23. 気付く
衣裳部屋を出たアルティミシアがミハイルに先導されてきたのは、高位貴族専用ではない、一般の馬車の乗り合い場だった。待っていたのも、公爵家の紋章のない、公爵家の手持ちではあるが、小さな馬車。
公爵家の紋章入りの大きな馬車が堂々と待っていて、それに乗り込んだら、メルクーリ家がデビュタントを途中退出したことが広く知れ渡ってしまうから。
(迷惑をかけてしまった)
アルティミシアはミハイルのエスコートを受けて馬車に乗り込んだ後も、申し訳なさに顔を上げることができなかった。
もう少しうまく対処ができたのではないか。取れる方法があったのではないか。
後悔が押し寄せる。
完全に、浮かれていたのだ。
デビュタントに向けていろいろな準備をする中で、ミハイルと直接ダンスの練習をすることもあった。
練習してどんどん息が合っていくのは達成感があったし、練習の合間に会話をするのも楽しかった。
何より、今日デビュタントで盛装したミハイルと、ダンスを踊れたのが嬉しくて、幸せで。
踊っている最中に内緒話みたいに他愛もないことをささやき合うのも楽しくて。
ディスピナには「楽しんできなさい」と言われつつも、王宮ではくれぐれも気を抜くことのないようにと注意を受けていた。
それなのに。
隙だらけだった。
「シア、大丈夫?」
向かいから気遣うようにかけられた声にも、アルティミシアは顔を上げることはできなかった。
「ごめんなさい」
つぶやくように言った言葉は、ミハイルには届かなかったようだ。
「え?」
「ごめんなさい。油断して、付け入る隙を与えるようなことになってしまって。私がもっと」
「シア」
少し強めに、ミハイルがさえぎった。
「シアが謝るようなことは何もない。・・・隣に行ってもいい?」
優しい口調に、アルティミシアは小さくうなずいた。
ミハイルは馬車に乗る時、いつも最初は向かいに座る。その後で、必ずアルティミシアに許可を取ってから、隣に座るのだ。一度も最初から隣に座ったことはない。
いつも、ちょっとしたことでも、息を吸うようにアルティミシアを気遣ってくれる。
ミハイルが動く気配がした。密着し過ぎない程度の距離を保って座っているのに、隣がなぜかほわりと温かい気がする。
「謝るのは俺の方だ。せっかくのデビュタントの楽しい思い出を、俺のせいで台無しにした」
「ミハイルのせいじゃありません!」
アルティミシアはばっと顔を上げてミハイルを見た。正面を向いているミハイルの横顔は、とても沈んだ顔をしていた。
こんな顔を、させたくはないのに。
逆恨みのような敵対心で、子供のような嫌がらせをしようとしたのはマリク。
ミハイルは、王族に目を付けられたただの被害者だ。アルティミシアだけではない。ミハイルにとっても、一生に一度の「せっかくの」デビュタントだった。
「もう少しだけ待ってて、シア」
「ミハイル?」
正面を向いたまま、目を合わせずに息を吐き出すように言うミハイルに、アルティミシアは不安になる。
「シアが憂いなく笑えるように、何とかするから」
見たこともない冷えた瞳は、ここではない何かを見ている。
アルティミシアは腕をつかんで呼び止めた。
「ミハイル」
(こっちを向いて)
そんなはずはないのに、どこかに行ってしまうような気がして、怖くなった。
ミハイルがいなくなる。
会ってまだ一年ほどしか経っていないのに、そんなことはもう考えられない。
考えたくもない。
そばにいるのが、当たり前で。
些細なことで、笑い合って。
(いつの間に)
こんなに大切になっていたんだろう。
最初はあんなにとまどっていたのに、もうミハイルはミハイルでしかない。
イオエルの言動と比べては、似ている似ていない、と検証していたのは遠い昔のようだ。
こんなに簡単なことだったのに。
アルティミシアはアトラスではない。
記憶としては確かにあるけれど、アイデンティティーを揺るがすようなことはもうない。
アルティミシアは、アルティミシア。
だったらミハイルは、ミハイルでしかない。
ずっとそばにいてほしいのはミハイル。
いつかミハイルにイオエルの記憶が戻ったとしても、待てる。
アルティミシアがゆっくりと自分を自覚したように、ミハイルが自分を取り戻すまで、待てる。
「シア?」
ミハイルがこちらを向いてくれた。気遣うようにアルティミシアを見ている。
いつも向けてくれていた、この瞳。
この瞳に、たぶんアルティミシアは捕らわれた。
湧き出るように、言葉があふれた。
「どうか、無理も無茶もしないでください。私も努力します、だから一人で頑張らないでください。お願いです、どこにも行かないで。私はミハイルがそばにいてくれたらそれでいい」
ミハイルは目を瞠った。すこしだけくしゃりと泣き笑いのような顔になって、その顔を見られたくないとでも言うように、ミハイルはアルティミシアを静かに引き寄せて抱きしめた。
「俺も。シアがいてくれたらそれでいい」
耳元でささやかれる声が心地いい。ほんのりと伝わる体温の温かさも心地いい。
アルティミシアは目を閉じた。
