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16. 保健室

 ユリエ・バラーシュは困惑していた。

 保健室で、女性教諭も困惑していた。

 目の前には、制服のスカートからぼとぼとと水滴をたらして立つアルティミシア・ストラトス。


「一体、何事ですか」

 白衣を羽織った少し年配の女性教諭は、言いながらもすぐにタオルを棚から取ってきてアルティミシアとユリエに渡した。

「先生、まず着替えを」

 言いかけたユリエをさえぎって、アルティミシアが話し出す。

「私、1-Aのアルティミシア・ストラトスと申します」

 ユリエはたぶん学内全員が知ってると思うよ、と思ったが、黙っておいた。


「この方、クラスメイトのユリエに私の大切な書類を預かってもらっていたのですが」

 変なことを言い出した。あと自分の名前をフルネームで把握されていたことに驚く。

「ユリエのかばんは何者かに奪われて噴水に・・・。その時に居合わせてはおりませんでしたが、通りがかった私はユリエがかばんを取りに噴水に入ろうとしているのを見て、反射的にユリエを突き飛ばして私が入ってしまいました。あのかばんには、私にとって大切な書類が入っていたのです。それをユリエが取り戻そうとしてくれていたので、つい」


 羽交い絞めにされた記憶はあるが突き飛ばされた記憶はない。ここは「ユリエも取りに行こうとしたんだけど」、という脚色が必要なところなのだろう。そこは嘘ではないからまあいいが、すらすらとよく出てくるもんだと感心する。


「すみませんでした、ユリエ」

「・・・」

 急に話を振られて、ユリエは曖昧に微笑んで首を横に振った。

(ああ、キレイな顔)

 正面から見ると、実感する。


 アルティミシア・ストラトスは1年生ながら、学内でもかなりの有名人だ。

 成績優秀で入学試験はトップ3に入っていたという。しかも「国の至宝」ミハイル・メルクーリ筆頭公爵家嫡男の婚約者。

 本人はこれが原因で周りから遠巻きにされていると、諦めに似た境地で静観しているようだが、ユリエはもっと単純な話だと思っている。


 さらさらと流れる艶やかな銀の髪、光に反射して色を変える大きな金の大きな瞳。幼さは残しているが、国の至宝と並び立って遜色ない、整った顔立ち。ミハイルは華やかさが先に立つが、アルティミシアがまとうのは静謐な空気。

 男子はミハイルに牽制されて近づけないし、ミハイルを狙おうとしている女子もミハイルに牽制されて近づけないし、そのほかの女子は彼女の持つ雰囲気に圧倒されて、気後れして声がかけられない。

 それだけの話だ。


 学院内は、建前上貴賤がない。貴族の派閥があろうが貧富の差があろうが、話しかけること自体を禁じられているわけではない。不敬を問われることもない。

 ただ、気持ち的にそれができないだけで。



 女性教諭は、アルティミシアの話を聞いて顔をこわばらせている。

 ユリエにも、さすがにアルティミシアの意図することがわかった。

 アルティミシアは、自分が「被害者」になることで、ユリエの日常を表沙汰にしたのだ。


 ユリエは男爵家とはいえ商家の娘だが、アルティミシアは伯爵家で公爵家嫡男の婚約者。

 目撃者もいる。教諭たちは、見て見ぬふりはできないだろう。

(でも、なんで自分がずぶ濡れにまでなってまでして、こんなことを)

