20. それぞれの思惑 ①
マグダレーナが部屋を出て行ってすぐ、口を開いたのはエレンだった。
「お嬢さん、無事でよかった。みんな心配してるから、伝えてくる。パヴェル嬢をほったらかしにしてるんだよ」
「ごめんなさい! 早く行ってあげてください! 後で直接謝りますが、二人にはせっかくのデビュタントを台無しにしてごめんなさいって」
アルティミシアが泣きそうになっている。
ミハイルは苦い気持ちでそれを見ていた。こんな、表情をさせたくはなかった。
「んー、一応伝えはするけど、お嬢さんが無事ならいいって言うんじゃないかな? みんな、お嬢さんを助けるために動いたんだ。そのことは、知ってて。直接言うなら、ありがとうの方がいいよ」
「・・・っ。はい。ありがとう、エレンさん」
エレンは応えるように、にっ、と笑った。
「ここ早く出ろよ、ミハイル。後は頼んだ」
「助かった、エレン」
ミハイルが力なく笑うのを見て、ぽん、と肩に手を置いた後エレンも部屋を出て行った。
そう、みんな動いた。動かなかったのは、ミハイルだけ。
ミハイルは、ひどく落ち込んでいた。
アルティミシアをみすみす手放して、その後も何もできなかった。
「ミハイル」
呼ばれて、ミハイルは自分がうつむいていたことに気が付いた。
アルティミシアが、心配そうにのぞき込んでいる。
大変だったのは、アルティミシアなのに。
(大変な目に遭わせたのは、俺のせいなのに)
自分自身への情けなさにたまらなくなる。
「シア、大丈夫? 何もされてない? 部屋に二人きりはまずいから、ここ早く出なきゃいけないけど、これだけは聞かせて」
自分で思っていた以上に細い声が出た。するとアルティミシアは微笑んでうなずいた。
ミハイルを、安心させるように。また気を遣わせていると、胸が痛む。
「すぐにマグダレーナ様が来てくださったので、平気です。何もされていません。でも、ごめんなさい。ドレスが」
アルティミシアの視線につられて、その派手にぶちまけられた果実水の紫に目をやる。
ふつふつと怒りが沸く。マリクにも、謝らせてしまった、自分にも。
「シアが謝る必要なんてない。もっといい思い出になるようなドレスを贈るよ。だから」
「ミハイル」
アルティミシアが珍しくミハイルの言葉をさえぎった。アルティミシアはうつむいていた。
「あの、少しだけでいいので」
ミハイルにしか聞こえないような小さな声でつぶやいて、アルティミシアは自分の額をこつんとミハイルの肩に載せた。
ドレスの汚れがミハイルに移らないように、おじぎをするような体勢で。
「こわかったんです。ドレスを着替えさせられそうになったことも、女性たちの様子がおかしかったことも、自分がミハイルに、メルクーリ家に迷惑をかけてしまうかもしれないことも、こわくて。でも、ミハイルを見たら、声を聞いたら、安心して、気が抜けてしまって」
耳元でささやく声に、たまらなくなってミハイルはアルティミシアの体を引き寄せて抱きしめた。
「ミハイル、汚れが」
「かまわない」
慌てるアルティミシアに、ミハイルはさらに腕に力を込めた。
気になるのは汚れで、抱きしめられるのはいいんだ、と頭の隅で思う。
アルティミシアは抵抗せずに、抱きしめられたままでいてくれた。
「ごめん。守れなかった」
息を吐きだすように言うと、アルティミシアが小さく首を振るのが振動で伝わった。
「ミハイルは何も」
「もうこんなことは二度とさせない、絶対にだ」
決意を込めて言った言葉を、アルティミシアはさらりと否定した。
「絶対はありません。だからミハイル、すべてから私を守りきろうとしないでもいいんです」
「それは」
そんな力が自分にはないからか。アルティミシアはたぶんそういうことを言っているのではない、わかっていても、今の自分ではどうしても否定的にとらえてしまう。
