30. 国境の大森林
3泊4日予定の野営訓練、初日。
国境、パヴェル領の大森林、なかなか奥に入り込んだ、国境すれすれとも言える場所にテントは設置された。
今回この訓練に参加しているのは騎士科を選択している1年生のみ。長期休暇中ということもあり、やむを得ない事情、また遠方に帰省先を持つ者などは免除されているため、参加人数は18名と少なめだ。
もともとこの野営訓練は、1年生の肝試し的な色合いが強い。外で寝たこともない貴族の坊ちゃんばかりの1年生が、野営で洗礼を受けて、騎士科の厳しさを実感する。
ただ、騎士科を箔をつけるためだけに選択する者も多いため、これは1年だけで、上の学年に行ってももう野営訓練はなく、学院内での実践訓練しか行われない。
シャンツとの緊張状態もあり、国境での野営訓練はここ数年見送られてきた。それなのに、わざわざ直前で場所をここに変更し、国境付近まで入り込んでテント設営するなどと。
「わかりやすくてありがたい?」
エレンの軽口に、ミハイルは微妙な表情をした。わかりやすいがありがたくはない。
テント設営を終え、野外での簡単な煮炊きを実習し昼食をとった後、午後を過ぎた時点ですでにミハイルは森林の中一人きりになった。身を隠す必要もなくなって、エレンが堂々と隣を歩いている。目立たないために、エレンも騎士科の制服を身に着けている。参加している1年には「誰?」と言われるかもしれないが、外から来る連中には騎士科の生徒だとごまかせる。
午後の訓練のメニューは、3人1組でそれぞれ違うスタート地点から大森林を歩き、他の組と出会ったら先の丸い弓矢か木刀、または素手で制服に蛍光のインクを付ける。付けられた組は脱落。制限時間を過ぎた時点で、指定の場所に戻って来た無傷の組の夕食が少し豪華になる、というシミュレーションゲームだった。
制限時間まで残ればいいのだから、無駄にアクションを起こす必要もない。他の組に出会わないためにも歩かず警戒、向こうから来てしまった場合だけ対処すればいいとミハイルは主張したが、組のメンバーはいつもつるんでいる面子ではなく、教官に勝手に振り分けられた特に面識もない、名前しか知らないような同級生2人。それでは訓練にならないと意気込んで走り出し、あっという間にミハイルは一人残された。
今回の野営訓練についている教官は3人。3人ともメルクーリ家とは派閥が異なる。うちトップは王家、というより王妃の血縁にあたる。つまり王太子寄りだ。今まで騎士科にも隣国との関係にも興味を持ったことがないマリクの、『隣国と緊張状態にある今こそ次を担う若い世代がその空気を肌で感じて実践的な訓練をするべきだ』というわかったようなわからないような提言を受けて、野営訓練地の急な場所変更を聞き入れたのもこの教官だ。
3人1組の振り分けをしたのもこのトップ。
普段の騎士科の授業の時はここまであからさまではなかったから、何らかの圧力を受けているか、バルボラによっていいように使われているか。
ただこの野営訓練にはもちろんマリクもバルボラも参加していない。バルボラの術は至近距離で目が合う必要があるし、効いたとしても一時的なものだ。バルボラが使われていたとしてもせいぜい場所変更のところくらいまでだろう。
ミハイルの組の同級生2人が早々にミハイルから距離をとったのが、誰かの指示によるものなのか、本当に無鉄砲なだけだったのかはわからない。ただどのみちミハイルは1人になる必要があったので、むしろ向こうから離れてくれて助かったというのはある。
これからがんがん狙われる予定だ。下手にいられると動きを制限されるし、何より巻き込みたくはない。
ミハイルを狙いに来る者を捕獲し、証拠集め、証人集めをするのが今日のミハイルの仕事だった。
デビュタント以降、マリクがアルティミシアに特に興味を持っていることは知っていた。
