34. パヴェル邸
アルティミシアは目を覚ました。
天蓋付きのベッドだ。囲われた天井が見える。周りを覆う紗のカーテンの外から、日の光がかすかに漏れて、ベッドに射し込んでいる。
沈むようなベッドのクッションは心地よく、掛布には羽毛が使われていて、軽く、温かい。
起きる直前まで何かの夢を見ていたような気がするが、思い出せない。
上半身だけ起き上がると、銀の髪がするりと肩をすべった。
まとめてかつらに入れていたはずなのに。と思い至って、ふわふわしていた思考が瞬時に覚醒した。
「ミハイル!」
飛び起きて、紗のカーテンを引いてベッドから出ようとすると、部屋の隅に控えていた侍女が驚いたように駆け寄ってきた。
ぐらりと視界が揺れる。体が傾いだのだとわかった。立っていられなくなってへたり込み、深いじゅうたんの敷かれた床に手をついた。
「お嬢様! 落ち着いてください! 無理はいけません! 私がレギーナ様を呼んでまいりますから、どうかここでお待ちを」
侍女の女性の助けを借りて、ベッドに腰かける。
アルティミシアは柔らかい布で織られた寝衣をまとっていた。薄くはなく透けてはいないが、明らかに寝衣。確かにこれで外に出るのはよろしくない。
「申し訳ありませんが、お願いできますか? ここは、パヴェル邸なのですね?」
レギーナお嬢様と侍女は言っていた。意識を失った後、ここに運ばれたのだろう。
アルティミシアが確認すると、侍女はこくりとうなずいた。
「左様でございます。すぐに呼んでまいりますが、少々ここをはずします。お加減は大丈夫でしょうか」
「はい。じっとしている分には問題ありません」
アルティミシアが気遣いに感謝を込めて微笑みかけると、侍女は少しうろたえた。
「い、行ってまいります」
早歩きで歩いて行った侍女は、ドアを開けて誰かと話している。
「わかりました~」
かすかに漏れ聞こえたのは、ダリルの声だ。アルティミシアが眠っている間も護衛についていてくれたのだろうか。話しかけに行きたいが、いくら緩いダリルでもこの恰好で行くと困らせてしまうかもしれない。ぐっと我慢する。
侍女がドアを閉めて出ていくと、部屋にはまた静寂が戻った。
座る傍らにあったサイドテーブルに、黄緑色の柑橘の輪切りが入った水差しがあったので、伏せられていたコップに水を注いでこくりと飲んだ。ふわりといい香りがする。思ったより酸っぱくなくて、頭がすっきりする。
胃にものを入れたせいか、無性に喉の渇きと空腹を覚えた。
あれからどのくらい経っているのだろう。ミハイルは、ソールは、みんなは、大丈夫だろうか。
ここんっ と少しせっかちなノックの後に、返事を待たずにレギーナが入って来た。後ろには先ほどの侍女もついている。
「気分は? アルティ」
早歩きですたすた歩いてきたレギーナは、ベッドに腰かけたままのアルティミシアの正面で、真上から見下ろさない程度の距離を保って立ち止まった。
「レギーナ。ミハイルは」
言いさしたアルティミシアに、レギーナは一歩踏み込んで鋭いデコピンをくらわせた。
「痛っ」
以前ソールにやられたよりも数倍痛い。骨に響いた。ずっと後をひいてじんじんする。
額を指で押さえた視線の先、レギーナの後ろの侍女があわあわしているのが見えた。
レギーナは腰に手をやって、ずい、とアルティミシアに顔を寄せた。こわい。
「まず言うことがあるでしょうが。心配かけて?」
「ごめんなさい」
「助けてくれて?」
「ありがとう」
「今の気分は?」
「すっきりです」
アルティミシアの答えに、レギーナはにっこりと笑った。ちゃんと目も笑っている笑みだ。
「ならいいのよ。ミハイル様も、他のみんなも身体的問題もなく無事よ。相手方も含めて死者ゼロ。上出来だと思うわ」
「そう・・・ですか。よかった」
ほっとするアルティミシアに、レギーナは苦笑した。
「驚いたわよ。野営訓練でトラブルがあるかもしれないから心づもりだけはしといてくれって、ミハイル様から手紙はいただいてたのよ、パヴェル家宛てに。それがなんかもう戦闘始まってるし、大森林に騎士隊向かわせてみんな出払ってるところに王弟殿下とストラトス様と近衛の方が数人来て、近衛が多数の逮捕者を確保してるからって野営してる天幕に補給要請してくるし。それでばたついてるところに金髪2人担いだウィーバー様とダリルさんが来るし。1人はアルティだし。あの手紙一つでさすがにそんな心づもりできないっての」