「私は、ミハイルが私のために無理をする方がこわいです。私のせいでミハイルやメルクーリ家の方たちに迷惑がかかるのがこわいです。だから、一人で頑張らないでください。私も努力します。回避する、努力。頑張りますから、だから、できたら」
アルティミシアは頭を上げてミハイルを見た。
「その時は、こうやって頑張ったねってぎゅっとしてほしいです」
(幸せすぎて死にそう)
共にいるための努力をする、と。そう言ってくれた。それが望みだと。
婚約からは逃げられないと悟ってのことだろうか。それとも。
伝え続けた思いが、少しは通じているということだろうか。
マイナスは、いつの間にかプラスに転じていたのだろうか。
柔らかい感触とその温かさに、満たされる思いがする。
同時に改めて決意する。もう、優先順位は見誤らない。
「うん。でも、俺は必要ならちょっとだけ無理はするよ。そしたらシアも、俺のことこうやって頑張ったねって労って」
言ってみたら、アルティミシアは苦笑した。
「はい。でもちょっとじゃなかったら、止めますよ?」
「うん」
「・・・ここ、出なきゃいけませんよね」
アルティミシアがそのままの体勢で言う。お互いに離れ難い気持ちが伝わって、顔を見合わせてくすりと笑い合う。
ただ、アルティミシアが言ったことは事実だ。こんな所を他人に見られたら婚約中とはいえ大惨事だ。
「汚れをストールで隠して帰ろう。馬車を待たせてる。そこで、ゆっくり話を聞かせて?」
「はい。汚れは移っていませんか?」
「服の色が濃いから移ってても夜だしわからないよ。大丈夫。行こう」
二人は衣裳部屋を出た。
***
マグダレーナが王宮に準備された専用の部屋に戻ってくると、ソファに座った弟が優雅にお茶を飲んでいた。
今日はデビュタントだ。
一応王族の公式行事だからマグダレーナもこの弟、ルドヴィークも出席はしているが、本日の主役は成人した少年少女。自分たちが出張る必要は基本ないが、くつろぎすぎではないか。
マグダレーナはすでに降嫁しているため、王宮に専用の部屋を持つことはしていない。が、ルドヴィークはたいがいの年齢だが婚姻もしていないため、きっちり自室を持っている。
そこでゆっくりしていればいいのに。呼ばれたら出ていけばいい。
「おかえり姉上。どうだった?」
ルドヴィークは持っていたカップを優雅に置いた。
落ち着いた様子を演出してはいるが、さすがに付き合いの長いマグダレーナにはわかる。
弟は、そわそわしている。
「私にもお茶をいただけるかい?」
マグダレーナが戸口に控えていた侍女に声をかけると、侍女はかすかに頬を赤くして「ただいま」と小さく応えると部屋を出て行った。知らない顔が増えた。降嫁して七年になる。
(そりゃそうなるか)
マグダレーナはルドヴィークの向かいのソファに腰かけた。
「国の至宝が溺愛するだけのことはあるね。なかなか見応えのあるお嬢さんだったよ」
遠戚であるミハイルとは幼い頃からたまに会う程度の付き合いだったが、ただただ華やかに美しいだけ、ガラス玉の目をしたビスクドールのようだったあの少年に、感情の炎をともしたのはアルティミシアなのだろう。ミハイルも、いい顔つきになっていた。
「姉上がそういうんだったら、相当だね。まああのソールの妹だからね」
「あのお嬢さんはもう別格だよ。ミハイルと同じ、女神に愛されし子だ」
「へえ」
ソールはルドヴィークの影の側近だ。ルドヴィークは近衛とは別に、公にしない小さな組織を作っている。
学院時代、最上級生だったマグダレーナは、自分の美意識にかなった、当時新入生だったソールにちょっかいをかけた。その関わりで同じく新入生だったルドヴィークの目にもとまり、その能力をかわれてとりこまれた。頑なに拒否していたソールは、妹ダナの望む婚姻をとりもつことを条件に、折れた。ダナが恋焦がれた男性は、ルドヴィーク派の侯爵家の次男だった。3人もいる妹たちすべてにシスコンというのも、大変な話だ。
