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名もなきニニ・ロッソ

作者: 埜田九一朗

その一 キューちゃんと茶色いマウスピース




 一万円札の顔が変わる、という話題がちょっと前に世間をにぎわしておりました。

 なかなかこの一万円札ってやつと仲良くなれない…とお悩みの方も多いようですが、そもそも一万円という額面は、かつてはそれこそ国家予算くらいの規模になって初めて語られる金額でした。

 それが、誰にでも手に取れる一枚の紙幣という物体となって登場したのは昭和三十三年。西暦一九五八年のこと。ミツマタを原料にして漉かれ、表に聖徳太子が描かれたこの紙幣を超える金額のもの、例えば 十万円札というようなものは令和の時代になってもまだ残念ながら生まれてはいません。それが残念なことかどうかは、また別の話です。

 俗に「万札」「万券」などと略されて、いかにも仲良くしているようにふるまうお方もいらっしゃいますが、それほど多くの一万円札と仲良くされている方はそうそういらっしゃるはずもない。いるとしたら銀行強盗か銀行員…どっちも同じじゃないか、なんて悪口を言いたい人のほうが多いかもしれませんが、実はこっそり、こやつらを「鞄に詰め込めないくらい稼いでいた」と豪語していたのは、さるドラマーの方。

 ドラマーといっても、テレビのドラマじゃありません。平たく言えば太鼓叩き。両手両足を駆使していくつもの打楽器を自由自在に操り、百人のオーケストラの大音量すらたった一人で消してしまうほどの威力を誇るミュージシャンです。特に、大衆音楽の世界では楽団には不可欠の原動力といってもいい。アメリカではジーン・クルーパ(Gene Krupa、Eugene Bertram Krupa )、日本ではジョージ川口などが昭和の時代には有名でした。どちらも頭文字が「GK」というのも面白い符号ですね。日本のGK すなわちジョージ川口さん、音もデカいが話もデカい。ほら話の名手だったということなのですが、たくさんのほら話のなかで、ほら話みたいなのに実はほんとだった、ということもたまにはありました。まだ日本にテレビがそれほど普及していなかった昭和33年ころの話ですが、このジョージ川口さんが「ドラマー殺人事件」にからんじまった。いえ別に彼が犯人だったわけじゃなくて、彼が熱演していた最中に客席で暴力団同士の小競り合いが勃発、その一人が殺された、という事件です。ジョージ川口さんご本人は、ステージ上でライヴァルの人気ドラマー白木秀雄さんとドラム合戦の真っ最中で、客席の騒ぎにはとんと気付かなかった…というから、その集中力というか浮世離れっぷりも豪快至極。

 そんなジョージさんが「鞄に入りきらないくらい」稼いでいたという「万券」が生まれたのもこの年ですが、第二次大戦に大負けした日本がようやく高度経済成長期に入ろうとしていたのもこのころ。東京タワーが竣工し、長嶋茂雄がデビューして、富士重工が名車「スバル360」を発売したのもこのころでした。今から語ろうとする物語の主人公である男の子、キューちゃんはこの年、つまり昭和三十三年、八百屋の次男として千葉県沼橋市に生まれました。

 もちろんキューちゃんというのはあだ名でして、令和の今になってもいまだに有名な、あのきゅうりの醤油漬けと同じなんですが、どうしてそんなあだ名になったかと言えば、そのきゅうりの醤油漬けが大好きな子供だったというのがその理由らしいんですが、本当のところはご両親にもわかりません。今ではご両親も含めみんなからそう呼ばれていて、もしかしたら友達は誰も彼の本名を知らないのかも知れません。

 その名の通り「きゅうりのキューちゃん」さえあれば御飯がいくらでも食べられちゃう…という子供で、その旺盛な食べっぷりも相まって、キューちゃんは背丈はあまり伸びませんでしたが、ころころまるまると太った子供でした。

 まるまる太ってはいるけれど、中身の方はといえば、自分の意志というものがからっきし、ない。いや、ほんとはどこかにあるのかも知れませんが、ほとんど「ない」も同然。小さい時から成り行き任せで、いろんなことに頓着しないまま中学生になりました。昭和四十六年のことでした。

 中学校に入ると坊主頭にするのがキューちゃんが生まれ育った沼橋市の習わしでした。今なら人権蹂躙で大問題になるところですが、当時の沼橋市にはたいそう威勢のいい元国会議員(市島華右衛門という、たいそう時代がかった名前でした。実際、江戸時代から続く名家の何代目か、だそうで、嘘か本当かはいざ知らず、自分では第十五代華右衛門である、と公言しておりました)が教育委員会を牛耳っていましたので、市長以下誰も一言の文句も言えません。学校の先生なんか、校長だろうと教頭だろうと、文句は言えません。もう丸坊主なんて時代遅れですよ、などと進言したところで相手にされやしない。

 そんな風土だったから、気の利いた子供は川向こうの東京の(彼が暮らしている千葉県沼橋市は、東京とは川一つ隔てた背中合わせの位置にありました)中学校に越境入学して、坊主頭の危機を逃れるのが習わしみたいになっていました。それができずに・・・あるいはやらすに・・・あるいはキューちゃんのようにぼやっとしていた子は、あっという間に坊主頭にされてしまうのです。

 心の中ではキューちゃんも「いやだなあ」なんて思っていたかも知れないのだけれど、それを口にするより早く、小さい頃から行きつけだった馴染みの床屋さんのバリカンがさささっと動いて、ぴかぴかぴかっと光る見事な五厘刈りの坊主頭のできあがり。五厘刈りにしてみたら、おでこから五センチくらい上に直径一センチくらいの禿があるのが分かりました。これは小さいころに転んだ弾みにアタマから窓ガラスに飛び込んじゃった跡。

 そんなわけで翌日の入学式が終わって教室に戻った途端、小学校からの友だちのたくちゃんが「ハゲ、みっけ」と叫びました。しかしキューちゃんはまるで何も聞こえなかったかのように、にこっと微笑んだだけでした。たくちゃんはお父さんもお母さんも新聞記者で、世界中を飛び回っているのをいつも自慢していました。もちろん、キューちゃんとは正反対にキビキビと、というより、シャカシャカ落ち着きがない、と言ったほうがいいくらい敏捷な子供でした。

 キューちゃんは彼とは正反対のぼやっとした子でした。彼が言ったハゲのことなんか全然気にしていません。というより、床屋では眼鏡をはずしていたから(そう、キューちゃんは早いうちから近眼がひどくて、まるで牛乳瓶の底みたいに厚い凸レンズの眼鏡をかけていたんです)自分の頭のむかしの傷あとがまるだしになっちゃったことなんかまったく見えていなかったんですね。だから、自分の頭にそんな古傷があったことを気づかず、たくちゃんに言われて初めて気づいたのがちょっと嬉しかったりして、にこにこしてしまったのです。

 たくちゃんも、そんなキューちゃんのいつものようなにこにこ顔を見ると拍子抜けしてしまったのか、それ以上言い募ることもやめて、そのかわりに「クラブ、決めた?」と訊いてきました。

 キューちゃんには、彼が口にした「クラブ」って何なのか、その時にはまだよくわかりませんでした。こういうときのキューちゃんの常套手段は、ぼやぼや笑い。にっこり、では全然なくて、にやにや、とも違う。そもそも笑っているのかひきつっているのか判断に苦しむような、焦点の合わない表情をしてしまうのが常でした。その時も、そうでした。

