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19. 王太子の悪意

 アルティミシアは女性たちに囲まれるようにして、いくつかある控室のうちの一室に連れ込まれた。 

 室内に入ってすぐ、内鍵がかけられる。

 入った先、壁際には、なぜかドレスがトルソーにかかっていた。

 鮮やかな赤のグラデーション。肩が大きく出た、蠱惑的なドレスだ。


 この赤は。

(王太子殿下の)

 王太子マリクの髪色は、ちょうどこのドレスの一番濃い赤の部分の色と酷似している。

(まさか)


 アルティミシアが背筋をのぼる寒気に体を震わせた時、一人の女性が話しかけてきた。

「お体が冷えてしまったようですね。いけません。今ご用意できるのがこれしかありませんので、早くこれに着替えましょう」

 棒読みのように聞こえなくもない口調。事務的と言えばそうなのかもしれないが、言葉通りの気遣う感情は感じられない。


 これしかありません? すでに用意されていたのに?

 アルティミシアの中で怒りがたちのぼる。

 これは、あからさまな嫌がらせだ。ミハイルに対する、マリクの。

 ミハイルの婚約者に、これを着せて表に出すつもりか。


 ささいではあるが、そこに感じられるのは大きな悪意。

 噂好きの貴族の口にのぼればあっという間にそれは広がる。それは形を変えて原型をなくして、メルクーリ家に悪影響を及ぼす。


 そもそも王家に抗議などできるわけもないが、グラスをこぼしたのはデビュタントの参加者で、王宮に勤める者ではない。つまり王宮に非はないのに、「厚意でドレスが汚れてしまった令嬢に対して適切に対処した」、それは美談。美談に、文句をつけられるわけもない。


(そんなの、許さない)

 美談になど、してやらない。

(絶対着ない)

 アルティミシアは意識して微笑んだ。そんなの申し訳ない、と言いたげに。


「ありがたい申し出ではあるのですが。体調があまりよくないので、本日はもうお暇させていただこうと考えておりました。着替える体力もないのです。帰りの馬車も待っておりますので、このまま」

「いけませんよ? このままだとお風邪を召してしまいます」

 先ほどとは違う女性がアルティミシアの前に立ち、アルティミシアの言葉をさえぎった。


 この女性だけ、他の女性と何か雰囲気が違う。灰色の髪、紅い瞳が印象的な女性。

 他の女性たちは、どこか焦点が合っていないような、ふんわりした表情をしているが、この女性だけは目の光がはっきりしている。アルティミシアを、まっすぐに見ている。

 目が合う。目は笑っていないのに、濃いめの紅を刷いた口元だけ口角が上がる。


ぱしっ


 小さな音がした。

 アルティミシアは顔の前で何かが弾かれたような刺激を受けて思わず目をつむった。

 顔に当たってはいないから痛くはないが、驚いた。何が起こったのだろうと目を開くと、前にいる女性も大きな紅い瞳を見開いている。彼女も何が起こったのかわからず驚いたのだろう。


 アルティミシアは下を向いたが、何かものが落ちている様子もない。

 ぶちまけられた果実水が派手にドレスを汚しているのが目に入って、悲しくなった。

 ミハイルが、いろいろ考えた上でこれを贈ってくれた。独占欲の塊と言われようが何だろうが、アルティミシアがこれを着ることで、ミハイルに、ひいてはメルクーリ家に大切にされているのだとデビュタントで大々的に知らしめる意図があった。

 

 たとえ「一目ぼれ」ではなかったとしても、策略の中で行われた婚約だったとしても、ミハイルはいつもアルティミシアのことを考えてくれる。疎いアルティミシアでも、さすがにもうわかっている。

 きっかけはどうであれ、ミハイルはアルティミシアを想ってくれている。


「お嬢様」

 目の前の女性に話しかけられて、アルティミシアは顔を上げた。

 また、目が合う。


ぱしっ


 今度は火花のようなものが目の前で散ったのが見えた。

 やはり痛くはないが、何が起こっているのかわからない。

 アルティミシアが目を瞬かせていると、目の前の女性は、怯えをにじませて後退った。

(何かしたのは、この人?)