流れるようなレギーナの説明に、アルティミシアは申し訳ないようなちょっと笑いたくなるような微妙な気持ちになる。
ミハイルが手紙を送っていたということは、ある程度は想定していたのだろう。ただ王族がからむことだけに、あと相手の仕掛ける規模やタイミングがわからなかったために、詳しくは書けなかった。
アルティミシアが来たことも、驚きの大人数投入で仕掛けられたことも、ダリルがその幾分かを蹴散らしたことも、王弟殿下が自ら訪れたことも、すべて想定外だった。
アルティミシアの存在がここにあるべきではない、とソールは判断したのだろう。
ミハイルの婚約者、伯爵令嬢が戦闘のあった森にいるには外聞がよろしくない。情報統制するには近衛にすら姿を見せないのが一番手っ取り早い。だから、王弟殿下とソールがまずパヴェル家に救援要請をし、後でエレンとダリルが秘密裡にアルティミシアとミハイルを運び込んだ。
そんなところか。
「ただその関係で」
レギーナは真剣な表情になった。
「ストラトス様に、アルティがここにいる理由と、アルティとミハイル様の倒れた理由を聞いたわ。最初はちょっと何言ってるかわからなかったけど、実際に戦闘は起こったし、二人して外傷ないのに昏睡状態なんだもの。信じるしかないわよね。医者も薬もいらないから寝かせとけって言われて」
「あ、あの、すみません。本当にいろいろと」
アルティミシアは頭を下げた。
それは、レギーナも王太子の陰謀と、アルティミシアとミハイルの転生者の記憶についてを知らされた、ということだ。
強く、口止めをされた上で。
知りたくもなかった秘密を聞かされて、黙っていろというのも理不尽な話だ。
「まあそれはいいわよ。どれも誰に言える話でもないし。あなたたちの件も、これも一種の個性だと思えば」
個性? 聖武具を出すのが? いや違うか。転生者の記憶があるということが、か。
斬新すぎる解釈だが、レギーナがそれで納得してくれているならいい、の、か?
「で、アルティ、話してて大丈夫なの?」
「大丈夫?」
「4日もずっと飲まず食わずで寝てたのよ。お腹減ってない?」
「4日?」
アルティミシアは呆然とした。思っていた以上に時間が経っている。
「そう。ちなみにミハイル様は昨日起きたわ。今はストラトス様と合流して対処にあたってる。逮捕者が怪我人多すぎて、野戦病院みたいになりそうだからって、軽症者と治療済みの人間から優先して、いくつかの班に分けてさっさと王都に輸送することになったの。その対処。だから今は会わせてあげられないのよ」
野戦病院・・・。
ダリルはアルティミシアに気を遣ってか、誰も斬らずに相手を沈めていた。だが容赦なく骨は折っていた、と思う。捕縛できない都合上、復活されると面倒だからだ。
「結局逮捕者は何人に?」
「53人・・・だったかしら?」
「・・・」
ダリルが冗談まじりに『これ下手するともう隊だよね~』などと言っていたが、隊ではない、団だった。
本当に、ミハイル一人のために、これだけの人数を?
「すべてシャンツの兵士ですか?」
「そこはまだ何とも。詳しい話もしたいけど、まずは何か食べない? お腹減ってないの?」
「ぺこぺこです」
アルティミシアが即答すると、レギーナは小さく吹き出した。
「丁寧にぺこぺこって言われると何だか・・。ミハイル様は全然足りないってがつがついってたけど、アルティはお腹がびっくりするから消化のいいものを、入るようなら多めに摂ればいいわ。湯浴みの準備もできてるけど、食事の準備をしてもらってる間に入っちゃう?」
「そんな贅沢が許されていいんでしょうか・・・」
つい心の声が漏れ出てしまった。
1週間の移動の半分を結局野営でこなすことになってしまった身としては、何もかもが準備されている状況にとまどってしまう。
レギーナは呆れたようにアルティミシアの顔をのぞきこんだ。
「・・・察するところはまあまああるけど、アルティあなた伯爵令嬢で次期公爵夫人だからね? しっかりしてね?」
「そうでした・・・」
ぽつりとつぶやくアルティミシアに、レギーナは小さく息をついた。
「晩にはみんな戻ってくるわ。晩御飯はみんなで一緒に食べましょう。時間はあるからゆっくり準備して。私もいろいろやることあるから行くわね。じゃ、あとお願いね」
レギーナが後ろに控えていた侍女に目を向けると、侍女は一礼した。
きびすを返して立ち去ろうとするレギーナを、アルティミシアは呼び止めた。
「レギーナ」
「うん?」