 問いかけたたくちゃんはキューちゃんとは逆にせっかちな性格で、小さい頃からキューちゃんのわけのわからないぼやぼや笑いにも慣れっこになっていましたから、放課後一緒に見学に行こう、とたたみかけてきます。そう言われてもキューちゃんは「いや」でもなけりゃ「うん」でもない。例のぼやぼや笑いのまま、時は意味もなく過ぎてしまい、あっというまに入学式も終わってその日の放課後。帰ろうかな、と立ち上がったキューちゃんの襟首をつかんで(詰襟の学生服だからつまみやすかったんですね)たくちゃんが言いました。

「今からすいそうがくぶに見学にいくから、一緒に行こう」

 キューちゃんには「すいそうがくぶ」というのがなんなのかよくわからなかったのですが、ただ襟首をつかまれたまま素直についていきました。その時のキューちゃんのアタマのなかには、なんとなく「すいそう↓水槽↓水族館」という連想が広がっていました。この学校、水族館があったんだ!と、キューちゃんはちょっとうれしくなってニッコリしましたが、もちろんぼやっとしたキューちゃんはそんなこと口にしません。例のぼやぼや笑いをうかべたまま音楽室に連れていかれ、いわれるままに名前を書いて、きれいな女の先生が説明をするのをぼやっと聞いていました。

 最初のうちは、その先生がなんとなくテレビでみるきれいな女優さんそっくりだな・・・なんて思っていたのですが、話を聞いているうちに、そのクラブが水槽とも水族館とも関係なく、どうやら音楽と関係する部活動で、自分は何か楽器をやらされるようだ・・・ということがキューちゃんにもだんだんわかってきました。

 新入部員が十人くらい集まったのを確認すると、そのきれいな女の先生は、これをみなさんに差し上げますから、こうやって(と、小さな茶色い物体を唇に当ててぶーっと鳴らして)楽に音を出せるように、毎日おうちで練習してきてね、と、こうおっしゃったのです。

 先生は自分が唇に当てた小さな茶色の物体を、ちょうど目の前にいたキューちゃんに手渡しました。他の新入生には、脇に置いてある箱から新品をどんどん渡して行きました。

 家に帰り、しげしげとその、小さな茶色い物体を眺めたキューちゃん。まずは手のひらに乗せてみた。

 とっても軽いな、とキューちゃんは思いました。

 プラモデルの部品みたいだな、とも思いました。

 しかし、その部品から「音を出してきなさい」と先生がいうからには、これはプラモデルじゃなくて、たぶん楽器の部品なんだろう・・・と、そして、先生のようにこれを口に当てて息を吹き込めばきっと鳴るのだろう・・・それくらいは見当がつきました。

 しかしキューちゃんはどうしても先生のようにそれを唇にあてることができない。

 なぜって、なんだか汚らしい気がしてならなかったからです。

 先生はきれいだったけど。

 ぼやっとしている割にキューちゃんは実は意外に細かいところがありまして、トイレの前後にはきちんと手を洗うし、うちにかえるとうがい手洗いをかかしたことはありません。ましてや、誰かが口に当てたものをそのまま自分の口に当てる・・・というのは、例えそれがテレビに出ていそうにきれいな女の先生であったとしても、なんだかちょっと汚らしく思えて仕方なかったのです。

 そんな訳で唇には当てなかったけれど、覗いてみたりはしました。中に笛みたいなものが仕掛けてあって、息を吹き込めば簡単に音が鳴るような仕組みなのかも知れないな、と思ったわけです。

 ところがそこには、ぽかん、と穴が空いているだけで、覗いてみても向こう側が見えるだけ。

 キューちゃんは、しばらくそのまま穴を覗いていました。そして、考えました。

 ぼくは、たぶん中に入っていた「なにか」を、落としちゃったんだ。

 だから、中はからっぽなんだ。

 だからきっと、ぼくにはあんな音が出せるわけはないんだ。

 キューちゃんは、そう思い込んでしまったのです。

 かといって、あわてて周りを探すわけでもない。根っからぼやっとしているから、じっと、中を見つめているだけです。

 しかし、さすがにぼやっとしたキューちゃんにも、いつまで眺めていても絶対に音なんか出せるようにはならない、ということがわかってきたので、改めて何回も水洗いしたあとで思い切って唇にあてて、思い切って先生みたいに息を吹き込んでみました。

 しかし、どうしても鳴らない。ただ、しゅーっと息が出ていくばかりです。

 鳴らないのも当たり前、先生はお手本を一回しか見せてくれず、キューちゃんはぼやっとしていましたから「唇にあてた」のはわかっていたけれど、どうやって「音を鳴らしていた」のかまでは見のがしていたのでした。要するに、音の出し方がわからない。

 中をいくら繰り返し繰り返し覗いてみても、家族がテレビを見ている様子がみえるだけです。

 キューちゃんの兄さんの中学入学を祝って数年前に購入されたカラーテレビは、ラジオに代わって今や一家の中心となっていました。家族は朝から晩まで入れ替わり立ち替わり、暇さえあればカラーテレビの前に座り込んでいました。それまでは小さな白黒テレビでしたから、無理もありません。ニュースであれ「大正テレビ寄席」であれ「笑点」であれ「時間ですよ」であれ、暇さえあればテレビばかり眺めていました。

 いくら目を凝らしても、いつものようにカラーテレビのほうを向いた家族の後ろ姿が見えるばかり。

 穴が開いているだけだから向こうが見えて当たり前なのですが、確かに先生はこの物体から音を鳴らしていたのです。音が鳴るというのはなにかの仕掛けがあるからに違いない、だけど、確かになかにはなにもない。

 やっぱり、中に入っていた仕掛けをぼくがどこかに落としてきちゃったということだ。

 いかにぼやっとしていても、ひどくまずいことをしてしまったのはわかりました。

 あの先生の名が櫻井奈緒子だということを、ぼやっとしたキューちゃんはようやく思い出しました。

 

「音、出せるようになったの?」

 昨日優しかった櫻井先生、なぜか怖い顔をして尋ねます。

 音を出せるようになるどころか、ぼくはアレのなかにはいっていたアレ(どちらもキューちゃんには名前がわからなかったのでした)をなくしちゃったんだ。どうやって答えればいいのだろう。いろいろな考えが巡るものの、言葉が出てきません。

「なんとかいったらどうなの?」

 そんな、乱暴な言葉とともに先生はキューちゃんが手にしていた茶色い物体を奪い取り、中を覗き込みました。

「あ!なかに入っていた●●(先生は確かになにかの名前を言ったのですが、キューちゃんには聞き取れません)がない!どこへやったの?なくしたの?」

 あの優しかった先生が、今や顔を真っ赤にして、まさに鬼の形相。キューちゃんは本当の鬼を見たことがありませんでしたが(たぶん誰でもそうでしょうけど)本当の鬼はこうなんだろうなあ・・・と、怒られているのにもかかわらずそんなことをのんきに考えていました。

 ですが、やはり言葉はなぜか出てきません。先生は、矢継ぎ早に訊いてきます。

「なくしたのね?信じられない!」「ほんとになくしたの?」「探した?」「よーく、探した?」「ほんとにほんとに、なくしたのね?」「これは大問題です!」「校長先生にいいつけます」「あなたは退学です!」

 いや、それは困ります!ごめんなさいごめんなさい!と、キューちゃんは叫びました。昨日入学したばかりで、退学になっちゃったらお母さんがどんなに悲しむか・・・そう思うとキューちゃんの目から涙が噴出し、同時に目覚ましのベルがなりました。

 知らないうちに眠り込んでいたようです。

 でも、噴き出した涙は本当でした。そして、ごめんなさいごめんなさい!と、叫んだのも、たぶん。のどがちょっと痛かったのです。一晩中握りしめたままの茶色い物体には、ほんのり夜中の体温が移っていたようで、唇に当てても生暖かい感じがしました。

