悪感もあるんです」
濡れたアルティミシアの目尻と頬を、ミハイルが優しくハンカチで吸い取る。
「罪悪感?」
「イオエルはもういませんが、ミハイルがかわりに聞いてくれますか?」
「うん?」
アルティミシアはありがとう、と言ってミハイルから少し体を離し、向かい合う姿勢になった。
「イオエルは、アトラスの最期の笑顔をとても気にしていたようです。アトラスはあの時、自分を呼ぶイオエルに、微笑んでいました。魔王を斃すことができたと確信した瞬間、まずイオエルが生きていることを確認しました。これからイオエルが生きていく世界の、脅威の大きな一つを取り除けたことが、アトラスにはとても嬉しかった。その、笑顔でした。魔王を斃すことは、最初はアトラスにとって押し付けられた使命でした。でも途中から、自分の意志に変わりました。女神のためでも、みんなのためでもなくなっていたんです。でもイオエルはそのことを知らなくて、アトラスが『みんな』の、女神の犠牲になったと心を痛めました。だから今度こそはと祝福を願ってくれた。痛みの上にあるそれを、私は感謝してしまいました。もしイオエルがアトラスの最期の思いを知っていたら、私はここにいなかったかもしれません。だから、イオエルが知らなくてよかったって、思って、私、ひど・・・」
泣きじゃくって最後は言葉にならなくなっているアルティミシアの頭をミハイルは再び抱え込んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
謝罪の言葉を繰り返すアルティミシアを見て、ミハイルの心に浮かぶ感情は、怒りではなく喜びだった。
それは、ミハイルがイオエルと別人格、だからではない。イオエルの記憶が、ミハイルと同調しているからだ。
「シア」
優しく呼びかけると、アルティミシアはわずかに顔を上げた。
「見て」
ミハイルは自分の頬を指す。そこには、一筋の涙。
「これは俺のじゃないよ、たぶん。イオエルの記憶の底にあるものじゃないかな。俺とイオエルは、自我は別人格だけど、同じ魂だからね。イオエルは、アトラスがあの時何を思っていたのか、今知ることができたのかもしれないよ。あと、シアが罪悪感を抱くくらいに今ここにいることを幸福だと思ってくれているなら、イオエルにとっても、俺にとっても、こんな嬉しいことはないんだよ。俺にとって、イオエルの記憶はもう俺の一部だから」
ミハイルが安心させるように微笑むと、アルティミシアはまたぽたりと大粒の涙を落とした。
泣かなくていい。ミハイルが願うのは、アルティミシアの笑顔だ。
ちゃんと話そう。過去にとらわれる必要はないのだと。もしもはない。築き上げられた必然の上に、今がある。
今までは、前世の話。これから話すのは、ミハイルの話。
「シアがアトラスの記憶に触れたのは1年前だけど、俺にイオエルの記憶が戻ったのは、もっと前。4歳・・・かな? だから、当時は混乱が激しくて、大変だった。まだ自我を確立しきってない幼児の頭に大人の、それもだいぶ昔の、魔族がうようよしてるのが常識の世界に住んでる大人の記憶が女神との対話もセットで入って来たもんだから、あの時のシアと同じ、倒れて寝込んだ。エレンによると、2日間一度も目を覚まさなかったらしい」
ミハイルの話に、アルティミシアはミハイルが渡したハンカチで顔の涙を拭き取り、聞く体勢を整えた。揺らいでいた金の瞳は、今光を強くしてこちらを見ている。
「ミハイルの、記憶を取り戻したきっかけは何だったんですか?」
「うん、そこはよくわかんないんだけど、イベントはあったんだ。誘拐されたんだよ、エレンが助けてくれたけど。エレンがいなかったら、俺あの時に死んでたか売り飛ばされてたと思う」
「・・・っ」
アルティミシアが絶句したところに、続きの部屋に通じる扉の方からこつん、と軽いノックが一度だけ聞こえた。
控えているエレンだろう。「あんまり刺激的なことを言うなよ? 余計なことも言うなよ?」という圧を感じる。ミハイルは苦笑した。
大丈夫。本当のきっかけは、誘拐されて、エレンに助け出された後。エレンから忠誠の誓いをもらった時だ。あの時に倒れた。それはアルティミシアにも、誰にも話すつもりはない。
「家に帰ってきてすぐ、倒れた。家族は誘拐されたことに対する精神的ショックによるものだろうと判断してくれたから、ちょうどいいと言えばちょうどよかったというか」
「ちょうどいいわけありません」
「ちょうどよかったよ。そのおかげであの後少しくらい言動が不自然でも、みんな納得してくれたしね。ほんとに、よくエレンが見放さずにいてくれたと思うくらい、わりと長い間混乱したんだ。イオエルの記憶と俺の自我は、今ははっきり分かれているけど、何しろ当時自我を育む成長過程だっただけに、判断基準とか、性格形成とか、影響を受けてないはずはないんだよ。もう俺の一部としてここにあるんだ」
ミハイルがこつん、と拳の裏を自分の胸に置いた。ひっくるめての、『ミハイル』なのだと。
