37. イオエル
アトラスは最期、微笑んでいた、ように見えた。
魔王戦。魔王城でのアトラスと魔王の戦いは、熾烈を極めた。
イオエルが治癒しても回復しても解毒しても解呪しても、アトラスはその身に傷を負い続け、ついには追い付かなくなった。
そもそも治癒には治癒される者の体力も少し奪う。治癒される本人の治癒力を前借りする形になるからだ。
治癒魔法を連発すればアトラスはそれだけ消耗する。それを補うための回復魔法をかけても、焼け石に水だった。
聖属性の魔法を使う僧侶のイオエルには、魔王を護ろうとする魔族が群がってくる。
自分が死んだらアトラスを癒せない。魔族討伐を自力で行いつつ、自分の回復は最低限にして魔力を温存した。
それでも、間に合わなかった。
魔王を斃したその時に、アトラスの体もぐらりと傾いだ。
イオエルは必死にアトラスの名前を呼んだ。
行かないでくれ。逝かないでくれ。
そう、思いを込めて。
倒れゆくアトラスと目が合った。
アトラスは、イオエルに微笑んだように見えた。
ほめてなんかやらないからな。
涙で視界が霞む。
イオエルは、魔王が斃されてもまだなおいる魔族の討伐に追われていた。
魔王がいなくなったからといって、魔族が瞬時にみんな消滅するわけではない。魔王は、ただのバカ強い魔族の一人に過ぎない。
アトラスに近づきたいのに、群がる魔族がそれを阻む。イオエルはメイスに聖属性をまとわせて、力任せに振り回した。魔族が大風に巻き込まれたように吹き飛んでいく。
ほめてなんかやらないぞ。魔王を斃したからって。
アトラスの最期の顔が目に焼き付いて離れない。
なぜ笑った。
魔王を斃して、女神の使命を果たしたからか。
みんなの願いをかなえたからか。
魔王がいなくなれば魔族は軍としての機能を失う。その、世界の平和の礎を築くことができたからか。
そんなもの。
そんなことを、お前が背負う必要はなかったのに。
魔族を振り払いつつ向かった、アトラスが倒れていたはずの場所には、なぜかもうアトラスはいなかった。
まさか、食われた?
イオエルは渾身の力を振り絞ってメイスをぶん、と振りかざした。
周りにいた魔族が吹き飛んだが、アトラスは衣服のかけらさえ見当たらない。
「イオエル!」
ベラの声が下から聞こえた。
アトラスとイオエルは城の最上部にいた。イオエルが声のした方向、大きな吹き抜けになっている城の真下を見ると、螺旋状の階段をベラとアレスが駆け上ってくるのが見える。
城の下部で雑魚の掃除をしてくれていたアレスとベラが、異変に気付いてこちらに向かってくれたのだろう。
城内にまだ魔族はいる。二人は少しでも数を減らすために、丁寧に応戦している。
イオエルたちに、退路を作ってくれようとしている。
「魔王はアトラスが斃した!」
イオエルは二人に叫んだ。
だから。だからもう。
アレスとベラが応戦しながらもちらちらとイオエルを見上げている。
イオエルは、アレスとベラに治癒魔法と回復魔法をかけた。少し、いやわりと距離があるが、問題なく彼らに届いた。
なぜかメイスは、この城に来てから魔力がみなぎって元気だ。アトラスを護りきることはできなかったが、メイスの性能は今までになく最高潮と言って差し支えない。
(これなら)
何とかなるだろう。こんな大技を試したことはないけれど。
「アレス! ベラ! 旅したのがあんたたちでよかったよ!」
イオエルはメイスに力を籠めつつ、叫ぶ。
「イオエル? あんた」
ベラが息をきらせながらこちらに急いで向かおうとしている。察しがいいのだ、ベラは。
今城に残っているのは、上級中級とはいえ、魔王には遠く及ばない魔族たち。
これを自分たちがすべて片付ける必要はないのだ。後は国でも何でも動いて軍をよこせば、みんなで倒せば倒せるはずだ。
自分たちの、アトラスの使命は魔王を斃すこと。
使命は果たされた。だから、アレスとベラは、もう解放されてもいいはずだ。
ここで、この少数で、みんなの無責任な期待を背負って命がけで戦う必要なんてない。
「頼む。頼むから、幸せになってくれ!」
それはイオエルの願いで、アトラスの願い。
この2人には、どうか幸せになってほしいと願う。
イオエルはすべての力をメイスに籠めて、アレスとベラに転送魔法をかけた。
補助魔法陣もない、ろくな詠唱もない、けれど、王都までとはいかなくとも、せめて、安全な所まで。
驚いた顔のアレスとベラが、透けて残像になって、消えた。
たぶん、大丈夫。成功した手ごたえはあった。
イオエルはメイスに籠めた魔力、体内魔力、生命力のすべてを使い果たした。