 けれど、息を吹き込んでも、やっぱり何の音もしません。

 覗き込んでも、やっぱりなにも見えません。

「なにやってるの?」

 何も知らないお母さんが、ご飯をよそいながら覗き込んできたのは見えたけど。



その二 キューちゃんと不思議なおじさん


 昭和四十六年はまだ日本はどこでも半ドンでした。つまり土曜日の午前中は、サラリーマンは通常業務、学生も授業がありました。午後はお休みでしたけどね。「半ドン」という言葉の由来は、半日でドンターク、オランダ語て「日曜日」を意味するzontagがなまったもので、半日休みだから半分のドンダーク、つまり半ドンになったという説や、ちょうどお昼に時を告げる空砲がドンと鳴ったからだとか、いろんな説がありますが、それは本編とはまた別の話なので先を急ぎましょう。

 その年の入学式は八日の金曜日でした。その翌日の九日は土曜日でしたが「半ドン」ですから普通に授業がある。というわけで朝七時にはいつも通り朝ご飯を食べ、お母さんから、きゅうりの醤油漬けと胡麻をたっぷり混ぜ込んだおにぎりを三つにタクアン三切れ、といういつも通りのお弁当を受け取って、七時半には学校への道を歩き始めていましたが、キューちゃんはあの小さな茶色い物体のことばかり考えていました。

 いつしか足は校門に向かう道をそれて、河原に向かっていました。

 今は夢であったとはわかっているのだけれど、あの夢の中で鬼の形相で怒っていた先生の顔が思いかび、怖くて怖くて学校から遠ざかりたい一心だったので、曲がり角を学校とは逆のほうに曲がりました。

 沼橋と東京を隔てている大きな川の、河原の方へと。

 土手にあがると、いつものように東京の街が広がっていました。天気が良かったから、遠くに富士山も見えました。その時代にはまだ東京スカイツリーはなくて東京タワーは爪楊枝同然、遠くに富士山がかすみ、その手前に江戸川区と葛飾区の下町が川向こうに平たく、どこまでも広がっているのがいつも通りに見えました。

 ゆったりとくねりながら東京湾のほうへ流れてゆく川を見下ろす河原の土手の草むらに腰を下ろし、キューちゃんはあの小さな茶色い物体を取り出して中を覗き込みました。

 やはりそのなかは空洞で、青空を映して流れてゆく川の青が見えるばかりです。

 その時、目の前の河原の草むらが揺れて、

「あれ、珍しいマウスピースですね」

 という声が聞こえました。

 キューちゃんは本当にびっくりしました。

「それ、トランペットのマウスピースでしょう?茶色とはまた、珍しいなあ」

 目の前の河原の草むら、流れる川を背にして、ひとりのおじさんが半身を起こしてキューちゃんを見つめていました。さっきまで気づかなかったのは、どうやらそのあたりで寝ていたからのようで、長い髪の毛はぼさぼさで、髭は伸びっぱなし。服は何かゆったりとした黒いものをまとっています。たった今までそれを毛布代わりにしていたようです。

 眩しそうに太陽を見上げたその人はふわりとフードをかぶると、ふらり、と、立ち上がりました。立ち上がってみるとその人はすらりと背が高く、見上げるキューちゃんにはまるで、普段なら地べたに横たわっているはずの影が、いきなり立ち上がったように見えました。

「あなたもトランペットを吹いているのですか?」

 立ち上がった影が、言いました。乞食のような様子なのに、その人の言葉遣いはとても丁寧なのがキューちゃんには不思議でした。少なくとも、キューちゃんに「あなた」と呼びかけるような人には、それまで会ったことがありませんでした。

「それ、トランペットのマウスピースでしょう?」

 その人がいう「マウスピース」という言葉が、自分が手にしている小さな茶色い物体の名前らしいことはわかりました。トランペットなどの楽器に差し込んで使うということも、昨日先生に見せられたから頭ではわかっていました。

 わからなかったのは、この場合どう答えるのが正しいのか、ということ。

 丁寧に尋ねられたのだから、丁寧に答えれば怒られることはないだろう。そう判断したキューちゃんはとりあえず、はい、とだけ答えました。それでも、はい、と答えるまでにたぶん、たっぷり二分くらいはかかっていたかもしれません。

 そして、はっと気づいてすぐにこう続けました。

 でもぼく、なかのものをなくしちゃったみたいなんです。

 え?と、影がちょっと驚いたような声を出しました。

 なかのもの?と、影は言いました。

 キューちゃんは、黙ってうなづきました。

 見せていただけますか?と、影は丁寧に言いました。

 影の中から手が伸びてきました。キューちゃんは、もしかしたらいきなりぶたれちゃうんじゃないかと思って、反射的に首をすくめました。

 しかしその手はキューちゃんの目の前に差し出されたままです。影は身体をかがめてくれたから、キューちゃんにもはっきりその人の顔が見えました。髭だらけの顔のなかで、綺麗な目が微笑んでいました。

 キューちゃんはその手に、あの小さな茶色い・・・いや、今や「マウスピース」と呼ぶことが判ったその物体をとりあげ、その人は自分の唇に当てました。昨日の先生のように。

 ところが、昨日先生が聞かせてくれたのよりもずっと大きな音色が響いたので、キューちゃんはまたまた驚きました。キューちゃんだけではなく、河原の端っこでくつろいでいた鳥たちが、朝の光を浴びて一斉に飛びたちました。

 昨日から今日にかけて、驚くことばかりだな、とキューちゃんは思いました。中学生になるってこういうことなんだろうか。キューちゃんは思いました。

 ひとしきり鳴らしてみたその人は、特におかしなところはないみたいですよ、と言いました。

 それにしてもプラスチックのマウスピースとは珍しいなあ・・・と、その人はしばらくその小さな茶色い物体を眺めていました。

 吹いてみても構いませんか?

 その人は言いました。

 いま吹いたばかりじゃないか、と、キューちゃんは思いましたが、何も言えず、ただ首をたてにがくがくがくと振りました。

 その人は自分の足元にかがみ込みました。つられてついキューちゃんも覗き込むと、その人は自分の足元に大きなカバンを置いていたのです。どうやらそれを枕に、朝から昼寝(ちょっと変な言い方ですけど)していたようなのです。

 そのカバンからその人は、トランペットを取り出したのです。どうやらその人は、トランペットを吹いて稼いでいるんだ、ということがその時キューちゃんにもわかりました。それも、かなりいい稼ぎみたいだ、とキューちゃんは思いました。朝日にトランペットの金色がキラキラ眩しいな、とも思いました。

 その人は、自分のトランペットにあの茶色のマウスピースを差し込みました。

 朝の光に輝いて、まるでそれは金色の宝物のようにみえました。その人は深々と息を吸い込み、そして、金色のトランペットにゆっくりと息を吹きこみました。

 朝の河原に、しずかにトランペットのきれいな音が響き渡ります。


 ほう、普通に鳴りますね。

 その人は言いました。 


 決してそれは大きな音ではありませんでした。大きな声ではなかったけれど、音が消えてもその響きだけがまだあたりにほんのり漂っているようにキューちゃんには思えました。


 そして、その人は茶色のマウスピースを外してキューちゃんに戻すと、また背をかがめてカバンから金色に輝く自分のマウスピースを取り出し、腰を伸ばして金色のトランペットに差し込み、そして、ゆっくりと息を吸い込んで、その息をゆっくりと吹きこみました。

