女帝、あるいは皇帝の弟
「まさかレイチェルが殺されたなんて」
メアリーはそう言う。彼女はなぜか口を布で覆っていた。
窓から朝の明るい光がさしてきて、絨毯の上に転がるレイチェル・モートンの死体を優しく照らしている。顔はどす黒い。手に触れると冷たかった。夏の高温に死体は異臭を放ち始めている。
肌の白い、薔薇色の頬をしたレイチェル。彼女の愛らしいほっぺたは永遠に失われてしまった。運命はなんて残酷なんだろう。
メアリーはそう思いながらレイチェルを眺めていた。まだ若かったのに。子どもだっていて幸せで、それに私のことだってまだ恨み足りなかっただろうに。
初めてレイチェルのことを可哀想に思った。死んでしまったら、レイチェルだってメアリーの同情にも怒りっこない。レイチェルは誇り高い人で、あの事件以来いつも何かに怒っていたけれど。
「今朝、ヘンリー・トンプソンの様子を見に来たら、こうなっていたの」
リリィは平たんな声色で言う。呆然としていた。
「レイチェルは彼を殺そうとしたのよ。復讐の女神になろうとしたの」
それで間違って死体になってしまったのだ。
「ハーブに知らせるわ。人を呼んで遺体は地下に運ばないと」
メアリーが言う。
白日のもとに見ると、レイチェルの死に凄惨さも劇的なところもなかった。ゾッとするのは生前、リリィや夫のマティアスを魅了したはずの、どす黒い顔だけ。紫色のサテンのドレスは高級な艶を放っている。部屋の中は静寂そのものだ。
「マティアスにも知らせましょう」
リリィがレイチェルの死体を見守りながら言う。
「ヤング・ジョンには、私、とてもじゃないけれど言えないわ」
メアリーは恐れおののいていた。
「かわいそうな子。あんなに小さいのに」
リリィが真っ青になって言う。
レイチェル・モートンの殺人はハーバートとマティアス・トルナドーレに速やかに伝えられた。だが、リリィもメアリーも幼いヤング・ジョンにはどうやって伝えたものか、悩んでいた。
「トルナドーレ卿が生きてたらなぁ」
ハーバートが庭で木登りするヤング・ジョンを見ながら言う。ウィリーと一緒に遊んでいたのだ。
「ええ。でもいつまでも隠し通せないわね。さっきだってお母さまはいつ帰ってくるのって……」
メアリーは気の毒そうな顔をした。
ウィリーが木の下に立って、一番上まで登るように焚きつけている。ジョンは登ろうとしない。怖いのだ。
レイチェルの葬儀をすませると、メアリーとリリィは共にイリヤ城に行くことにした。帝都はエル城の戦い以来、ならず者が荒らし放題にしているのだ。秩序を回復して市民を略奪や暴力から守らなければならない。
ヤング・ジョンは寂しがった。「意地悪なウィリー」から守ってもらっていたリリィがいなくなってしまうのだ。
「仕方ないのよ。ここならハーバートおじ様がいて安全だし。帝都に連れていくわけにはいかないわ」
メアリーが言い聞かせる。
ウィリーはあっけらかんとしていた。帝都には興味がないのだ。それに不安がるのは性分じゃなかった。ただ、何も言わずに出ていってしまったビリーには怒っている。
「ビリーと一緒に海を渡りたかったのに」
ウィリーはメアリーにそうこぼした。
「そうしたら、冒険ができた」
ひょっとしたら、この子もビリーと一緒にイリヤの帝都から遠ざけた方がよかったかもしれない、と思いながら。どちらにしろ、メアリーにはそんな権限はないのだ。ウィリアムのすべては、アレックスの手中にある。
帝都の事態を収束させるには、それなりの苦労を要した。手始めに〈兵舎〉に帰ってきた近衛兵たちを取りまとめて、帝都を見回りさせる。この混乱に乗じて、略奪や盗み、暴行、エイダ人への殺人や暴力を行う者は厳罰に処した。
民や兵士はエル城の戦いでの活躍を耳にしていたから、リリィの指示に素直に従った。リリィを女帝に、という声もするくらいである。
「まさかこんなになるとは思っていなかったわ。あの恐ろしい監禁部屋から故郷には帰ってこれた。エズラにも勝利したわ。でも見てちょうだい」
リリィはかつての私室に立っていた。寝室の窓から破壊された城が見える。図書館の周りの森は火で焼けて、裸ん坊になっていた。天文台の塔は城の中で一番高い建物だったのに、今では半分が崩れて廃墟のようになってしまった。
「城壁は破壊されて、もうほとんど残っていない。病人に怪我人だらけ。それにイリヤ人のなんと残虐なこと。街の通りでエイダ人たちに何をしたのかしら。戦争で負けて弱りきったエイダ人たち。男はどんなのでも殺される。町の見世物、公開処刑、私刑よ。女は犯され、いたぶられ、男たちがみんな殺された後、やっぱり殺される。イリヤ人たちがあんなに野蛮だとは思わなかった。エイダ人とは違うと思っていたのに」
メアリーが言う。
「それが戦争だわ。それが私の引き起こした戦争なの」
リリィが言った。
恐ろしいけれど、それが真実なのだ。




