愛する皇妃
遠くの大地には赤い砂ぼこりがたっていた。門番は立ち上がり、何事かと目を凝らす。赤い砂嵐はだんだんと近づいてきた。よく見ると馬に乗った男たちである。
「門をあけろー!皇帝だ!」
門番が叫んだ。
イリヤ城に戻ってくるまでに兵は半減した。
皇帝は沈んだ顔の兵士たちから離れ、書斎の静寂の中にいる。
トルナドーレ卿がノックして部屋に入ってきた。
「皇妃がまだ到着していないそうだな」
アレックスは重苦しい空気をなんとかしようとして口を開く。
「ああ、心配だ。捜索隊を出すか?」
ジョンが言った。
「頼む」
アレックスはそう言って顔を覆う。
夕暮れの鐘が鳴るころ、城門が開き、皇妃が帰ってきた。目を閉じたまま。二度と起き上がることはない。口をきくこともない。
皇妃は死んだのだ。侍女たちと寄り添い、森の茂みの中で息絶えていた。
アレックスは大広間で皇妃の亡骸をいつまでも見つめている。手を取れども優しく握り返されることはない。顔も手も、くちびるも氷のように冷たかった。長い、まっすぐな美しい赤毛。それだけが生前と同じだった。
アビゲイルの望みだったとしても、戦場に連れていくべきではなかったのだ。皇妃は最後まで不幸だった。子どもがもてなかったことで。娘のことで。イネスのことで。アレックスがきちんと向き合ってあげなかったせいで……
「兵は君の指揮下にある」
ジョンは妻の亡骸の前に立ち尽くすアレックスにむかって言った。
暗い大広間、皇妃の死に顔も見えない。もう真夜中になっていた。
「エズラとてこの広大すぎる城は陥落させられない。兵糧攻めは時間がかかるだろう」
いよいよレネーの援軍に頼らなければならなかった。だが、問題は援軍がいつ到着するかということだ。もうとっくに合流していてもよい頃合いである。
兵士たちの士気は下がっていた。戦友の多くを失い、イリヤ城の城壁の中にこもっていなければならない。籠城など誰でも気が滅入るものだ。その上、希望のレイドゥーニアの援軍も当てが外れてきていた。レネーはイリヤ側の形勢が不利になったのを見て、同盟を反故にしてしまったのかもしれない。
皇帝は朝早くから皆の前に出て兵士たちを鼓舞したけれど、アレックス自身が虚しさのようなものを感じていた。リリィやメアリーが他の場所にいて、戦争を目のあたりにしていないことが唯一の救いだ。
イリヤ城に来て、両軍は停滞してしまった。
リリィは鏡台の前に座って、長い見事な髪をくしでといていた。鼻歌をうたいながらトゥーリーンの荒々しい瞳を、耳に心地よい、穏やかな声を反芻する。
扉を叩く音がした。
「どうぞ。鍵はかかっていないわ」
リリィが鼻歌を中断して言う。
鏡にメアリーが入ってくるのが見えた。髪はわずかに乱れ、目を見開いている。何か重大なことが起こったのだ。
「どうしたの?」
リリィが銀製のくしを置いてたずねる。
「レネーの軍隊が来たわ。エル城に入れるよう要求しているの。あなたにも会いたがっている」
リリィには一体何が起こっているのか理解できなかった。レネーの考えていることは誰にも予測がつかないのだ。
実は彼はイリヤ城のアレックスに援軍を送るのをやめ、エル城で両者の争うさまを観察するつもりだった。もし、エズラが勝てば、その直後にエズラと戦い、イリヤとエイダのどちらも手に入れる。アレックスが勝っても同じことだ。
つまりレネーは地形的に有利なエル城で戦うことにし、リリィともよりを戻すつもりだったのだ。
「ハーブ、レネーを城に入れてはだめよ。彼はここを乗っ取るつもりなの」
メアリーが必死になってハーバートに言う。
だが、レネーはハーバートよりも強硬だ。門をあけなければイリヤへの援軍を取りやめ、エイダ側につくと言う。そうなればイリヤは確実に敗北し、エル城もエズラの支配下となり、ここにいる者もみな奴隷として足枷に繋がれるだろう。
ハーバートは流血をおそれて門を開けてしまった。
「約束と違うわ」
リリィが怒りに満ちた目で言う。
レネーとリリィは部屋で二人っきりになっていた。ハーバートが「夫婦」として話し合うよう勧めたのだ。レネーのエル城侵攻も単なる痴話喧嘩にすぎないと思ったのか。
「あなたを疑っている。義兄君を庇ってはいないか……。あなたの『夫』への忠誠も」
レネーが言う。
「カリーヌの件なら義兄は無実です。この戦争がイリヤの勝利に終わったら、私もイリヤのことを忘れ、あなたの妻としてレイドゥーニアの国王に忠誠を誓いましょう。でももし貴方がイリヤの皇帝や帝国を欺く気なら、それまでのことです」
リリィはかろうじて感情をおさえながら言った。
だが結局、リリィはその晩レネーと同衾したのだ。それが忠誠の証拠となるなら、なんとも皮肉なことではないか。
寝台の上、一人で涙を流した。何も泣くことなどではない。じきにこれにも慣れるだろう。
月明かりの下、震えながらそう思っていた。