 音が鳴り、そして、五秒くらい鳴って音が止まりました。今度はさっきよりも長く、あたりに漂っています。さらにその人はひとつの音を、さっきより長く吹き伸ばしました。その響きはまるで川を自由に吹き抜けていく風のように軽々と、どこまでも響き続けているようにキューちゃんには思えました。

た。

 たっぷり三十秒くらい吹いて、その人は音を止めました。その音を聴いているうちに、キューちゃんは自分の胸のまんなかになんともいえない、しずかに心地よい小さな隙間が生まれたのを感じとりました。それはトランペットが鳴り止んでも、すぐには消えてしまわず、やがてためらうように萎んで消えていったのがキューちゃんにはわかりました。


 そうか、あなたは初心者だったんですね。

 キューちゃんから事情を訊いたその人は、静かに言いました。

 それにしても、何の説明もせずにマウスピース渡して、音出してこいって言うのはひどいよね。

 ちょっとくだけたその言い方に、キューちゃんはその朝初めてにっこりしました。

 トランペットに限らず、すべての金管楽器はこういうマウスピースを使うのですが、このマウスピースの中には音を出すための仕組み、例えば笛なんかは何も入っていないんですよ。

 その人は言いました。今やその人はキューちゃんと同じように土手に座りこみ、東京ごしにかすむ富士山を眺めていました。主に喋るのはその人で、キューちゃんは時おりうなづくだけでした。

 葡萄や西瓜の種を飛ばして遊んだこと、あるでしょう?

 キューちゃんはうなづきました。種を撒き散らすぎて、うんと叱られたことを思い出しながら。

 それと同じことを、マウスピース当てたままやってみればいいんです。やってごらんなさい。

 キューちゃんは、その人に言われるままに、茶色いプラスチックのマウスピースを唇に当ててみました。それはその人がさっき唇を当てたばかりでしたが、不思議なことに、昨日まで感じていたような汚らしさは感じなくなっていました。

 その状態で、葡萄の種をぷっと吹くつもりで息を出してみてください。

 キューちゃんのうちは八百屋でした。葡萄の中でもキューちゃんの大好物は秋の巨峰でした。キューちゃんは、秋まっさかりの頃によく食べた巨峰の、あのたまらない美味しさを思い出しながら、空想上の種をぷっと飛ばしてみました。

 と、それまではただ、しゅーっとしか言わなかった茶色いプラスチックのマウスピースが、


 ぶ。


 と、初めて鳴ったのです。


 なんだかオナラみたいだな、と思って、キューちゃんはにっこりしました。


「なんだかオナラみたいでしょう?」


 その人が、言いました。 

 キューちゃんはうなづきました。


 ちょっと変な言い方に聞こえるかも知れないけれど、金管楽器を鳴らす唇の状態は、オナラをするお尻の状態とそっくりなんです。キツく閉じているようでいて、ある一定の力で押し出されるものは、拒まない。拒まないけれど、全面的に解放もしない。開いては閉じ、閉じては開き、両方の唇がぶつかり合うたびに振動が生まれ、その振動がマウスピースのなかでひとつの響きに整えられ、その響きがトランペット本体に共鳴して、音が鳴る・・・という仕組みなんです。自分にあったマウスピースが見つかれば、実は楽器本体が安かろうと高かろうと、そう大差なく鳴るんです。

 だからマウスピースは、と、その人は自分の金色のマウスピースをかざして言いました。

 ラッパ吹きには、命と同じくらい大切なものなんです。

 トランペット吹き、ではなくラッパ吹き、というその人を、キューちゃんはとてもカッコいいなと思いました。

 そう、マウスピースなしには何もできない。これと仲良くなるには、肌身離さず持ち歩いて、暇さえあればさっきみたいに葡萄の種を飛ばす練習を続けることしか方法がないんです。

 それにしても、と、ちょっと間を置いてその人は続けました。

 プラスチックとは・・・変なマウスピースを作ったもんだなあ。

 その人は、独り言みたいに言いました。

 持ち歩くのにはいいかもしれないけどね。

 それから、沈黙が訪れました。春の日差しを浴びる小さな茶色いプラスチックのマウスピースを、二人はじっと見つめています。


「私はニニ・ロッソに憧れてトランペットを学び直したんです」

 その人はキューちゃんに、しずかに言いました。もちろんその時のキューちゃんには、ニニなんとかが何を意味する言葉なのかすらわかりませんでした。誰かの名前だとは思いもしなかったのです。

 ポカン、としたキューちゃんの顔をみてそれと察したその人は、ちょっと微笑んでから黙って自分のトランペットを構えました。そして自分の金色のマウスピースをゆっくりと装着しました。

 ゆっくりと息を吸い込むと、その人は楽器を引き寄せマウスピースを唇にあてました。

 そしてその人がトランペットに息を吹きこんだ瞬間、またキューちゃんの胸の中にあの、不思議な隙間のような、空洞のような空間が生まれました。

 そしてその空間に、まるでぽとんと落ちた水滴が水の輪をしずかに水面に広げていくように、その人の吹く音が粒となって次々に落ちてきて、次々に響きの輪を生み出していきます。

 やがてその響きの輪はキューちゃんの視神経にまで影響を及ぼして、河辺の草むらの緑も空に浮かぶ雲の白も、雲の隙間から見える空の青も、すべてがその人のトランペットから生まれたひとつの周波数に共鳴し、染まり、じわじわじわっとあたりに音の粒が染み渡っていきます。その様子を、キューちゃんは目を丸くして見ていました。

 その時、それまでぼやぼやした笑いのような、引き攣ったような感じだったキューちゃんの唇が、ぎゅぎゅぎゅぎゅっと引き締まったのです。

 それと同時に、それまでなんとなくぼやっとしていたキューちゃんの頭の中の霧みたいなものがすっぱり払われて、キューちゃんは自分が、初めて世界がどんな色をしていたのかに気づいた人であるかのように感じたのです。


「こうやって、ひとつの音をしずかに伸ばす練習を、ロングトーンと言いますか

 その人は、しずかに言いました。

 その声も、キューちゃんの胸の中の空間に、じわじわじわっと確かに沁み入ってきます。

「これは、ラッパのソの音です。ドレミファソラシドの、五番目のソの音です」

 その人は言いました。

「初めてラッパを吹くなら、まずこの音を楽に鳴らせるように、ゆっくり練習するといいですよ」

 トランペットのことを「ラッパ」と軽く言うその人を、キューちゃんはとてもカッコいいと思いました。

「ソを楽に鳴らせるようになったなら、いつかこんな曲を吹けるようになりますよ」

 そしてその人はまたトランペットを引き寄せ、しずかに吹き始めたのです。

 それは、さっきのソの音から始まる、しずかなしずかな歌でした。歌詞はなかったけれど、キューちゃんには確かに歌詞のようなものが聞こえたのです。なんだか、さっきその人がロングトーンを聴かせてくれてから、キューちゃんは急激にいろんな音が聞こえるようになった気がしています。


