12. 母として、公爵夫人として
直射日光が当たらないように薄い紗の布で日除けされた明るいテラスに、二人はいた。
メルクーリ公爵夫人でありミハイルの母であるディスピナは、茶の準備がされている間に、目の前に座る、まだ幼さは残るが目鼻立ちの整った色素の薄い少女を見つめた。
まだそれほど親しくない貴族の間では、目を合わせることは不躾とされる。それを意識しているのか、不自然ではない程度に茶器に視線を移している。黄水晶、日の光を受けて金にも見えるその大きな瞳は、公爵夫人を目の前にしても落ち着いていて揺るがない。
顔合わせの歓談中、アルティミシアを見ていた。少し怯えるような仕草はあったが、基本的にこの娘は物怖じをしない。彼女の両親よりもずっと、肝が据わっている。
ディスピナはサリアが無駄のない動きで茶を淹れているのを何とはなしに眺めた。
今日のアルティミシアはサリアが身支度を整えたと聞いている。
(相当好みなのね)
魅力を最大限に活かそうという気合を、アルティミシアのそこここに感じる。
サリアを専属の侍女につけてもいいかもしれない。彼女は優秀だ。
あとこのドレス。息子の独占欲がだだ洩れ過ぎていて引く。実の親でも引いたのだから、ストラトス家はどん引きだっただろう。
両親の顔合わせでこれなら、来年のデビュタントの夜会のドレスは一体どうなる。
婚約お披露目は。結婚式は。
(あの子は)
この娘に何を見ているのか。
幼い時から妙に落ち着いていて、「国の至宝」などと大層なあだ名を付けられても気にかける様子もなく、詰め寄る数々の令嬢たちを貴族的にやわらかくあしらい、何でもそれなりにそつなくこなすが興味の一つも示さなかった、まだ成人も迎えていない14歳のミハイルが、唯一望んだもの。
茶を淹れ終わり、サリアはテラスの端まで下がって控えた。
「アルティミシアさん、どうか楽にして。義理とはいえ親子になるのだから、お堅いマナーはなしにしましょう」
ディスピナは話し方を崩した。声も張らないように意識する。
アルティミシアはまだ少し硬いながら、笑みを見せた。
「はい。お気遣いありがとうございます」
言われた通り、アルティミシアも話し方がやわらかくなっている。順応性は高い。
「こちらからこんなことを聞くのもおかしな話だと思うけれど」
ディスピナは濁した。
「はい?」
アルティミシアはかまえる様子もなくこちらを見上げてくる。それは貴族的な仕草ではなく、かわいい。
「一目ぼれと言われて、あなたは信じたの? 婚約を、納得しているの?」
アルティミシアは目を見開いた。
家格からすると、伯爵家と公爵家ではなかなかしんどい。伯爵家でも力があれば何とかならないこともないが、ストラトス家は、そういう意味の力はさほど持っていない。
今日見ていた限り、アルティミシアはミハイルの顔に反応しない。顔を赤らめることすらない。
その彼女が、ミハイルの「一目ぼれ」に食いついたとも思えなかった。
好きだから、で結婚ができるほど貴族の婚姻は甘くない。
そのくらいのことはわかっているはず。
政治や金銭で力はないが、あのストラトス家の令嬢だ。
知のストラトス。それは貴族の中でも知る人ぞ知る通称だ。
ストラトス家は歴史が長い。派閥にも属さず、政治的にも金銭的にも突出せず、目立つことのないこの家が、それでも没落せずに存続してきたのにはわけがある。
この家は、代々各種分野の権威、学者を輩出している。要するに職人気質の家系だ。
金儲けも人付き合いも世渡りも下手だが、それにかわる技術、知識を持つことで国の重鎮に、高位貴族に大切にされてきた。
アルティミシアが何に関心を持っているのかはわからないが、公爵家の財力も権威も、ミハイルの容姿にも興味はなさそうだ。
ディスピナは、アルティミシアがこの婚約をどうとらえているのか知りたかった。