しかも、末の妹はあのアルティミシア。あまりにも美しい者を『女神に愛されし子』という言い方をすることがあるが、彼女はまさにそれ。しかもそれを鼻にかけることもなく、素直で聡明。ソールの苦労は絶えないだろう。早いうちに老け込まないといいが。
(シルバーグレイのナイスミドルになるならいいけど、毛量が寂しくなるのは目の保養的に困るな)
勝手なことを思っていると、向かいでルドヴィークが足を組んで片ひじをつき、手にあごを乗せた。
行儀が悪い。マグダレーナは苦笑した。だが今さら注意する気は起こらない。
「それは、マリクが手を出したくなるのもわからないでもない? くらい?」
ルドヴィークの質問に、マグダレーナは片眉を上げた。
ルドヴィークがマリクのことを直接話題に出すことは珍しい。
現国王陛下シュテファンとマグダレーナ、ルドヴィークは異母兄妹だ。シュテファンが正妃の子供で、マグダレーナとルドヴィークは側妃の同腹の子供。シュテファンと二人の歳が離れているのはそのせいもある。
シュテファンには正妃の息子マリクと、側妃にももう一人幼い王子がいる。
国王の異母弟ルドヴィークと正妃の子マリクは、年齢が近いこともあり、王位継承争いが起こることを怖れ、シュテファンはマリクを成人してすぐに立太子させた。
正妃ラウラはルドヴィークを警戒している。ルドヴィークが命を狙われたことも一度や二度ではない。
だからルドヴィークは自衛のために私的な組織を作ったが、それがまた王位簒奪を疑われる要因になってしまい、悪循環となっている。ルドヴィークに王位を望む気持ちはまったくないのだが、そう言って信じてもらえるほどラウラは甘くない。不安要素はすべて排除して安心したいタイプの女性だ。
かといってラウラは正妃。こちらから手は出せない以上、おとなしくしているのが一番平穏だ。
安定した国を、平和な生活を保つために、マグダレーナもルドヴィークも、シュテファンの家族、特にマリクとは、必要最低限の接触におさえるようにしている。
そのルドヴィークが、今回のことには興味を持ったらしい。
「あれはアルティミシア嬢に手を出したというより、ミハイルの大事なものを自分も欲しくなった、っていうのが正解な気もするけど」
マグダレーナの言葉に、ルドヴィークは小さく息をついた。
「しょうもないな」
「あの子はいつもしょうもないよ」
言ったところでノックが鳴り、お茶のワゴンを侍女が運んできたため話は一時中断した。
マグダレーナは、てきぱきとお茶が準備される様子を眺めていた。
マリクは何不自由なく育てられた。将来は王になるのだ、国の頂点になるのだと、周りに群がる馬鹿な大人たちにもてはやされ、いい気になっていたところをミハイルの登場によりへし折られた。
優れた容姿、品格、歳に似合わない冷静で的確な受け答え。そのすべては、マリクが持ち合わせていないもの。
行き過ぎた憧れは強い嫉妬になり、憎しみに変貌した。
近づこうとは、己が努力しようとは思わないのか。物欲しそうに指をくわえるその前に、人のものを欲しがるその前に、自身にできることはないのか。
黙っていれば放っていても王になれるのにちょっかいを出さずにはいられないし、ルドヴィークはまだしもなぜか公爵家のミハイルにまで、その椅子を取られるのではないかと恐れている。
(美しくない)
マグダレーナは美しいものが大好きだが、それは見た目だけの話ではない。
現に、ミハイルは人形のようだと称された昔より、人間くさい表情をするようになった今の方がずっと美しい。
「ありがとう」
ふわりといい茶の香りが漂っている。
王宮にいた時はしなかったが、降嫁してから素直に礼を言うようになった。侍女は驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうに微笑んで一礼する。
目下の者にすぐ謝るのは問題があるが、礼を言ったとて品格が下がるわけでもない。だが王宮を出るまで、マグダレーナはそのことを知らなかった。夫がしているのを見て、美しいと思ったのだ。