 まだまだ、世界にはいろんな音があるんだよ。


 不思議なことに、トランペットを鳴らし続けているのに、その音と響き合うようにその人の声がしずかに聞こえました。


 耳を澄ませば澄ますほど、いろんな音が聞こえてくるんだよ。


 自分の音が、いろんなものに響き合う様子が聞こえてくるんだよ。


 たったひとりでも、風や森や川と一緒に、音楽を楽しむことができるようになるんだよ。


 人は昔は、そうやって耳を澄ませてきたんだよ。


 その人の声は、鳴り響くトランペットの強弱に呼応するように、時に大きく、時に小さく、しかし絶え間なくキューちゃんに語り続けます。


 この曲の題名は、もともとはイタリア語で「静けさ」、日本では、「夜空のトランペット」と呼ばれているんだよ。


 その人のトランペットはしずかに鳴り響き、その人の声もしずかに響き続けました。


 ニニ・ロッソという人がつくった曲なんだ。


 私は戦場で進軍ラッパを吹かされていたんだ。


 私のラッパの合図で多くの仲間が進軍し、そして意味なく死んでいったんだ。


 ニニ・ロッソも、戦争の現場を知っていたんだ。


 彼は、まだ若かった頃にはトランペットではなく銃を手に、圧政者に対抗する闘いに参加していたんだ。


 しかし彼はやがて銃を手放し、トランペットを再び手にしたんだ。


 この曲は、戦争の現場を知りつくした男が、家族に愛を伝えたくてつくった曲なんだ。


 この曲は、軍隊のラッパ信号と同じように、ほとんどが「しぜんばいおんけいれつ」で構成されているんだ。


 ところが途中でちょっとだけ、わずかひとつのヴァルヴを動かすだけで、この曲が戦争とは正反対の世界の扉を開く鍵であることを世界に示したんだ。


 ひとつの「しぜんばいおんけいれつ」だけしか鳴らせない軍隊の進軍ラッパは、多くの人を殺してきたんだ。


 しかし、今のトランペットは三つの「しぜんばいおんけいれつ」から生まれる音たちを様々に組み合わせて、あらゆる音を自由自在に操れるようになったんだ。


 トランペットを吹くことは、そういうことなんだ。


 ニニ・ロッソが、すべて教えてくれたんだ。


 その人の声は、そこでぷつんと消えました。その一瞬あとにまたすべての音が消え、キューちゃんもつられて息を止め、心臓がドキドキして肺が空気を求めて苦しがり始めるとまもなく、真空に空気が急激に流れ込むように普段の音が還ってきて、キューちゃんもまた、思いっきり河原の風を吸い込みました。

 キューちゃんは「しぜんばいおん」ってどんな字なんだろう、と思いました。


「しぜんばいおん、って言うのは、自然倍音って書くんです」

 その人の声が、座り込んだままのキューちゃんの頭の上から、今度ははっきりと聞こえてきました。


 今わたしが吹いた曲は、ほとんど自然倍音の系列で出来ているんです。

 いや、待てよ。よく考えたら、トランペットで鳴らせるすべての音は自然倍音なのか。三つの系列を操っているだけだったな。

 あ、失礼。今のは独り言でした。いきなりこんな話をしても、昨日マウスピースをもらっただけのあなたには何のことやらさっぱりですよね。

 順を追って説明しましょう。

 音っていうのは、実はたくさんの音が重なり合って、響き合って、支え合って出来ているんです。ドレミファソラシド、の、ひとつひとつ、たとえばドの中には、ドの他にミやソやシのフラットという、ドと響き合ういくつもの音があって、それらを「倍音」と呼ぶんです。英語のovertone、直訳すると「上にある音」という意味になるんだけどね。

 自然に混ざっている自然な倍音だから、自然倍音。普段はそれらは渾然一体として溶け合って、ひとつのドとしてしか聞こえない。

 ところが、トランペットをうまく鳴らせるようになると、これらの自然倍音をはっきり吹き分けることができるようになるんです。ほらここに(と、その人はトランペットの三つのヴァルヴをパタパタパタと動かしました)なんだか複雑な仕組みがあるけど、それを動かさなくても自然倍音を鳴らすことはできるんです。


 その人はトランペットを構えました。

 トランペットは、ド→ソ→ド→ミ→ソ→シのフラット→ド→レ→ミ→ファのシャープ→ソ→ラ→シ→ド、と、十四個の音を一気に鳴らしました。


 不思議なことに、キューちゃんにはそれらの音の名前がすべてわかりました。あるべき位置から半音下にフラットしている、とか、逆に半音上にシャープしている、なんてことまで感じ取れるようになっていたのに、実はキューちゃんは心からびっくりしていました。今朝まで、いや、ほんのついさっきまで、その人のロングトーンを耳にするまでのキューちゃんは、音楽についてはまるで無頓着で、ドレミファソラシドなんてわからなくても当たり前だったのに。どうやらその人の音が、キューちゃんのなかの何かを変えてしまったようなのです。

 ちょっとびっくりしているキューちゃんにはお構いなしに、その人は続けます。

 自然に鳴ってしまう倍音だから、自然倍音・・・と呼ばれているんです。我々がひとつの音として認識している現象には、実はたくさんの自然倍音が含まれているんです。さっきわたしが吹いた自然倍音系列は、第二次倍音から第十四次倍音までを順に強調してみた、という言い方もできるんですが、これらの音は、実はゴムホースにマウスピースを差し込んで吹いても鳴らすことができるんですけれどね。

 やがて人類は、適切な長さの管を選び、それぞれの管さに応じたそれぞれのドソドミソ・・・という、さっき吹いた自然倍音たちを組み合わせれば、ドレミファソラシドの七つの音と、五つの半音を自由自在に鳴らすことができるということに気づいたのです。何本の管を組み合わせればいいかも、たくさんの試行錯誤の末に、人類が片手で自由に操作するには三本の管を組み合わせるのが一番合理的である、ということにも気づいたのです。産業革命という言葉をあなたもそのうち教わることでしょうけれど、その産業革命によって人類は金属を自由に加工できるようになったから、こういう(と、またその人は三つのヴァルヴをぱたぱたぱたっと動かしました)仕組みを生み出せたのです。それまでのトランペットは、たったひとつの自然倍音系列にあるドソドミソ、しか奏でられなかったから、例えば戦いの時の信号にしか使われなかった。攻めろ、退け、右へ、左へ、寝ろ、起きろ、など、人間の肉声よりはるかに大きな音で遠くまで届くさまざまなラッパ信号が考えられたんです。そんなもの、あなたはもう覚える必要はない。三つのヴァルヴは、自由と平和の象徴なんです。もう戦争の時代は終わったんです。

 ここまで一気に話して、だしぬけにその人は黙りこみ、目を瞑りました。  


 キューちゃんは、その人がもしかしたら戦争に行ったことがあるんじゃないか、と、そんな気がしてきました。キューちゃんの周りで戦争に行ったことがあるのは、田舎のおじさん一人。お母さんのお兄さんというそのおじさんとその人は、ちょうど同じくらいの歳に見えました。しかし、いつも酔っ払っては戦争の話を陽気にしていたおじさんとその人とはまるで正反対だ、とキューちゃんは感じました。そのおじさんには、小さい頃からなぜか馴染めずにいたのです。昨年大阪に里帰りした時に(キューちゃんのお母さんは、大阪生まれだったんです)万博に行って感動した話をするキューちゃんたちに「月の石がなんだってんだ!」と、酔っ払ってからんだ、ということも、馴染めなかった理由のひとつです。


 やがてその人は目を開き、改めてトランペットを持ち上げ、またヴァルヴをパタパタパタと動かしました。

 これは、それぞれ押すたびに一音分、半音分、そして一音半分の長さの短い管をもともとの管に付加することができるんです。つまり、さっきも言ったように、三本の管をいちいち持ち替えるなんてことをせずに、片手で三つのヴァルヴを切り替え、さらに押さえるヴァルヴの組み合わせを変えることで、全体の長さを七種類(何も押さない状態も含めて、です)まで切り替えられる仕組みを人類は生み出したんです。