レギーナは首だけ振り返る。
「レギーナがいてくれてよかったです。本当にありがとう」
レギーナはいたずらっぽく笑う。
「王都でまたごちそうしてね」
「はい」
ひらひら、と手を振って去っていく背中をアルティミシアは笑顔で見送った。
ドレスも準備されていたが、レギーナが着ていたのが動きやすそうなワンピースだったので、それに倣ってアルティミシアもワンピースを借りることにした。ワンピースの品ぞろえがやけに多く、サイズも豊富だったので、侍女にレギーナのものかと確認したら、ドレスはそれぞれ作るからそうだが、何しろレギーナは七女なので、普段着るワンピースは上がみんな降嫁していることもあり、どれが誰のものやらもうわからないのだという。
おおらかな感じが微笑ましい。
数ある中から自分の背丈に合いそうなものを借りて着替え、侍女の先導を受け、ダリルに付き添ってもらい湯浴みに向かう。
ダリルがいつも通りのダリルで安心した。浴場までの行き道の、あまりに緩い会話に侍女が若干ひいている気配があったが、この緩さのおかげでアルティミシアはあの不安な状況を乗り切れたと言っていい。
4日も眠りこけていたせいで、ダリルも道連れで帰るのが遅れてしまっている。
サリアもダリルを心配していることだろう。早く、帰してあげなければ。
今アルティミシアにできることは、早く復調して帰途につくことだ。
(よかった、みんな無事で)
やることは山積みで、みんな動いていて、アルティミシアもまだダリルとしか会えていない。
(でも)
みんなで、誰一人欠けることなく帰ることができるということが、アルティミシアは嬉しかった。
夕食を前に、アルティミシアが借りている部屋を訪れたのはソールだった。
イオエルの、いやミハイルの魔法は強い。だからソールの無事は疑っていなかったが、それでも姿を見ると涙が出た。
立ったままぼろぼろと泣くアルティミシアを、ソールが笑いながら抱きしめる。
「あんまり寝坊だから、このまま目が覚めないんじゃないかと心配したよ」
ぽんぽん、と頭に手を乗せられて、また涙があふれ出た。
「もうどこも痛くも苦しくもないですか?」
声が子供みたいにぐずぐずになる。
「うん、傷跡すら残ってないよ。毒も、強い毒だったらしいが、あの後すぐもうぴんぴんしてた。殿下に泣いて損したって理不尽な文句を言われたよ」
王弟殿下が泣いたのか、とアルティミシアは微笑ましくなった。
「すごいね、ミハイルは」
ソールの言葉に、アルティミシアは頭を上げた。
ソールはアルティミシアの婚約後、両親顔合わせの後もずっと、ミハイルのことを「ミハイル様」と呼び、貴族的な対応を崩さなかった。妹の意思も問わずに婚約を強行した公爵家令息に対する壁があった、ように、アルティミシアには見えていた。それが。
アルティミシアの表情を読み取ったのか、ソールが苦笑した。
「命の恩人に願われたら言うこと聞くしかないだろう」
「ふふ。そうですか」
願われたからそう呼んでいる、というより、ソールがミハイルのことを認めたのだと感じられる。大好きな二人が仲良くなるのは嬉しい。
「今も、譲ってもらったしね」
「?」
アルティミシアが首をかしげると、ソールが部屋の外の方にちらりと目を向けた。
「アルティに会う権利を、先に譲ってもらったんだ」
「一緒に来たらいいじゃないですか」
「そういうことじゃないんだよ。アルティは男心がわかってないな」
いやそんなはずはない。前世はアトラスだったのだ。アルティミシアは思うが、考えてみればアトラスは人付き合いすら苦手というか人に避けられていたし、恋愛なんてものに関わったこともなかった。
「そういえばお兄様」
「ん?」
アルティミシアはそのことでふと思い出した。
ソールは大森林で言っていた。
『アルティがたぶん言おうとしていることは、俺も、ルドヴィーク様も知っているよ』
「お兄様はその、私に関する事情をご存じ・・だとおっしゃっていましたよね?」
それはどこまでだ。アルティミシアは気になった。
アトラスの記憶を持っていることなのか。聖痕にまつわることなのか。何を、どこまで。
「ああ、それはね・・・」
ソールは扉付近で控えていた侍女に、大事な話をするからと退室してもらった。