 その時軽いノックとともに、一人の女生徒が保健室に入って来た。


「先生。またちょっと打ち身を・・・あら、ごめんなさい先客がいたのね・・・どうしたの?」

 入ってきたのはユリエと同じクラスのパヴェル伯爵令嬢だ。確か、名はレギーナ。

 ユリエはクラスメイトの全員の名を覚えているわけではなかったが、自分と同じく一匹狼なので、彼女のことは何となく知っている。

 レギーナはスカートも床もびしょびしょにして立っているアルティミシアに目を丸くしていた。


「噴水に入ったら、濡れてしまって」

 事情をはしょり過ぎた事実のみを述べるアルティミシアに、レギーナは呆れたように笑った。

「当たり前の話ね。早く着替えた方がいいわ」

 何それ詳しく、と聞かないおおらかな優しさが、レギーナにはあった。


「それが、着替えがなくて。厚めの寝衣なら、あるのですが」

 女性教諭が口ごもる。寝衣はここのベッドで制服のまま眠らないためのものだろう。

 令嬢がそれを着て外に出られるわけがない。

 保健室はずぶ濡れの人間が来ることを想定していない。

 制服の場合、男女すべてのサイズを取り揃えて常備するのも難しいだろう。


「私持ってるわよ、制服じゃないけど」

 また変なことを言う人が現れた。ユリエはレギーナをいぶかしげに見た。

「制服じゃない何を持ってんの?」

「私放課後に、騎士科の訓練に許可を得てまじらせてもらってるの。体なまっちゃうから。さっき訓練で使ったのは洗濯出したから、それと交換で洗濯できたやつを、ロッカーにしまってる」


 マイ訓練着を、自分が属してもいない騎士科の洗濯係を使って洗い回している人がここにいた。

 そういえば、パヴェル家は武門で有名な辺境伯家だったか。

 またノックが響く。普段からこんなに保健室は盛況なのだろうか。


 ノックの後、扉を開けて入ってくる様子がない。男子生徒か。

 ユリエが扉を開けに行くと、そこにはミハイル・メルクーリが立っていた。走ってきたのか、微妙に息が荒い。

(顔の圧がすごい・・・あと色気)

 ユリエはのけぞりそうになるのをすんでで耐えた。正面から見たら石になるやつだ。


「シアが、ここにいるって聞いて」

 手には平べったい袋を持っている。布・・・もしや着替えの制服か。

 だとしたら用意周到だ。アルティミシアに訓練着を着せなくてもよくなる。

 どうやって手に入れたのかは気になるが。

 ユリエはミハイルに入室を促した。


「シア」

 アルティミシアは厳しい顔をしたミハイルに臆することもなく、色気に惑わされることもなく、ふわりと笑った。ただ来てくれて嬉しい、の顔だ。

(うわーこれは)

 同性が見ても倒れるやつだ。

 見ると、ミハイルですら少しこの笑顔にやられている模様。わかる。

 でもすぐに立ち直ってミハイルはアルティミシアに袋を差し出した。

「制服。これに着替えて、脱いだやつはこの袋に入れて。俺は外で待ってるから、今すぐに」


 出て行こうとするミハイルを、アルティミシアが呼び止める。

「ミハイル。これ、私の制服ですね?」

 アルティミシアが袋を開いて、首をかしげる。

「エレンが・・・」

 ミハイルは先を濁した。お付きの人に取ってきたもらった、ということなのだろう。


「ああ、後で謝っておきます。ありがとうミハイル。状況説明は?」

「今は必要ない。だいたい把握してる。着替えたら一緒に帰ろう。俺も今日は本邸に寄る。あとシア」

「はい」

「このやり方は駄目だ。二度とやらないでほしい」

 見ている方がくらくらするような懇願の表情を浮かべられても、アルティミシアは動じなかった。

「私の案件です」

 ユリエではなく。


 ユリエの案件を、アルティミシアが体を張って自分の案件にした。

 表沙汰にして、今後こういうことをやめさせるために。

 そう言っているのが当事者であるユリエにはわかったが、それはミハイルにも通じているようだった。

「シアが言ってくれれば」

 ミハイルの言葉に、アルティミシアは目を伏せて小さく首を横に振った。


「私はまだメルクーリ家の者ではありません。その力は使えません。自分の持つ手駒の中で、使えるものを最大限に活用しろと、ディスピナ様に教わりました」

「母上が言ったのはたぶんそういう意味じゃない」


 そうでしょうね・・・。『ディスピナ様』はおそらく体を張れとまでは言っていないだろう。アルティミシア以外のここにいる全員がそう思ったはずだが、アルティミシアはうなずかなかった。この見た目で、意外に頑固なのかもしれない。