 戦争のためのラッパは、軍隊によってさまざまな長さの管を使い分け、戦争の現場で敵味方のラッパ信号を聞き分けられるようにしていました。いわばラッパ吹きたちは軍隊ごとに違う長さの楽器を使う、ということで、それぞれ分断分裂していたんです。この三本のヴァルヴは、都合七本の管をひとつの楽器に融合させる役目を果たしているんです。一番ヴァルヴを押すと、一音分だけ管を長くできるように、短い迂回管が開通します。二番ヴァルヴは半音分だけ長い管を付加する迂回路を、三番ヴァルヴは一音半だけ長くなる迂回路を開くスイッチ、だと思えばいいでしょう。電気のスイッチと違って、単にオンオフの切り替えだけではなく、その中間の状態も発生させることができるんですけどね。

 この間の戦争で広島と長崎に落とされた原爆は、危険な核分裂という仕組みを応用したものでした。これからきっと生み出される核融合による原子力発電は、それとは逆に平和の象徴になるはずです。この三本のヴァルヴは、核融合とはまるで次元の違う単純な物理現象を応用しているけれど、三つの管を融合させる仕組みは、かつては戦争の道具だったものを平和を生み出す道具に変身させてくれたんです。

 その人はそこでいったん黙り、しばらく目を瞑り、やがて立ち上がってトランペットを構えました。

 「夜空のトランペット」は、最初に軍隊の消灯ラッパと同じ節回しで始まります。最初の音は、第三次倍音のソで、次は第四次倍音のド、そしてまたソに戻り、第四次のドから第五次のミ・・・と、しばらくは整数倍の倍音だけで吹けます。ここまでは軍隊の進軍ラッパでも吹けます。いわゆる消灯ラッパです。ところが「夜空」を「夜空」たらしめているのは次にレが鳴るからなんですが、これが軍隊のラッパには真似できない。

 使うヴァルヴは二つ、動かす指は一回につき人差し指あるいは中指のみ。いずれか、たった一本の指を動かすだけで、ニニ・ロッソは軍隊の消灯ラッパを、優しい音楽に変身させたのです。

 「夜空のトランペット」を作曲したニニ・ロッソは、一九二六年にイタリアの北の方で生まれたんです。イタリアって、長靴みたいな格好をした国ですね。その長靴に足を差し込んだとするとちょうど向こう脛のあたり、トリノという街が故郷だったようです。本名はラファエル・チェレステ・ロッソ。ニニ、というのは幼い頃からの愛称だったようですね。


 そしてその人はまた、「夜空のトランペット」を吹きました。

 

 と、その時。


「こらー、さっきからそこで何をしとるのか!」


 遠くからそう叫ぶ声がしました。



その三 キューちゃんと大人の事情


 その叫び声より小一時間ほど前の朝九時ごろ。

 キューちゃんがやがて不思議なおじさんと出会い、彼が吹く「夜空のトランペット」を聴かせてもらうことになる河原から数百メートル離れた沼橋市立第一中学校の校長室には、そんな時間からもう来客がありました。

「いやいや、市島華右衛門先生がわざわざ朝早くからおでましとは、恐縮至極です」

「いやいや、こちらこそ新学期早々のご多忙極まりない藤岡校長に、こんな時間からお時間とっていただき感謝感激ですわ。すでに市会議員はもちろん教育委員会からも引退した身の上ですがな、今日はこちらの、桜庭楽器産業株式会社の朝岡社長から特別に頼まれて、この度の仲介をお手伝いさせていただこうと思いましてな。なに、朝岡さんの一番上のお兄様とは北支をともに生き延びた戦友でな」

「概略のお話は吹奏楽部がらみの話だとお聞きしておりましたから、ならばと思い音楽科の担当櫻井も同席させております」

「はじめまして、この度はお世話になります。音楽担当の教師で本校吹奏楽部顧問をやらせていただいております、櫻井奈緒子と申します」

「これはご丁寧にお名刺を。いやしかしお美しい。校長が羨ましいですな」

「市島先生、櫻井は今年の新任なんですわ、つまりこの四月からの」

「おお、それはそれは。若いというのは素晴らしいものですなあ。では、藤岡校長、櫻井先生。こちらは、桜庭楽器産業株式会社社長の朝岡さん、そして桜庭楽器の講師の、ええと」

「村雨と申します」

「ああ、失礼、村雨さんじゃったな。村雨さんは帝国陸軍戸山学校軍楽隊出身で、元中尉だそうじゃ」

「恐れ入ります」

「おお戸山の軍楽隊の中尉殿とは。おお、お手にされているのは、それは軍刀ですか」

「とんでもない。今や佩刀はご法度です。これは、単なる杖です」

「おお、ご同輩でしたか」

「恐れ入ります。私の場合は、歩く支えではなく、指導する際に必要なものでして。指揮棒と言ってもいいかもしれません」

「なんと、それを振り回すのですか」

「いえいえ、とんでもない。これは、こうやって床を突いて音を出すんです」

「おお!なんとも重々しい響きが」

「はい、ちょいと細工をしておりまして。そもそも、指揮者という仕事が成立した十七世紀のジャン=バティスト・リュリの時代にはこうして杖で床を突き、正しいリズムを楽隊に伝えていたのです」

「なるほど、よくわからんが、元帝国軍人とは実に頼もしい。老いたりとは言え、先に申し上げた通り、私も元帝国軍人」

「市島先生も軍属でしたか。音楽にはとんと不案内な私ごときでも、戸山学校のお名前だけは存じております。私も軍属といえば軍属でしたが、田舎の小隊でくすぶっていただけで、軍曹止まりでしたが。今はお陰様で校長などやらせていただいておりますが」

「なるほどそうでしたか、私朝岡ごときは、軍隊経験のない若輩者で、恐縮至極です。櫻井先生のために敢えて説明をさせていただければ、陸軍戸山学校軍楽隊は大変優秀な楽手が多く、戦後は日本交響楽団、今のNHK交響楽団ですな、つまり日本を代表する楽団など第一線で長く活躍されていらっしゃる方々がたくさんおられるのです。第一線を退かれてからは弊社の専属特別講師としてご活躍されている方も多く、村雨さんもそのお一人なんです」

「恐れ入ります」

「ともあれ校長先生、櫻井先生、早朝から貴重なお時間をいただきありがとうございます。また、市島先生におかれましては、ご多忙な中、このような機会を設けていただき恐縮至極です。では、早速ですが本題に。櫻井先生には、先日弊社担当の方から、プラスチック製のマウスピース三十個をお届けしておりますが、すでに配布の方はお済みでしょうか?」

「はい、貴重なものを無償でいただき、本当にありがとうございます。すでに、新入生の入部希望者に配布させていただきました」

「ななななんと。櫻井先生、それは初耳ですぞ。いくら無償でとはいえ、タバコを中学生に配るなど」

「校長校長。ピース、ではなくて、私どもが差し上げたのはマウスピース、金管楽器の部品のことです、お間違いなく」

「なんとこれはまた私としたことが。それにしても無償で大量に貴重なものを」

「いえいえお気になさらず。なに、原価はたいしたことありませんのでお気になさらず」

「本当にありがとうございます。あの、実は新入部員は結局十人程度になりそうで、余ってしまいそうなのですが・・・」

「あ、いえいえ、余ったからといってお戻しいただく必要はありません。ぜひ来年もお使いいただければ幸いです」

「おお櫻井先生。ということは今年はブラバンは三十人という大所帯になるのですな。素晴らしい」

「はい、ありがとうございます。あの、校長先生、今年からはブラバンではなく、吹奏楽部とお呼びいただければ」

「おおそうでしたな櫻井さん、失礼失礼。それにしても朝岡社長、我が校になぜそのような」

「藤岡校長。これは桜庭楽器さんの全国規模の壮大な企画の始まりなんじゃ。わが千葉県ならびに沼橋市は、全国に先駆けてその試験運用を引き受けることになった。これは極めて光栄至極なことなんじゃよ。わしは概略聞いておるし、これ以上口をはさまんから、まずは社長、先を続けてくれ」