「デビュタントの思い出は、これに上書きされました」
伝えたいことを伝えられた喜びに、ほわほわとした気持ちのままつぶやくと、ミハイルが「俺死ぬんじゃないかな」何か言ったような気がしたが、アルティミシアには聞き取れなかった。
ミハイルが少し体を離して、アルティミシアを正面から見つめて、微笑む。
「じゃああと」
ミハイルはアルティミシアの額に口付けた。アルティミシアはそのあまりの顔の近さに目を閉じる。
くすぐったさに、口元を笑ませた。
「少しだけ」
そのまま左頬に。右頬にも。
「上書き追加」
最後にミハイルは唇に軽く触れるだけのキスをした。
幸福感に包まれる。
(もう少し)
アルティミシアは半分無意識で、まだ近いミハイルの唇に、自分から口付けた。
馬車が本邸に着くと、侍従より、アルティミシア付きの侍女サリアよりも前で、ディスピナと家令が待ちかまえていた。
ストールを片腕にかけ、長く垂らして前を覆った状態で歩いてきていたアルティミシアは、まだ少し距離のあるところで止まった。
隣を歩いていたミハイルも、アルティミシアに合わせて止まる。
あの後、アルティミシアはミハイルと、お互い何があったのか情報交換をした。その中に「家にはもうだいたいの情報は伝わってるから、説明も心配もしなくていい」というのがあったが、ディスピナに、さすがに足は開いていないし腕も組んでいないが仁王立ちのような感じで立たれると、威圧感がすごすぎて足が進まない。
「あの、ディスピナ様」
「遠いわ。早くこちらに来なさい」
ディスピナが表情を変えないまま言い放つ。やはり、怒っているだろうか。
(でも)
怒られるなら、ちゃんと怒られるべきだ。ディスピナは、くれぐれも気を付けなさいと言ってくれていたのだから。それを怠ったのは、自分。
覚悟を決めて、アルティミシアはディスピナの前まで歩み寄った。
「ただいま戻りました」
小さく礼をとって頭を上げると、ディスピナの目はストールに向いていた。
「おかえりなさい。そのストールは?」
「マグダレーナ様より賜りました」
説明はどこまでされているのだろうか。ディスピナはぴくりと眉を動かしただけだった。
「そう。それをのけて」
アルティミシアはそろりとストールをかけていた片腕を脇にずらした。ドレスのしみが露になる。
ぱきっ
軽快に聞こえた高い音は、ディスピナが持っていた扇子を折った音だった。
薄いとはいえ、木の板を何枚も重ねた状態である扇子を、片手で。
きちんと受け止めて怒られるつもりでいたが、少しだけふるりと肩が震えた。
「母上」
見かねたのかミハイルが声をかけるが、ディスピナは射殺すような視線だけでミハイルを制止した。
母が息子に落とす視線ではない。
「アルティミシアさん」
呼ばれて、扇子の木の屑がぱらりと落ちていくのを視界の端にとどめながら、アルティミシアはディスピナと目を合わせた。
「はい」
「あの王族の皮をかぶった性悪小僧相手に、よく頑張りました」
「っ!?」
(お、王太子殿下のこと、ですよね?)
アルティミシアが固まっているうちにも、ディスピナは話を続ける。
「ブラダ公爵夫人には私からも厚くお礼を申し上げましょう。名呼びを許されたのですね。そのお付き合いは大切になさい」
「はい」
ディスピナは、アルティミシアに怒っているのではなかった。
マグダレーナにメルクーリ家から公式に礼をすると、マリクのした卑劣な「厚意」を蒸し返すことになる。だから、ディスピナが私的に礼をすると言ってくれているのだ。いずれ義娘となる息子の婚約者に贈ってくれた、ストールのお礼を。
「パヴェル家とバラ―シュ家に対してはメルクーリ家から対処します。あなたは個人的な友人関係だけを気にかけなさい。ストラトス家にも知らせないわけにはいきません。私からお詫びを兼ねて連絡しますが、ご両親から何か聞かれたら正直に答えて大丈夫です。あとソール様にもお詫びとお礼を。ソール様にはあなたからも改めてご挨拶にうかがいなさい。ご安心なさるんじゃないかしら」
「・・・はい」
本当に。本当に、大切にしてもらっている。
実感して、目が潤む。そんなアルティミシアを見て、ディスピナは表情をやわらげた。
「疲れたでしょう。詳しい話やら何やらは後日にしましょう。今日はゆっくりお休みなさい。サリア」
「はい」
GOがかかるのを待っていたかのように、呼ばれたサリアがアルティミシアに早歩きで歩み寄った。
いつも無表情で仕事をするサリアの、労わるような苦笑いのような顔に、また涙腺が緩む。
「ミハイル。あなたには報告してもらいますよ。マヌエルが戻るまでに、その恰好何とかなさい」
「はい」
ミハイルが苦笑している。明かりの下では、やはり果実水の小さな染みがミハイルの服、腹部に付いているのが見えた。ここに染みが付くということは、アルティミシアとどういうことをしたのかというのが如実にわかってしまうわけで。
アルティミシアは顔が熱くなった。
「参りましょう」
サリアがいいタイミングで連れ出してくれて、助かった。