もう目を開けていられない。どさりと体が倒れる音がしたが、音だけで、体が地に付くその感覚はもうなかった。
イオエルは、目を覚ますと真っ白な世界にいた。
「は?」
がばりと起き上がると、空中に少女がぷかぷかと浮いているのが見えた。白い布を巻き付けたような服をまとった少女は、首をかしげてこちらを見ていた。
「起きんの早いわね?」
高い声が響く。
「あんた誰」
イオエルが不機嫌に尋ねると、
「この状況でそういうこと言えるのもなかなかよね」
少女は呆れたように言った。問いには答えないのかよ。イオエルはさらに不機嫌になった。
半身を起き上がらせた状態から、イオエルはあぐらをかいた姿勢に変える。
このどこからどこまでも真っ白なこの世界。あと何よりイオエルには直前の記憶もはっきりしている。
この少女が誰かなど、本当は疑う余地もないのだ。
だが。
「こんなちんちくりんに命令されてたのかと思うとやりきれねえな」
「あんたの見え方に問題があんのよ! どう見えてんのよ!」
手足をじたばたさせながらきゃんきゃんわめく女神に、イオエルは半目になった。
確かに造形は整っている。顔は幼いが美しいし、手足も細く長く、色気はないがしゅっとしている。
女神っぽいかと言われると女神っぽくはないが、人間の子供かと言われるとそれはあり得ない。
「まるで俺が悪いとでも言いたげだな」
「そう言ってんのよ。あたしは定まった形を持たないから、見る人間によって見え方が違うのよ。見え方、聞こえ方がよくないのなら、それはあんたに問題があんのよ」
俺、こう見えて僧侶だけど。
イオエルは言いかけて、やめた。確かに女神の敬虔な信徒かと聞かれるとそんなことはないし、女神だってそんなことは最初からわかっているだろう。
イオエルが僧侶になったのは、怪我を負っても病気になっても医者に診てもらえない『異形の子』アトラスを治すため、聖属性魔法を使えるようになるためだ。
別に女神を崇拝していたからではない。
「で、俺に何の用」
死後にまで呼び出すとは、人使い荒すぎか。イオエルはあぐらをかいた膝に片肘をついて、その手にあごを載せた。およそ女神に対する態度ではなかったが、女神は特にそれに腹を立てるようなことはなかった。
「あんたたちはあたしの願いをかなえてくれたわ。これでも感謝してんのよ。だから、あんたの願いもかなえてあげようと思って」
イオエルは顔を上げた。
「じゃあアトラスを生き返らせてくれ」
「一度死んだ者を生き返らせることはできないわ。あんたほんとに僧侶?」
「どの口が言ってんだ。願いをかなえてやるって言うからそれを口にしただけだろうが」
「いくらあたしでも、自分が創ったものの理を覆すことなんてできないわよ。だいたいそれは他人に対する願いで、自分に対する願いじゃないわ。あたしが聞きたいのは」
「祝福か」
「そうよ」
女神はこくりとうなずいた。
つまり、女神はこの魂が次に転生する時に、イオエルが願う祝福を付与してやろう、と言っているのだ。
本当に?
もし本当にそれが可能なら。
「仮にだが」
イオエルのつぶやくような声に、女神は首をかしげた。
「俺がまた生まれ直すことはできるのか?」
「それは生き返らせることとほぼ同義よ。無理」
女神の回答は早かった。それはそうかもしれない。
イオエルは納得した。
「じゃあ、次に転生するやつに俺の記憶を引き継がせることは、できるのか?」
それは、倫理的にぎりぎりのやつだ。イオエル自身も自覚している。
同じ魂であっても、記憶を消去され新しく生まれ変わる次の命は、イオエル個人とは別人物。別の、新しい人格だ。
その人格に、自分の記憶を引き継がせるなど。
もし自分がその次に転生する人格だったら、嫌かもしれない。
「できるわ。同じ魂だもの」
できるんかい。お前ほんとに女神か。悪魔のささやきをしやがって。
イオエルは悩んだ。そんなことできるわけないじゃない、と突っぱねてくれたら諦めもついたのに。
それでも。
あの、アトラスの最期の顔が忘れられない。
「なあ、別のこと聞いていいか?」
イオエルの問いに、女神はこくりとうなずいた。
「いいわよ?」
「なんで魔王を斃す勇者がアトラスだったんだ?」
イオエルは聖剣を抜けなかった。それは仕方がない。正直抜ける気はしなかったから、残念ではあったが、ああやっぱりとしか思わなかった。
だが、アトラスよりも強い戦士は、アレスもそうだったが、世界中には他にもたくさんいたはずなのだ。魔王を斃す気なら、他にも適格者がいたはずなのに。
「あたしが創った聖剣をうまく扱えるのがたまたま羊飼いだったということよ」
「・・・わかりやすく言うと?」