ミハイルは、一か月ほど前のある日突然、何の先触れもなく早朝に馬を走らせてやってきて、「一目ぼれをした。彼女以外に考えられない。今すぐ婚約誓約書に署名しろ」と詰め寄ってきたのだ。
めちゃくちゃだった。
落ち着けとなだめるマヌエルの聞く耳も持たず、「受け入れられないなら廃嫡しろ。ストラトス家に婿入りする」とまで言いきった。ストラトス家には、すでに嫡子がいるのに。
今でないとだめなのかと問うても「今しかない」と言い、別に何か事情があるのではないのかと問うても「一目ぼれだ、運命だ」の一点張り。
本当にこれはあの息子なのか、何か変な薬を飲まされたか変な術でもかけられているのではないかとまで勘繰っていたが、マヌエルはあっさり折れた。
優秀なミハイルを廃嫡するわけにはいかないし、自分の若い頃を見るようで身につまされたのもあるだろう。たぶんむしろ、それが大きいだろう。
今日、アルティミシアを見るミハイルの顔を見て、「誰だこれは」と思った。だから一目ぼれも間違いではないのだろうと思う。でも、おそらくそれだけではない。
アルティミシアが知のストラトスだから、でもないようにディスピナには思えた。
それは夫も認識しているはず。
その何か、をアルティミシアは知っているのか、否か。
「納得、と言いますか・・・」
アルティミシアは困惑した表情で、言葉を選びながら続けた。
「一目ぼれだ、とメルクーリ様からおっしゃっていただいたことはありません」
「は」
ディスピナはうっかり変な声を出してしまい、うぉふんと空咳をしてアルティミシアに続きを促した。
「両親から婚約打診のお話をいただいた時に、私は覚えがないことでしたので、理由を聞いたのです。すると、父から『一目ぼれだそうだ』と、その時に、初めて」
「覚えがない」
ディスピナは繰り返した。
「はい。まだあの時初対面でしたし、そういったお話以前にたいした会話もしておらず・・・正直驚きました」
ディスピナは想像以上の大惨事に絶句した。
求婚どころか、ろくに会話もしていなかった。
公爵家の打診に、伯爵家が断れるはずもない。
自分の時よりひどい。これだからメルクーリ家の男は。
全然似ていないと思っていたが、やはりマヌエルとミハイルは親子だったようだ。
「それは・・・申し訳ないことを。ではもしかして、この婚約はあなたの本意ではない?」
聞いたところで正直に答えてもらえるとも思わなかったが、反応を見るだけでもいい、と思い聞いてみた。
「一度解消を申し入れたのですが」
「もう?」
思わず言ってしまったが、アルティミシアは臆することなく小さくうなずいた。
「はい。婚約打診の3日後にお茶会を設けてくださいましたので、その時に。でもその時すでに婚約誓約書が受理されていて」
「ああ・・・」
ディスピナは目を閉じてかすかに天を仰いだ。
「火消しですかと聞いたら」
「聞いたの?」
それは、王太子マリクよりも婚約者候補が群がるという、ミハイルに関するばか騒ぎの鎮静化のための措置か、ということだろう。
さすがストラトス家。発想と言葉選びが14歳とは思えない。
「はい。でも『ありえない』と瞬殺されまして」
「そうでしょうね・・・」
ディスピナは遠い目になった。
言われて、きっとミハイルは心が瀕死だったことだろう。教育の賜物で、表に出すようなことはプライドにかけてもしなかっただろうが。
「あの、逆にもしおうかがいできるのでしたら・・・」
アルティミシアの言葉にディスピナはうなずいた。
「どうぞ」
「本当に、一目ぼれなんでしょうか。ご本人からはうかがっておりませんし、そんな理由で公爵様ご夫妻が本当に婚約を了承されたのかと、実は気になっておりました。何か別に事情があるようでしたら」
(やってしまった)
ディスピナはつついてはいけない藪をつついてしまったことを自覚した。