「でも・・・っくしゅん」

 言葉の途中でくしゃみをしたアルティミシアに、ミハイルは顔色を変えた。

「ここまでだ。話は後。今すぐ着替えて。帰ったらすぐ湯浴み。いいね?」

 ミハイルは早口でまくしたてると、アルティミシアがうなずくのを確認もしないまま部屋を出て行こうとした。

「ミハイル」

 アルティミシアがまた呼び止めた。


 ミハイルは今度は振り返らないまま話す。

「話は後に・・・」

「心配かけてごめんなさい」

 かぶせたアルティミシアの言葉に、ミハイルは立ち止まって振り返った。


 仕方ないなあと困ったように笑うその顔は、歳相応に見えた。

「うん。心配した。俺もきつい言い方だった。ごめん。後でね」

 ミハイルは今度こそ保健室を出て行った。



「なんかいいもの見せてもらったわね」

 数瞬の沈黙ののち、レギーナがつぶやいた。ユリエもうなずく。

「間近で舞台を見ていた感」


 そのアルティミシア(ヒロイン)を見ると、何の躊躇もなく脱いで、タオルでふいてミハイルにもらった制服に着替えようとしている。濡れているのはスカートの下側と靴下、靴。下着までは脱ぐことはないから、すぐに着替え終わるだろう。

 そこに貴族らしい優雅さはない。

 それを少しの間眺めていた女性教諭は、はっとして慌てて保健室のドアの内鍵を閉めに行った。


 レギーナはレギーナで、「そうそう私打ち身でここに来たのよ」と袖をまくって二の腕まで見せている。

 白い腕に、赤黒いあざが痛々しい。訓練で負ったのだろうか。

 そこにもやはり貴族らしい優雅さはない。

「あなた傷が絶えないわね・・・」

 女性教諭も気持ちを切り替えたのか、慣れた手つきで手当てをしている。


(貴族もいろいろってことか)

 入学早々「成金が」「庶民風情が」と罵られ、理不尽な理由で会ったことも話したこともない生徒たちから嫌がらせをされた。文句を言おうにも言っていく場所もなく、いちいち怒ってやる価値もないと、スルーすることにした。


 ユリエは一人娘だ。親に「今後貴族との商談が増えるだろうから」と、貴族の対応に慣れさせる目的で学院に入れられた。父親は庶民で、商売で成功した功績により叙爵したため、貴族に対する心構えははそれなりに経験則としてあるが、学院にも通っていないし貴族との太いパイプもない。


 学院生活は3年。短いようで長い。卒業までもつか。入学してまだ間もないのに、そう考えるようになっていた。

(でも)

 そんな人ばかりでもないのかもしれない。

 庶民だって、もちろんいい人ばかりではないのだ。


「先生。床をふく清掃道具をいただきたいのですが、どこにあるかご存じですか?」

 アルティミシアは着替え終わり、濡れた制服もたたんで袋に入れるとびしょ濡れの床を見て言った。

 学院内には清掃員がいる。生徒が普段掃除をすることはないから、掃除用具の場所がわからない。


 伯爵令嬢がまさか自分で掃除をするつもりか。

 女性教諭も同じことを考えたようで、小さく首を振った。

「床は、清掃の方にお願いしましょう」


 女性教諭が内鍵を解除してドアを開けると、外にいるミハイルから

「着替えた?」

 と声がかかる。

「はい」

 アルティミシアが答えると、ミハイルがドアのところから顔をのぞかせた。

「噴水からここまで、掃除してくれてたからちょっと待ってもらった。・・お待たせしました、お願いします」


 最後は清掃員に言って、ミハイルが清掃員と共に保健室に入って来た。

 確かに、ここまで水滴の道ができあがっていたことだろう。想像したらちょっと怖い。

 アルティミシアは恐縮したように、清掃員にぺこりと頭を下げた。

「申し訳ありません。お手数をおかけいたします」


 ミハイル(美男)に頼まれて、アルティミシア(美女)に謝られて、老人にさしかかる清掃員は嫌な顔もせずにこにこと会釈をした。

 若い清掃員でなくてよかったとユリエは思った。掃除どころではなくなっていたかもしれない。


「シア、帰ろう。シアのかばんも教室から持ってきた」

 ミハイル・メルクーリ。かいがいし過ぎる。

 教室にいる時の王子様然としている印象からはかけ離れているが、こちらの方が人として好感が持てる。


「いろいろごめんなさいミハイル」

 アルティミシアがしょんぼりしている。ミハイルは顔をのぞき込むようにして微笑んだ。

(あれ自分にやられたら死ぬやつ)