「あたしが何の女神か知ってる?」
僧侶にそれを聞くか。イオエルは脱力しながらも答える。
「博愛と調和だろ?」
この少女が博愛と調和というのも違和感しかないが。見え方がおかしいのはイオエルに問題があるかららしいので黙っておく。
「そう。その心を正しく持つ者。あたしの加護を受けやすい者。その者だけが、あたしの加護そのものでもある聖剣を抜ける。聖剣の能力を、余すことなく使いこなすことができる」
イオエルは目を見開いて固まった。
じゃあ。
「もしかして・・・アトラスより前にそういう心を持った者が聖剣抜きに来てたら、聖剣はそいつが抜いてたかもしれなかったってことか?」
女神はあっさりと首肯した。
「そうよ。だけどそういう考え方って無意味。聖剣を抜いたのはアトラスだし、アトラスは魔王を斃した。それだけが事実なんだもの」
イオエルの中で、ぷつりと何かが切れた。
「無意味なわけあるか! ふざけんな! アトラスじゃなくてもよかったんじゃねえか!」
あんな思いをして魔王を斃すのは、アトラスじゃなくても。他の人間でもよかった。
勇者と呼ばれるのは、弱くて優しい羊飼いでなくてもよかったのだ。
死んでからも涙は出るのだと、ぱたぱたと零れ落ちる雫を見て思う。
どうしてアトラスだけが。生まれてから死ぬまで、アトラスだけが、こんな思いを。
(守って、やれなかった)
守りたかった。守りたかったのに。
イオエルは乱暴に片腕で涙をぬぐった。
「俺は聖剣を抜けなかった。なのに聖武具を使えるのは何でだ?」
「勇者が仲間に選定した者だからよ。人を人とも思わない殺人鬼でも、勇者が選定したならあたしは加護を与えたわ。まあ勇者はそんなのは選ばないんだけど」
「・・・」
ちょいちょい大雑把だな、この女神。
もしイオエルが、もしかしたらアトラスが、生前心を病んで殺人鬼になっていたら、第二の魔王ができあがっていたかもしれない。その可能性は、考えなかったのか。
「あたしは、見守るだけだもの。干渉できるのは、ほんの最低限。それであんたたちが自滅するなら、もうそれはしょうがないじゃない?」
女神はまるでイオエルの心を見透かしたようにつぶやいた。少し悔しそうに言うのがまた人間くさい。
女神なのに。
こいつも精いっぱいやって、これなんだな。イオエルはそう思うことにした。
万能ではないのだ。
女神にもできることと、できないことがある。
そして、イオエルがこれから願うのは、女神に『できる』ことだ。
(ごめんな、次の転生者)
どうしても、かなえたい。もし気に入らないなら、無視してくれてもいい。それでも。
一縷の望みをかけて。
「俺の願う祝福は、次に生まれてくるアトラスの転生者の人生を、護りきること、だ。そのために、俺の記憶のすべてを、ここでのことも含めて、次の転生者に引き継がせてくれ。あと、それができるだけの能力も、増し増しで。押しつけがましいことはわかってる。やってくれるかどうかは次の転生者の判断に任せる。どうせもう俺の自我は消えるからな。どうなったかの顛末を、俺は知らなくてもいい」
女神は呆れたように息をついた。
「それって意味ある? あんたの次の転生者は嫌がってやらないかもしれないし、やったとして、アトラスの転生者にはアトラスの記憶はないのよ? 誰得って話よ」
博愛と調和の女神が誰得って。イオエルは苦笑した。
「意味はあるだろ。もし俺の次の転生者が俺の願いをかなえてくれなかったとしても、それができるだけの能力を持って生まれてくるわけだから、そいつはその分人生の選択肢が増える。俺は俺の転生者にも幸せになってほしいよ。かなえてくれたとしたら、アトラスの次の転生者は今度こそ、いい人生を全うできるかもしれない」
「本人に前世の記憶がなかったら、『今度こそ』なんて自覚もないじゃない?」
女神の言う通りだ。イオエルはうなずいた。
「ないな。いいんだそれでも。結局は自己満足だからさ、俺の。アトラスを護りきることができなかった俺の、後の魂に託すちっぽけな願いだ。アトラスの転生者が幸せに暮らしているなら、それを見届けるだけでもいい。次こそは幸せに生きてほしいんだ、あいつには」
記憶はないけどな、とイオエルが笑う。
「二人しておんなじこと言うのね」
ぼそりとつぶやいた女神の言葉は、イオエルには聞こえなかった。
「ま、いいわ。決めるのはあんたたちの後の世代よ。もともと祝福って、そういうものだし。承りましただわよ」
「あんたいい女神だな」
「どっから目線で言ってんの? それ!」
もー! という不満の声が、イオエルの最後の記憶になった。
イオエルは、最後の最後、笑っていた。