 触れられてもいない。わからない。


 でも、隙はできた。この間に、何とかして外へ。

「着替えましょう」

 うろたえる女性をよそに、ほかの女性たちがアルティミシアのドレスに手をかけた。

「けっこうです。私はこのまま帰ります」

 操り人形たちが動いているような光景に、ぞくぞくする。


 女性たちの一人が、かまわずアルティミシアのドレスを脱がせようと背中のリボンを解いた。

 アルティミシアは振り切るように、体をぐるんと回した。

「ひっ」

 紅い瞳の女性が声をもらした。体を回転させたことで背中を向けた状態だったため、表情までは見えなかったが、この状況で出る悲鳴ではない気がして、アルティミシアはこれにも違和感を覚える。

 悲鳴を上げたいのはこっちだ。

 とにかく気持ちが悪い。しいて言えば、禍々しい。何なのだ、この人たちは。


(ミハイル)

 心細くなって、心の中で名前を呼ぶ。

 そういえば、ミハイルは大丈夫なのか。意図的に引き離された、その後。

 マリクが「伝えておく」と言っていた。それは明らかに親切心ではない。


 背中のリボンを解かれてしまって、部屋の外にもこのままでは出られなくなった。

 ここから一刻も早く出たいのに。どうすれば。

 女性たちにこれ以上好きにさせないよう抵抗しているところで、がちゃりと鍵の開く音がして、すぐにドアが開いた。


「ああすまない。部屋を間違えたようだ。ん? 大変なことになってるね、きれいなお嬢さん」

 快活に言って、部屋に入ってきたその女性はすぐに後ろ手にドアを閉めた。アルティミシアの姿を見ての配慮か、彼女が部屋に入ったことを外に知られないためか。


 間違えて入ってくるも何も、この部屋には内鍵がかかっていたはずだ。それをわざわざ開けて、「間違えて」入って来た。

 味方、か? でもアルティミシアに面識はない。

 つややかな黒髪、紫玉の瞳。精悍な、という表現が似合う、ほれぼれするようなきりっとした顔立ちの、背の高い女性だった。


 着ているドレスはほっそりした体に沿うようなドレスだが、使われている布の精緻な模様が光を反射して何とも美しい。さらりと肩からかかった薄手のストールが腕に軽く巻かれて、強調された体のラインを意識させない、上品な仕上がりになっている。

 その女性と、背中を開けられ、デザイン上ずれ落ちはしないが前を押さえるようにして立っていたアルティミシアの目が合った。


 彼女が言う「大変」が「ドレスを汚されて大変」なのか、「脱がされかけて大変」なのか、「趣味の悪いドレスを着せられそうで大変」なのか、「この状況自体が大変」なのか、もうアルティミシアにはわからない。困惑して立ちすくむ。

 諸悪の根源は王族であるマリク。この女性が味方かどうかもわからないし、もしそうでも、助けを求めたら彼女にも迷惑がかかるかもしれない。


「で・・・殿下」

 紅い瞳の女性が小さくつぶやいた。呼びかけるというより、独り言のようだった。

(殿下?)

 アルティミシアは改めて女性を凝視した。本当に「殿下」なら不敬きわまりないが、この際仕方がない。

 王の子供に女子はいない。つまり王女はいない。王家で女性の「殿下」がいるとしたら、王妹だ。

 だが、王妹殿下はすでに降嫁しているはず。

 そして王妹殿下は派閥でいうと同腹である王弟殿下側。王太子殿下寄りではない。


 メルクーリ家本邸で、次期公爵夫人としての教育を受けている。王族の家系の近いところ、また派閥などを把握するためにも子爵家より上の家はだいたい覚えている。だから、わかる。