 ユリエは思ったが、当のアルティミシアは目が合ってもしょんぼりしたままだ。耐性がすごい。


「久々にシアとまともな会話ができたからいいよ。送るのを口実に本邸行けるし。俺今出禁だから」

「え、なんで」

「なんか俺がやらかしたんだろうけど、理由は教えてくれなかったな。でももうすぐシメオンが本邸に来るから、解除してもらわないとあいつは会えて俺が会えないっておかしいだろう」

「そういえばシーズンですね」


 会話しながら、ミハイルの持つアルティミシアのかばんと袋をアルティミシアが奪おうとしているのをミハイルは自然な仕草でかわしている。

「さ、ほんとに帰るよ。バラーシュ嬢、すまないが事情聴取をさせてほしいから一緒に馬車に乗ってほしい。夕食と、何なら一泊をお願いすることになるかもしれないが、その旨バラーシュ家にはもう連絡してあるから」

「え」

 思わず変な声が出た。

 仕事のできる男は違う。家に連絡済みって。拉致る気まんまんのやつだ。


「いえ私はそんなに話すことないんですけど・・夕食も一泊も必要ありませんし。そもそもどこに」

 夕食のマナーを知らないわけではないが、考えるだけでも今から胃が痛い。それにアルティミシアの家に送る話と夕食と一泊が結びつかない。

「ああ。シアは学院に通う間、王都にあるうちの本邸で暮らしてる。俺は別邸に住んでるんだけど、今日は本邸で泊る。俺今本邸が出禁だから、バラーシュ嬢がいてくれると助かるよ。夕食の時は俺たちだけにするし。部屋は」


「一緒がいいです、だめですか」

 アルティミシアがずい、とユリエに詰め寄る。顔圧、顔圧・・・!

 あと泊るのはもう確定か。

「わ、わかった。わかりました」

 ユリエはちらりとミハイルを見た。

(いいんですか、せっかくのお泊りなのに婚約者を取られて)

 視線で問うと、ミハイルはどうせ引き離されるから、と口パクをして肩をすくめた。同じ家にいても会わせてもらえないのだろうか。公爵家、きびしい。


「もしよければ、パヴェル嬢も」

 ミハイルが言ったが、レギーナは笑って首を横に振った。

「すごく興味があるけど、私はただの通りすがりの怪我人よ。立て込んでそうだし、今度にさせていただくわ。明日話を聞かせて? 二人とも、同じクラスだし」

「はいぜひ。いてくださってありがとうございました、パヴェルさん」

 こぼれるほどの笑みで言うアルティミシアに、レギーナは軽く手を振った。

「レギーナでいいわよ。じゃあね」

 颯爽と出て行ったレギーナに続いて、ユリエ達も移動した。


 次の日から、ユリエとアルティミシアとレギーナは、一緒に行動するようになった。

 ちなみに、嫌がらせ対策で、ユリエの学院指定の学生かばんはバラーシュ商会の防水・撥水加工技術によりカスタマイズされていた。水に浸かったにも関わらず、濡れた外側をタオルで拭いただけでかばんはもちろん中身もほぼ無事だった。

 興味を持ったミハイルが、この技術は他にも使えるんじゃないかと商会に、開発依頼とそれに係る出資を持ちかけたのはまた別の話。


 その日を境に、あんなにあった嫌がらせはぱたりとやんだ。

 アルティミシアが体を張ってくれたことで、学院が動いたというより、おそらくメルクーリ公爵家が動いたのだろう。

 ユリエの日常は、平和になった。

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