「市島先生、お口添え恐れ入ります。ではお言葉に甘えて、説明を続けさせていただきます。マウスピースというのは金管楽器になくてはならないものなんですが、音を人並みに出せるようになるには時間がかかる。少しでも早く慣れるには、常に持ち運び、隙あらばすぐに練習するのが一番。軽いプラスチックのマウスピースが、ピッタリなんです」

「なるほど」

「弊社では、トランペット用のプラスチック製マウスピース全国の小中学校の中から選ばれた学校に無償配布する計画を考えました」

「なるほど、それで我が校が選ばれたわけですか。これはまた光栄至極で。それにしても、トランペットですか、あれは威勢がよくていいですなあ。なんですか、あの、最近ラジオでよく流れていますが、あの『夜空のトランペット』ですか、ああいうのはいいですなあ」

「これはまた学識経験豊かな藤岡校長のお言葉とも思えない。校長、あれはいけません。ぺらっぺらの、うす甘い女子供向きの安っぽいあんな音楽は、格調高いクラシック音楽を演奏するための楽器製造を標榜する弊社の目指すところではございません。ましてや、青少年の健全育成には不適切極まりない。一人だけ目立つというのも、純真無垢な子供たちには百害あって一利なし。我々が目指すべきは、これなんです。遅くなりましたが、資料を作成してまいりました。この写真、見覚えありませんか?」

「おお。これは万博の」

「そうです、昨年開催された万博のお祭り広場で披露された、アメリカの大学バンドの合同演奏の様子です」

「これなら私もテレビで拝見しましたよ。『人類の進歩と調和』でしたか、あの万博のテーマは。おかしな顔のタワーはいかがなものかと思いましたが、あのアメリカの大学の連中のパレードは、本当に見事なもんでしたなあ。度肝を抜かれる、とはあのことですな。パレードというから、単に行列を組んで歩き回るだけかと思っていたら、演奏しながら縦横無尽に動き回り、一糸乱れぬあの様子には惚れ惚れしましたぞ」

「いや、わしも同感じゃな。口を挟まぬとは言ったが、これだけは言わせてもらいたい。今の日本に必要なのは、ああいう風に若者たちをぴしりと管理する統率力じゃ。戦争に負けてこの方、青年たちは自由だなんだと、我儘勝手のし放題。若いうちに枠に嵌められる経験なしに、勝手放題好き放題で、アプレゲールを気取って意気がったところで、所詮は型破りならぬ型なしの腰抜け腑抜け。そんな若者ばかりでは、日本の未来も知れたもの・・・と密かに悲憤慷慨していたのだが、この度の桜庭さんの提案は、いやまったく満悦至極。音楽を通じて青少年の健全育成を図るため、まずはプラスチックのマウスピースを全国に配って若年層の技能開発を始め、体格の向上に従って高度かつ複雑な集団演技を体に叩き込む訓練を施せば、不毛な議論を積み重ねて今更『徴兵』だの『国民皆兵』だの、大袈裟に制度をいじらずとも、自然に従順なる予備役を育成することが」

「い、い、市島先生。いまこの場でその話題は」

「お、おほ、おほほほこりゃまた失礼、口を挟まんと言っておきながらまたベラベラと余計な話を。どうか年寄りの繰言だと、ご寛恕くだされ」

「いえいえとんでもない、ありがたいお話で・・・櫻井先生櫻井先生、どうされました?」

「あのマウスピースには、そんな意味があったんですか」

「櫻井先生、落ち着いて、まあ座って」

「いえ、座ってなんかいられません。そもそもトランペットはかつては戦争の楽器でしたから、あたし大嫌いだったんです。でも、そのトランペットをより多くの中学生に親しんでもらえるようにしたいというお話でしたから、あたし我慢して吹き方を覚えて、新入生に配ったんです。でも、そういう企みがあるんだって知っていたら」

「櫻井先生。そう柳眉を逆立てると、せっかくの美しいかんばせが台無しじゃよ。年寄りはもう口を挟まず静かにしとるから、あとは、な、社長」

「あ、はい市島先生。櫻井先生も、どうかいったん腰をおかけになって、話を最後までお聞きくださいませ。どうも早合点されたようだが、我々は何も、軍国教育を始めようとしているわけではありませんし、第一、トランペットはもう戦争のための楽器じゃありませんぞ。たしかにトランペットと太鼓は、その輝かしくけたたましい音で敵を威嚇し自らの兵を鼓舞する、戦いのための楽器だった時代がある。それは歴史的事実です。ですがそれは、すでに昔話に過ぎません。人類の歴史には戦争がつきものだった、という常識と同じくらい、単なる歴史的事実に過ぎない。今我々が一般的なクラシック音楽として楽しんでいる音楽では、トランペットも太鼓も、戦いを模倣する場面で使われこそすれ、本当の軍隊で本当の戦いに使われるようなことはないのです。それまでも禁止してしまったら、クラシックの定番であるモーツァルトやベートーヴェンの交響曲などは演奏不可能になってしまいます。そんなことは櫻井先生も音大で学ばれているでしょうから、釈迦に説法でしょうけれど。今でも軍隊用の信号ラッパは弊社の重要な商品で、自衛隊さんへの納品額は・・・おっとそれはまた別の話でして。話を戻しますと、我々はトランペットを皮切りに、いわゆる教育的簡易楽器ではなく、本格的な管楽器を幅広く日本の若年層に広めたい・・・と、こう考えたわけでして、プラスチックのマウスピースを全国の学校に無償提供したのは、そういう理由からなんですね」

「そこまではひとまずわかりました。でもそれは何のために」

「櫻井先生、それを今お話しようとしていました。プラスチックのマウスピースでトランペットに慣れていただければ、当然ながらトランペットがよりたくさん売れるようになる。まず我々が目指すのはそこです。これは我々営利企業ですから、ご理解いただけると思います。実は、他の金管楽器に比べてトランペットの製造にはさほど手間も材料も不要でして、つまりは良いものをより安く大量につくることが可能なんです。トランペットの需要が高まっても、単価を上げることなく健全に市場を拡大できる、という、楽器製造企業としてのメリットがある。では、それを買う側の学校さんから見たメリットは何か。櫻井先生は、いわゆる鼓笛隊をご存知ですよね」

「はい、もちろんですが」

「言うまでもなく、太鼓と笛、この場合は縦笛、洋風に言うならリコーダーということになりますが、いわば誰でもとりあえず音が出せる簡易楽器ばかりで構成された楽隊です。この鼓笛隊にトランペットを加えることで、よりダイナミックな魅力を付加することが可能になるんです」

「鼓笛隊にトランペット、ですか」

「ええ、まずは小学校に『トランペット鼓隊』という新しいスタイルを導入します。小学生くらいの段階では体格の問題もあり、他の大型金管楽器を取り入れた本格的な編成の管打楽器の合奏、すなわち吹奏楽という形態はまだ無理ですから。しかしそこで、早くからトランペットに親しみ、高い演奏技術を得た子供たちはすぐに中学生となり、中学校において本格的に吹奏楽を始めることが可能になる。本当の目的は、本格的な管楽器の普及にあるのです。『トランペット鼓隊』であろうと『吹奏楽』であろうと、はたまた、これはまだ例が少ないが『管弦楽』であっても、トランペットがうまいか下手かは、全体の仕上がりを左右する非常に重要な問題なのです。トランペットは吹奏楽に限らず、どんなジャンルの音楽においても花形楽器ではありますが、実は演奏が難しい。慣れるまでにも時間がかかるが、早くから始めればより早く慣れ、全体の水準も向上する。それをさらにスピードアップするには早期教育とともに、楽団ごとに競争させるのが一番効果的です。イギリスでもアメリカでも、学生の楽団によるコンテストは大人気のイベントになっております。我が国でも吹奏楽コンテストは戦前からありましたが、弊社では全国規模でそのコンテストを盛り上げようと考えているのです。コンテストがもりあがり、各地に強い楽団が増えれば、それを目指す学生がさらに増える」