これはちゃんと収拾しておかなければ、後々面倒なことになる気がする、ミハイルが。
ディスピナは動揺を押し隠した。
「いいえ。私も一目ぼれだとしか聞いていません。夫も、です。夫も私も、それであなたたちの婚約を了承したのです。今回のことで、あの冷淡息子もメルクーリ家の男だったと知って、可笑しくなりましたけれど」
たぶんほかにも事情がありそうだ、とは、ここでは絶対に言わない方がいい。
「メルクーリ家の男、ですか?」
アルティミシアの関心が移ったことにディスピナは安堵した。
「私は侯爵家の出自ということもあって、若い頃はそれなりに引く手あまたでした。それを根回しをして、外堀を埋め尽くして選択肢をなくした上で婚約打診をしてきたのが今の夫、マヌエル・メルクーリです。ちなみに先代公爵も似たようなやり方で妻を娶ったようです。まさか、あのミハイルがこんな暴挙に出るとは思いませんでしたが、やはりメルクーリの男だったということでしょう。アルティミシアさん、不安ですか?」
アルティミシアは意外にもすぐ、小さく首を横に振った。
「いいえ。私に必要な知識が不足しているという点で不安はありますが、ミハイ・・・メルクーリ様には、本当にお気遣いいただいています。これからたくさん話をしようと、お言葉もいただきました」
「そう。・・・いいのは顔だけの不器用な息子だけど、仲良くしてやってね。これは母としての言葉です。あと公爵家の人間として、次期公爵夫人たるあなたの不安を解消するのが急務だと感じました。もし精神的に負担でなければ、あなたたちは同い年ですから、来年ミハイルと同じタイミングで学院に入学するのはどうですか。費用はもちろん公爵家が持ちます。家に必要な人材を確保するための投資は惜しまない方針です。いいですね、これは投資です。そしてもし通うのであれば、ここ、本邸から通うといいでしょう。次期公爵夫人としての教育は空いている時間に私についていれば、急いで詰め込む必要もないと思いますよ」
この娘は聡い。伯爵家としての知識があっても公爵家としては足りないのだという自覚もすでにある。
知識欲もある。すぐに吸収してしまうだろう。
少し小心ではあるが、おどおどしない豪胆さもある。
何より、ミハイルに対して容姿に惑わされず、強引な所業にもくさらず自分のできる範囲で向き合おうとしているところは好感が持てる。
『一目ぼれ』とはいえ、ミハイルには見る目があったと認めなければならない。
アルティミシアは、驚いてディスピナを見つめていたが、少しだけ目を伏せた。
「とてもありがたいお申し出ですが、公爵夫人はシーズンが終われば領に・・・」
「ディスピナと。私は当面ここ本邸で暮らすようにします。随時郵便は届きますし、急ぎであっても領都に駅がありますから、汽車を使えば最速3時間で移動できます。習うより慣れろです。まずは触れてみるのが一番早いでしょう。何なら休みの日に領に行ってみるのもいいかもしれませんね」
アルティミシアは呆然とこちらを見ている。
矢継ぎ早にまくしたててしまったが、言い方がきつかっただろうか。ディスピナは迫力のある顔のせいで、誤解されやすい。
それとも学院に行くのがいやだったか。断れない状況にしてしまったか。
考えあぐねていたところに、アルティミシアがふわりと笑って、細めた瞳から涙がこぼれ落ちた。
嬉しいのだと、全身から伝わる。
アルティミシアは、茶会中のため座ったままで略式の礼をとった。
「これ以上ないご配慮をありがとうございます、ディスピナ様。ご期待に添えますよう、努力いたします。これからよろしくお願いいたします」
上げた顔、満月色の瞳。まっすぐに向けられる尊敬と感謝のまなざし。
吸い込まれる。捕らわれる。
(ああ、これは)
あの息子が堕ちても仕方がない、ディスピナは理解した。