あの謁見の時のマリクの、アルティミシアに対するくいいるようなまなざしは、今思い出しても気分が悪い。ミハイルの婚約者だからというわけではない、ミハイルが探していた「銀の髪・金の瞳」を持つ者だからでもない、あの時のマリクの目に宿っていたのは、アルティミシア個人に対する熱情だ。
学院内ではアルティミシアが一人にならないよう気を配っていたが、こちらからは何も言っていないのに、ユリエとレギーナがアルティミシアに張り付いてくれていた。そのおかげもあり、これといった動きはなかった。
ユリエとレギーナはデビュタントで起こったことについて、誰が主犯であるかを知っている。ユリエはソールと同行していたから、ソールとルドヴィークの関係も知っている。
あの2人は自らの判断で、アルティミシアを一人にしないことで彼女を守ってくれた。感謝しかない。
もともとアルティミシアには隠れて護衛をつけていたが、本邸にシメオンが来るとなって、マリクとのつながりやシメオンの影ゼノンの動きを警戒して、目に見える形で専属の護衛を配置した。
すると、シメオン経由でマリクが何かをしてくることはないが、シメオン自身がアルティミシアを待ち伏せて頻繁な接触をはかってくるという報告があがってきた。マリクへの抑止にはつながらなかったが、護衛をつけた意味はあったと安堵した。
野営訓練の準備や情報集め、長期休暇に入る前の公爵の執務補助の調整などで忙しくなり、ミハイルがろくに会えていないのに、シメオンが毎日のようにアルティミシアに会う状況など許せるはずがない。
向こうから来る分には避けようがないが、指一本触れさせるなとダリルに厳命した。
公表されるわけではないから知れ渡ることはないが、ミハイルとアルティミシアの間で婚約誓約書が交わされていることは、王族のマリクなら知っている。
通常高位貴族で婚約が確定した場合は、それが決まった時点、成人前なら双方がデビュタントを終えた後に公表がされる。
マリクがアルティミシアを欲しているのなら、このお披露目がされる前に邪魔なミハイルを何とかしたいはずだった。
マリクが動きを見せたのは、野営訓練の候補地変更だった。
その頃には、バルボラがベーム侯爵によって買われ、マリクに献上されたことがルドルフの調べによりわかっていた。王宮内では、バルボラはベーム侯爵の遠縁で、花嫁修業で侍女としてマリク付きになったことになっていた。娼館では貴族も相手にする。バルボラの客はそういう目的で来る客ではないが、対応するための教育は受けているはずだ。侍女として入っても違和感なくなじんでいるのだろう。
ベーム侯爵はもともとメルクーリ家と同じ中立派だったが、今はシャンツとつながっているという噂があると、エレンの報告を受けている。バルボラのこともその関係で知ったのかもしれない。ベーム侯爵家の領地は辺境パヴェル領に内側に隣接している。シャンツは、パヴェル伯爵は懐柔できなかったが、ベーム侯爵を懐柔した。
そして、ベーム侯爵はバルボラを手土産にマリクに近づいた。
シャンツが攻めてきた際に目こぼしを願うつもりなのか、戦争を起こしてシャンツが勝った際に何かご褒美をもらうつもりでいるのか、あのすかぽんたんを王太子に据える王家に将来を見出せなくなったのか。それはわからないが、何にしろベーム侯爵は祖国を裏切った。
マリクは自分の手を汚さずにミハイルを消して婚約誓約書を無効にできる、ベーム侯爵は隣国の兵を使って筆頭公爵家の嫡男を消すことで戦争の火種を作ることができる。しかも、マリクの指示で。マリクはばれないと思っているかもしれないが、本当に戦争になればベーム侯爵はさっさとマリクが首謀者だとそれらしい証拠を添えて噂を流すだろう。国は混乱し、戦争はシャンツに有利になる。
野営訓練のパヴェル領変更は、ミハイルを消すために準備をされたもの。
(俺は死なない)
今頃はストラトス領に帰省しているであろうアルティミシアを想う。
(もう少しだけ待ってて)
戦争も、起こさせない。魔族もいなくなったこの世の中で、また戦争なんかまっぴらだ。
ミハイルは、初日から仕掛けてくるだろうと踏んでいた。