その上で、マグダレーナがデビュタントの時にアルティミシアの聖痕を見つけたこと、それを聞いたルドヴィークがソールとミハイルを事情聴取に呼び出したこと、そこでミハイルがメイスを出して「聖痕を持つ聖女」説を否定したこと、説のもとになったのはおそらく魔導師ベラであること、ミハイルがイオエル、アルティミシアがアトラスの転生者であることもミハイルから聞いた、と話した。
要するに、ソールは全部知っているのだ。それどころかアルティミシアが知らないことまで知っていた。
『聖女』、転生したベラの話を、アルティミシアは知らなかった。
転生前の、『ベラ』と『アレス』があの後どういう生涯をたどったのか、アトラスの記憶を思い出してから調べようとしたことはあったが、ベラが転生していたらしいことは知らなかった。
ミハイルがイオエルの記憶をとっくに取り戻していたということも、ソールはアルティミシアより早く知っていたことになる。
ミハイルは、どうして早くアルティミシアに言ってくれなかったのか。少しもやもやする。
「王家に伝わっているのはあくまでも『聖痕を持つ聖女が繁栄をもたらす』ということだけだ。アルティがマグダレーナ様に聖痕を見られた時、王太子殿下側の侍女にも聖痕を知っていた者がいたのかもしれない。なぜか王太子殿下にも『アルティミシアは聖女だ』という形で情報が伝わったようだ。そのことからミハイルの暗殺計画が持ち上がって、それをかぎつけたミハイルがルドヴィーク様に協力を願い出た」
「いろいろ、つながりました」
アルティミシアの聖痕を見たのは、おそらくマグダレーナと、あの灰色の髪に紅い瞳の侍女だ。
侍女の様子が途中からおかしかったのは、アルティミシアが「聖女」だと認識したからかもしれない。
ミハイルは、証拠を集めて王太子を逆に糾弾するために、知っていてあえて王太子の策略にのっかった。それだけではなく、ルドヴィークにも協力を持ちかけていたのだ。遠戚として、あと秘密の共有者として、おそらく、王太子の失脚をちらつかせて。
ルドヴィークは王位を望んでおらず、穏健派だという認識だった。だがミハイルに協力したということは、もしかしたら動く気になったのかもしれない。
アルティミシアにとってはありがたいことだ。マリクが王になる未来はあまり考えたくはない。
「で、お兄様は王弟殿下の側近ということでいいんですよね?」
自分をかばって死にそうなソールに涙を流したというから、ルドヴィークにとってソールは配下というより、友という認識なのだろう。大森林で、ずいぶん軽口を言い合っていた。
ソールはなぜかとても苦い顔をした。
「側近というか・・・まあ表立ってはないし、友人枠、というか」
言葉を濁しまくる兄に、アルティミシアは不思議に思いながらも言葉を続けた。
なぜこんなにうろたえているのか。何も悪いことではないのに。
「王弟殿下には公ではない私的な組織が存在すると聞いています」
それですよね?
アルティミシアが確認すると、ソールはずずんと音がしそうな勢いでうなだれた。
「なぜそれを」
「次期公爵夫人としての教育の中に、そういう『知っておきなさい』的な情報も含まれていまして」
「そうか・・・」
「そこにお兄様がいらっしゃったとは思いませんでしたけど。でも口外はいたしません。家族にも言いませんので、ご安心ください」
言ってみれば裏組織。きっと誰にも知られてはいけなかったのだろう。
ただ、『表』の代表格、近衛騎士の苦情を受けるくらいだから、内側はずぶずぶだろうが・・。
「私の秘密を内緒にしていただくかわりに、お兄様の秘密も私は誰にも言いません」
人差し指を唇に当てて笑うアルティミシアに、ソールはいくらか元気を取り戻したようだった。
「頼むよ」
穏やかな笑みは、いつもどおりの兄の笑み。
「私の秘密を知っても、変わらないで接してくださるお兄様が、大好きです」
アルティミシアの言葉に、ソールは苦笑した。
「当たり前だよ。アルティはアルティだよ。それに、義弟にも言われたしね。記憶を持っただけの、ただのミハイルとアルティミシアだと」
「!」
ソールの優しさにも、ミハイルの思いにも、言葉が出ない。
また涙腺が緩んだところで、ノックが聞こえた。
「しまった。夕食だな。ミハイルには謝らないと」
すべて俺が時間を使ってしまった、とソールは気まずそうに首筋をかいた。
その感じがあまりにも自然で、またアルティミシアは泣きそうになる。
「アルティは、侍女の方に目を冷やしてもらってからおいで。そのまま行ったら俺が責められる」
誰に、とは言わなかった。
それもまた嬉しくて、笑った拍子に目尻にたまっていた涙がぽとりと落ちた。