「記憶の整理が落ち着いて、俺は内密に『銀の髪・金の瞳を持つ人』を探し始めた。記憶が戻った以上、たぶん祝福は正しく受けている。見守るべき人はこの世界のどこかにいるはずだった。自分の容姿を見て、同じ魂を持つ転生者は見た目もそっくりなんだとわかってたからね」
アルティミシアもこくりとうなずいた。だからこそ、彼女もミハイルをイオエルの転生者だと記憶を取り戻してすぐに気付いたはずだ。
「私が警備隊に捕まったのは?」
アルティミシアの問いに、ミハイルは苦い顔を隠しもせずに、ため息をついた。
あれがすべての元凶だ。あれもこれもそれもあいつが悪い。
「マリクのせいだよ」
「王太子殿下の?」
アルティミシアが小さく首をかしげる。
「『銀の髪・金の瞳を持つ人物』の探索の手を、国外にまで伸ばしてたんだけど、ずっと見つからなかった。今は魔族もいないし、珍しい色合いを持っているからといって忌避されることもないはずだったから、逆にすぐ見つかるんじゃないかとさえ思ってたけど、見つからなかった」
アルティミシアが少し照れたようにうつむく。
「私、領内でも引きこもりがちだったので・・」
本当にそうなのだろう。
ストラトス領ではずっと本を読んでいて、ソールの手伝いを始めたのもここ3年くらいのことなのだと、前に言っていた。ミハイルのように、前世の記憶があったわけでもないのに、12歳から経営に携わっていたことになる。
でもアルティミシアにとっては、それは普通で何でもないこと。
うん、そう言ってたよね、とミハイルは笑うだけにとどめた。
「そこに王都での目撃情報が入ったもんだから、俺もちょっと浮かれてしまって。捜査網を厳重にしたら、それをマリクにかぎつけられてしまった」
「目撃情報・・・王都に作った特産品店の最初の内見の時でしょうか」
「うん。・・・そうなのかな? その時の情報はあいまいで、『そんな感じの風貌の子供を見かけた』としかわからなくてね。でも子供ってことは、俺と同世代。祝福の『護りきること』を考えても、可能性としては高いと思った。そこに横入りしてきたのがマリクだ。俺に無駄に敵対心を持ってるあいつが、俺が探してる奴を探せって、こともあろうに警備隊を動かした」
「それで私」
「うん。エレンに聞いた。両脇抱えられて足が浮いてたって」
「そうなんです。逃げることもできなくて。エレンさんがいてくれて本当に助かりました」
当時のことを思い出したのか、アルティミシアはふっと笑いを漏らした。
少しではあるが、目の赤さもひいてきた。
やっぱり笑ってくれる方がいい。安心する。
「うん、でも俺は、エレンに連れられてきたシアが女の子で、びっくりしたんだ」
「そうですよね。あの時は私も違う意味で驚き・・・あ、だから、婚約誓約書を?」
アルティミシアの理解が早過ぎて怖い。
丁寧に、説明しないと。もう誤解を招くようなことはしたくない。
「うん、マリクに興味本位に手を出されたら守りようがないからね」
「どうしてあの最初のお茶会の時、はぐらかしたんですか?」
それはミハイルの黒歴史だ。
言葉がさくりと胸に刺さる。ミハイルは無意識に、かばうように胸に手をやった。
「たぶんまだ、シアの記憶が混乱してるだろうと思ったから。自分がずいぶん長いこと整理に時間がかかったから、シアもそうだと思った。あの時、『俺もイオエルの記憶戻ってるし、シアがアトラスの転生者ってことも知ってる。でも婚約して』って言って、受け入れられるとは思えなかった」
アルティミシアに婚約解消を持ちかけられて、心が折れて誤作動を起こしていたのもある、なんて、絶対に言わない。
声を殺して笑うエレンが扉の向こうに見える気がして、居心地が悪い。
「確かに・・・。あの時私はそういう意味で聞きました。『イオエルがアトラスと結婚できるのか』と」
やはり、まだあの時のアルティミシアの思考はアトラス寄りだったのだ。ずいぶんと回り道にはなったが、選択は間違っていなかった。
大事なのは、ここからだ。ミハイルは息を細く吐いて気持ちを落ち着けた。
「一番最初こそ、守る手段として、強引だったけど同意もなく婚約誓約書を出した。でも俺は、もうシアのこと、アトラスの転生者だとは見てないよ。シアは、シアだよ。出会うことができたからこの祝福には感謝してるけど、もうそれだけだ。俺は俺の意志で、シアと生涯ともに在りたいと思ってる」
きっともうアルティミシアだってわかっている。わかってくれている。
でも、言わなければ伝わらない。イオエルの意志でも、祝福の遂行でもない。
自分の意志なのだと、ミハイルの口から言わなければ、意味がない。
イオエルの記憶を共有した今なら、なおさら。
アルティミシアは少し驚いたように目を見開いていたが、嬉しそうに、花開くように笑った。
「プロポーズはもう受けましたよ? でも嬉しいです、ミハイルからその言葉が聞けて。私も、大好き」
あふれる笑みのまぶしさに、ミハイルは目を細めた。
幸福感にくらくらする。
この笑顔を、どんなことをしてでも守りきる。
そのためなら。
炎を内に抱えて、ミハイルはアルティミシアに壊れ物に触るような、触れるだけの優しいキスをした。