 教育の采配をしてくれたディスピナに、改めて感謝した。


「もう殿下ではないけどね。ずいぶんおかしな状況のところに来てしまったようだが、誰か説明はしてもらえるのかな?」

 問うてくれた。この方は味方だ。アルティミシアは判断した。

「発言の許可をいただきたく存じます」

 アルティミシアが言うと、女性はおもしろそうだ、というように口角を上げた。

「許そう」 

「私はストラトス家三女、アルティミシアと申します。あなた様はブラダ公爵夫人とお見受けいたします」

「うん、合ってる」

 口元に笑みを浮かべて、ブラダ公爵夫人はうなずいた。


「私はこのように、グラスを持っていた方とぶつかってしまい、ドレスが汚れてしまいましたところを通りがかった王太子殿下のご厚意によりこちらまでご案内いただきました」

「そう。それは災難だったね。それであのドレスに着替えようと?」

 ブラダ公爵夫人がくい、とあごでマリクが用意したのであろうトルソーにかかったドレスを示した。

 何あれ、とでも言いたげな視線に、アルティミシアは小さな笑みだけ返した。

 マリクの侍女たちがいる前で賛同はできない。


「何ぶん急なことでしたので、ご準備いただけるものに限りがあったようです」

 紅い瞳の女性は硬い表情でこちらのやりとりを見つめている。

 相手は元王妹殿下で公爵夫人。親しい間柄でもないのに許可もなしに発言はできないし、逃げ出すこともかなわない。他の女性たちも所在なく立ちつくしているが、彼女らはやはり無表情。


 ブラダ公爵夫人は貴族の笑みではなく、ただ楽し気な笑顔を見せた。

「婚約者も決まっていない王太子がドレスを何着も持っていたらそれはそれで問題だからね、無理もない。ちょうどよかったよ。これは私が宮中にいた頃は有名な話だったんだが、私は昔から美しい者を着飾るのが大好きでね。大半は公爵邸に持って行ったがまだ宮中にも少しあるから、よければでいいんだが、少し私に付き合ってくれないか?」

(最高)

