敵と友軍
アレックスは礼拝堂に一人たたずんでいた。昔から信仰心は特にない。神を認めて、その力にすがるよりも自力で立っていたいのだ。
礼拝堂の天井は高い。両手に天秤と抜き身の剣をもつ「裁きの神」が天井に描かれていた。色鮮やかな絵だ。
「お義兄さま」
黒いかぶりものをした女が立っていた。灰色のやさしい瞳、透き通るような肌、控えめな物腰。
「リリィ、お前と話す時間がなかったな。それにしても、昔のままに美しい、あの頃のように……」
アレックスの青い瞳がリリィをしみじみと見つめる。
リリィは目を伏せて、黒いスカーフを外した。
「祈っていたのね、お義兄さまが」
「いや、考え事をしていた。礼拝堂にくると不思議と敬虔な気持ちになるな。一度も神を信じたことはないが」
「先祖が苦労して建てたものですもの。父とよく祈ったわ。エズラに監禁されていた時、祈りが私を支えてくれた」
リリィがそう言って微笑む。
「父の遺志だ。各地に礼拝堂を建てよう。お前のためにもな」
アレックスが優しく言った。
「参謀の中にはお前をエイダに送り返せという者もいる。そうすれば戦争は避けられるだろう、と。だが、お前は渡さない。十分犠牲をはらった。お前やイリヤの民が奴隷のように扱われ、エイダの圧政のもとで苦しむのなら、皇帝の平和になんの価値がある?」
「私はエズラのもとに帰るべきよ」
リリィが震える声で言う。
脳裏に洞窟の光る水、人魚の死体が浮かんだ。エズラと一夜を過ごした後の体の痛み、ヘンリーの憐れむような目。喉がとてつもなく乾いて痛い。毎日のように死を望んだものだ。
「何を言うんだ?二度とエズラに手を触れさせない。お前はレネーと一緒に暮らして幸せになるべきだった。幸せになれなかったのは、僕とテリー公のせいだ」
アレックスが真剣な口調で言う。
「私の幸せにそこまでの価値があるのかしら。テリー公が正しいのかもしれない。戦争をして、多くの兵士たち、大勢の男たちを失うまでの意味はない……」
「もちろん、お前にはそれだけの価値がある。リリィ、これは正義のためだ。奴隷にされて、お前と同じように苦しむイリヤ人のためだ。エズラのもとに帰るなんて考えるな」
自分のせいで戦争が起こり、大勢の命が犠牲になると思うと萎縮してしまうのだ。
「戦争をするなら絶対に勝たねば」
メアリーが肩にお湯をかけて言う。
断崖の下、海辺の館の浴場でリリィとメアリーは体を温めていた。
「イリヤは勝てると思う?」
リリィが静かにきく。
「ええ、勝てるわ。もし友軍の助けがあればね」
「イリヤに友軍なんて。ドレント王国に艦隊でも借りるの?」
リリィが不審そうな顔をして言った。
「いいえ、まだレネーとは離婚していないでしょう?彼の助けを借りるの」
メアリーがひょうひょうと言う。
「レネーが協力してくれるとは思えないわ」
「リリィ、あなたは交渉が上手なのよ」
絶対にレネーに助けを請うはずがない、と思っていたが、冷静になるとそれしか道がないような気がしてくる。エイダに負けることほど残酷なものはない。
「なぜレネーに助けを求める?」
アレックスが詰め寄る。
「お前はエイダから逃げて、夫のもとではなくイリヤの皇帝のところに来たのに」
「婚姻は役に立つものよ。レネーの軍隊だって私の『しあわせ』よりは実用的でしょう?」
「必要ない」
「お願いよ。私だって役に立ちたいの。それにレネーだって戦いたがってるはず。家族を殺された上に王冠を奪われたのよ。イリヤとレイドゥーニア、対等な同盟だわ」
しまいにはアレックスも義妹の頼みに折れた。どっちみち同盟は必要なのだ。だが、リリィ自ら使者になるとは!これもアレックスが譲歩しなければならなかった。
こういうわけである。アレックスとレネーの姉カリーヌは以前夫婦だった。カリーヌが若い年齢で不審な死をとげるまでだ。イリヤ人は嫁に来てまだ日の浅い皇太子妃の死を、特に嘆くこともない。だが、エズラの魔の手から命からがらに逃げてきたレネーは違った。アレックスが妻を毒殺したとにらんだのだ。
レネーに援軍を要請することは危険な賭けだった。アレックスへの恨みをとるか、エズラへの復讐をとるか、はたまた無関心を決め込むか、レネーの心は読めない。
リリィはメアリーにトゥーリーンを探し、「人魚の王国」に警告させるように言った。戦争ともなれば、エイダの横暴はますますひどくなるだろう。
「使者は手負いの状態で返されたわ」
メアリーがリリィの髪をとかしながら言う。
「エズラに聞く耳なんてないのよ。戦争は避けられない」
リリィが暗い顔つきをした。
メアリーは何も言わずにリリィを後ろから抱きしめるのだ。