王宮は、閉じた世界なのだと思う。
侍女がワゴンを引いて退室したのを見計らって、ルドヴィークは口を開いた。
「結局何をしたかったったんだ、あいつは」
「内鍵こわして部屋に入ったら、マリクの髪色をした下品なデザインのドレスが吊ってあったよ。アルティミシア嬢はたくさんの侍女に囲まれて、服を脱がされそうになるのを必死で抵抗してた」
「それは災難だったな」
ルドヴィークは呆れた顔をした。しょうもな、と顔に書いてある。
そう、傍目に見ればそれだけのことなのだ。ミハイルの美しい婚約者に、明らかにマリクを想像させるドレスを「事故」であれ着せれば、ミハイルの面子はつぶれるし、マリクがその婚約者を所望しているのだとにおわせることができる。婚約していても、王族なら略奪は可能。
罪にはならない。嫌がらせを兼ねた横恋慕。ただそれだけのこと。だとしたらあれは・・・
「でも、確か婚約誓約書提出されてるんだよ、ミハイルとストラトス嬢。突然だったらしくて、ソールが珍しく調べてほしいって俺に直談判しに来たんだよ」
「!」
マグダレーナは持ち上げようとしたカップを再び置いた。かちゃりと音を立て、茶の水面がさざめく。
「姉上?」
らしくない行動に、ルドヴィークが手にあごを置いたまま、小さく首をかしげる。
本当に行儀が悪い。でも今はそれどころではなかった。
「それ、いつのこと」
「んー、1年前かそこらじゃないかな?」
「詳しく」
「何、どうしたんだ姉上?」
ルドヴィークは姿勢を正して座り直した。
「ルド。さっき、はずされてた背中のリボンを私が直したんだ」
「ん? ああ、ストラトス嬢のことだな。うん」
「彼女の背中、腰に近い左側に、聖痕があった」
マグダレーナは確かに見た。コルセットに隠れるか隠れないかの場所に、それを見つけて驚いた。
「聖痕? ・・・間違いないのか?」
さすがにルドヴィークも表情を改める。
「あの複雑な紋様を見間違えはしないと思う。小さかったけど、あれは痣じゃない」
「本気の『女神に愛されし子』じゃないか。あっ、だからマリクが?」
マグダレーナは首を横に振った。
「わからない。このことをマリクが知っていたのかもわからないし、そもそもあの子が聖痕の存在を知ってるのかどうかもあやしいし」
「あー、あいつ勉強してないからな・・。でもそうなると、今度はミハイルの動きがあやしくなるぞ」
聖痕の紋様と、それを持った者が過去もたらした奇跡について、知る者はごくわずか。王族でも直系にあたる者に限られる。
「ミハイルは、アルティミシア嬢に聖痕があると知ってて婚約誓約書で囲い込んだってことかい? いやでも、ミハイルは公爵家だ。聖痕にまつわることも紋様も知らないだろうし、そもそもアルティミシア嬢が聖痕を持っていることを誰が知ってるのかって話だよ。聖痕の紋様を知ってて、かつなかなか肌を見せることのない女性の背中を見ることができるなんて、それこそ私くらいのものだよ。それも偶然にだ」
マグダレーナの言葉に、ルドヴィークは低く唸る。
「紋様は、本当に広まってないと言い切れるか? ストラトス嬢の家は、『知のストラトス』だぞ。知ってる可能性は」
「なくは・・・ないかもしれないな。あそこの家系には歴史学者もいただろうし。ただ、アルティミシア嬢自身はたぶん自分の背中に聖痕があることを知らないよ」
「何でそう言いきれる?」
「まったく隠しもしていなかったし、私が王妹と知っていて、背中を見せることにも抵抗を見せなかった」
「ミハイルは知っているのか。あとソールは知っているのか、だな。まずはソールに聞いてみるか。一年前のことを考えると、知らない線が濃厚だけど」
「それを詳しく聞かせて」
「いいよ、時間はあるし。あ~、俺は静かで穏やかな生活をしていたいだけなんだけどなあ。周りにざわつかれるのは困るんだよ」
ルドヴィークは天を仰いで小さく息をついた。