 アルティミシアは安堵した。こちらの意図を察しての、誰にも、王太子にも瑕疵を与えないお申し出だ。


「私などでかまいませんならば、喜んで」

 アルティミシアは背中が開いている状況のため、小さく腰だけ落として淑女の笑みで応えた。

 ブラダ公爵夫人はそれに気付いたのか、アルティミシアに近づいて、後ろに回った。

 夫人手ずからアルティミシアの背中のリボンをきれいに戻そうとしてくれている。


「まるでお人形みたいだね。・・・あれ」

 言ってブラダ公爵夫人は一瞬手を止めたが、また手慣れた手つきで作業を進めていく。

「ブ、ブラダ公爵夫人?」

 体を動かすこともできずに、アルティミシアは首だけを後ろに向けた。

「マグダレーナと呼んでくれていいよ。言ったよ? 着せ替えには慣れている」

 それをまさか本人がやるのだとは、さすがにアルティミシアも思わない。


「ほらできた。前を隠すのにはそうだね、これを使うといい」

 あっと言う間にドレスを直して、マグダレーナは羽織っていたストールをしゅるりと抜くと、かるく折り合わせてアルティミシアに手渡した。

「お召し物が汚れます!」

 アルティミシアは万が一にもストールがドレスにかからないように受け取った両手を持ち上げた。

「大丈夫。防水・撥水仕様だ」

 防水・撥水仕様。どこかで聞いた単語だが、だからと言って、じゃあ、というわけにもいかない。


「でも」

「これを見せて外を移動するのは差しさわりがあるだろう? 本当に大丈夫だ、ほら」

 マグダレーナはアルティミシアの手からストールを取り上げてドレスの汚れの上にあてた。

「~~~っ!」

 声にならない悲鳴をアルティミシアは上げたが、マグダレーナがストールの汚れに接した面をくるりとひっくり返すと、本当になにも付いていなかった。

「じゃ、他の者はもう戻っていいよ。このお嬢さんは私が借り受ける。マリクには最近会ってないけど、よろしく言っておいてくれ」

 女性たちに言い置いて、マグダレーナはアルティミシアの肩を優しく抱いて部屋を出て行った。



 部屋を出ると、二人の護衛騎士が待機していた。マグダレーナ付きの者だろう。

 先ほど部屋に入ってきた時にすぐドアを閉めたのは、彼らを締めだすため。彼らにアルティミシアを見せないため。

 アルティミシアが礼を言おうとすると、マグダレーナは肩を抱いたまま、やわらかく笑って首を振った。

「まだだよ。着せ替えたいと言っただろう?」

 耳元でささやかれると、どきりとする。女性なのに、ほだされそうだ。


 人気のない通路を迷いなく歩いていく。

 会場からはもう離れていたが、行き先は同じ離宮内、そう遠くなかった。

 先を歩いていた騎士の一人が部屋の前でノックする。

 音もなく開いたドアの先にいたのは、カイルの恰好をしたままのエレンだった。


 マグダレーナはアルティミシアを伴って部屋に入った。エレンがドアを閉める。

 護衛騎士二人は外で待機のようだ。

 本当にここは衣裳部屋のようだ。いくつものドレスがハンガーにかけられている。

 その部屋の中央には、ミハイルとエレン。


「ミハイル、これは貸しだよ」

 マグダレーナはにこりと笑って、肩を抱いたままだったアルティミシアをそのまま優しく前に押し出した。

 ミハイルは深く最上礼をとる。

 気安い空気。マグダレーナとミハイルは遠戚にあたるため、付き合いがあるのだろう。ミハイルがマグダレーナに助けを求めてくれたのだろうか。

 窮地を脱した安心感で物思いに沈みそうになっていたアルティミシアは、はっと我に返った。

 ゆっくり振り向いて、ストールは片手に持ったまま、できうる限りの最上礼をとる。


「マグダレーナ様。助けていただきましたこと、深く感謝申し上げます。改めてまたお礼をさせていただきますことを、お許しいただけますでしょうか?」

 アルティミシアがゆっくりと顔を上げると、マグダレーナの嬉しそうに笑う顔があった。


「では礼に、一日私のために時間をくれないか。今日はさすがに拘束するわけにはいかないからね。他の日で一日、私の美しい人形になってほしい。おいしいお茶とお菓子と食事も用意しよう」

 要は着せ替えまくりたい、ということか。嗜好の話だから、さすがにディスピナの入れた教育課程の中にこの情報は入っていなかったが、マグダレーナは本当に女性を着飾るのが好きなのだろう。

(ご自身もとても美しいのに)

 魅せ方を知っているからとても似合っているが、マグダレーナ自身は「着飾る」という感じではない。


「もちろんでございます。マグダレーナ様のご都合のよろしいお日にちをお知らせくださいませ」

「約束だよ、アルティミシア嬢」

 こんなことで喜んでいただけるなら、1日でも2日でも着せ替え人形になろう。ふわりと笑みをかえすと、マグダレーナは一瞬真顔になり、ミハイルにずい、と歩み寄って耳元で何かをささやいた。

 何事かと振り向くと、ミハイルはめずらしく渋い顔をしていて、エレンは隣で苦笑している。

 仲がいいのだな、と少し嬉しくなる。


「使わないとは思うけど、ここにあるドレスに着替えるのなら好きにしていいよ。侍女を呼ぶ必要は?」

 マグダレーナはミハイルに尋ねた。

「ございません。このストールはお借りしても?」

 ミハイルは目で、アルティミシアの持つストールを示した。


「はは、そうだと思った。そのストールは私よりもアルティミシア嬢に似合っているから進呈しよう。さっきも言ったけど、それは防水・撥水加工がされている。洗濯したい時はバラーシュ商会の専門窓口に連絡すると聞いてるから、そのように」

「承知いたしました。ありがたく頂戴いたします」

 ミハイルは再び深く礼をとった。


 バラーシュ商会。ユリエの家の商会だ。こんな所で出てくるのか。

 しかも、メルクーリ家が出資している防水撥水加工部門・・

 ユリエとレギーナは心配しているだろうか。

 というか、『カイル』がここにいるが、レギーナは大丈夫なのか。

「じゃあ私はこれで。約束だよ、アルティミシア嬢」

 からりと笑い、部屋を出ていくマグダレーナに、アルティミシアは礼をかえした。

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