「強い楽団、ですか?」

「そうですよ櫻井先生、強い楽団です。これからは、単に技術的に『上手い』ことより『強い』ということを目指す全国のアマチュア音楽家たちが増えてくるんです。なぜなら、強い楽団には我々桜庭楽器がさらに強力に支援しますから、楽器や楽譜、練習環境などがぐんぐん向上する。『強い楽団』を小中学生のうちから目指してみんなが競いあうようになれば、その鍔迫り合いがさらに日本の音楽的水準を底上げするはずです」

「鍔迫り合い・・・」

「櫻井くん、どうした?鍔迫り合いというのがわからんか。実力が拮抗した強い剣士同士が、ギリギリの戦いをすることだよ、音大では習わなかったかもしれんが」

「はい。音楽を戦いになぞらえることなど、教わりませんでした。ましてや、強いとか弱いとか言う言葉で演奏技術を比較することも」

「櫻井先生、おっしゃることはわかります。口を挟んで申し訳ありませんが、私村雨は軍楽隊以前からトランペットに親しみ、戸山学校ではもちろん、除隊してからもトランペットを吹きながらさまざまな世界を見てきました。そして痛感したのは、この世は弱肉強食だ、という単純な事実でした。みんな仲良く手を取り合って、などというのは幼稚園の中だけの夢物語に過ぎないのであって、これからますます高度経済成長の時代を迎える我が国の若者たちには、そんな夢物語は許されるわけがない。強い楽団、強い集団を目指し、一致団結奮闘努力する。そういう生徒さんを育てるために、私はここに派遣されるのだと理解しています」

「派遣される?派遣とはどういうことですか?この学校の吹奏楽部の顧問はあたしです!」

「ああ櫻井先生、どうか落ち着いてください。それについては弊社からきちんと説明しましょう。櫻井先生、もちろんおっしゃる通り、学校内の部活動は教師が顧問を兼任する、それが常識です。しかし、これからの部活動には、外部指導者という存在が不可欠になる」

「外部指導者、ですか?」

「朝岡社長。ということは、学校内に教員資格を持たない人間を入れて、部活動を任せるということでしょうか?」

「さすが校長、お察しのいい。任せる、と言っても練習などの実務面にすぎませんが。ご存知のように我が国のほとんどの公立学校では、公にはそれを認めていない。しかし、近い将来子供は激増し、教師が足りなくなるのは目に見えている。戦後、爆発的に生まれた世代が子育て期に入るのですから、当然です。そうなると、育成に時間のかかる正規の教員の他に、必ずや外部指導者が各方面で必要になる。弊社ではそう言った時代の到来を予見し、より効率的な音楽支援網を全国的に構築すべし、という提案を関係各方面に働きかけて参りました。この度、当該分野に精通された市島先生のご尽力により条例が制定され、全国四十七都道府県から四十七の都市が選ばれて、各市に一校づつ特別指定校を設けさせていただけることになり、弊社はその幹事機構の幹事企業として参画させていただけることになったのです。千葉県代表の都市として選ばれたのがこの沼橋市で、現在十数校ある中学の中から貴校か、もしくは第二中学のどちらかが指定校に、というところまで企画を練り上げて参りました。本日はその企画説明のために、まずご挨拶にお伺いした次第なんです。こちらのスケジュールの事情であちらへのお話が先になってしまい申し訳ないのですが、二中さんには今週月曜日にご挨拶させていただきました」

「ううむ。そうでしたか。二中と我が校のどちらか、ということですか。ううむ、光栄至極なお話ではありますが、二中と比較されるというのがいやはや何とも。実は二中は全くもってけしからん学校でして、吹奏楽に限らず何かと我々一中に対して反抗的でして、中学野球でもテニスでもバスケットでも、我々が一位をとると翌年は二中が一位を取り戻し、それをまた我々が取り返して・・・と、あらゆる分野で歯向かってくるのですね。実は吹奏楽のことはこれまであまりに気にしていなかったのですが、この分野でもそうなったわけですか」

「ええ、どうやらそのようで。で、弊社としては初年度は特別指定校を一つに絞らず、例えば貴校と二中のような、まあ、ライヴァルとか好敵手とか言われる学校さんをそれぞれ応援させていただき、その結果により次年度からの本格運用のための指定校を決めたく思っております」

「各都道府県ごとに」

「はい、現在、すべての都道府県で同様の試みを行っております。もちろん、先程申し上げたように、初年度の今年は外部指導者はすべて弊社の費用で派遣させていただきますので貴校予算に影響はございません。同様のサーヴィスはもちろん二中さんにもさせていただくわけですが」

「それで、その外部から来た指導者の皆さんに教わった生徒たちは、みな『強い楽団』を目指すようになるんですか?」

「もちろんです櫻井先生。先ほども申し上げたように、これからは技術偏重の『上手』『下手』よりも、総合的音楽力重視の『強さ』『弱さ』が問われる時代になるんですから」

「我が校の吹奏楽部を『強い集団』にさせてもらえるなら、私はもちろん異存ありません、櫻井くんもだな」

「すみません、あたしやっぱり納得できません」

「なんだと」

「音楽は競い合うようなものではないはずです。ましてや、おっしゃるような意味で強いとか弱いとか、あの子たちが口にするようになるなんてたまらない」

「甘いですな櫻井先生。始めてみればすぐわかる。子供たちは目の色を変えて、『強さ』を目指すようになるんです」

「あたしそんなの大っ嫌い」

「櫻井くん、落ち着きなさい!・・・ん?こ、こ、この音は?」

 ちょうどその時、河原であの不思議なおじさんが、「夜空のトランペット」を吹き始めたのでした。

「なんと!貴校では朝からあんな曲を練習させとるのですか?」

「とんでもない!今は授業中で、まだ部活動の時間ではありません。櫻井くん、あれは一体?」

「あ、あたしにもわかりません」

「あんな曲を練習させとるようでは、とても二中に勝てるようにはなりませんぞ」

「いや、先程申し上げたようにあれは貴校とは無関係で」

「いやいやいや、貴校周辺であんな下世話な音が聞こえて来る環境だとは、こうして実際にお伺いするまではわかりませんでした。これでは強い吹奏楽部など、とてもとても望むべくもありません。先程述べた特別指定校も次年度からの支援も、考え直さねば」

「し、社長、お待ち、お待ちください」

「まだ吹いておる。校長、あれをそのままにして置いていいのかね」

「市島先生市島先生、今すぐに止めに参りますので」


その四 キューちゃんとキャデラックデビル


 というわけで、沼橋市立第一中学の藤岡校長以下、櫻井先生、桜庭楽器の外部指導者である村雨氏が河原に駆けつけました。そして沼橋市の元市会議員である市島華右衛門氏がちょっと遅れ、ステッキをつきながら河原への小道を桜庭楽器の朝岡社長に付き添われながら登ってきます。

 キューちゃんは、先程の「こらー!」という怒鳴り声を耳にしてからというもの、まるで固まってしまって、目だけがキョロキョロと動いています。真っ先に河原に駆け上がってきたおじさんが自分の学校の校長先生であることも、キューちゃんにはわかりませんでした。昨日の入学式で遠くから眺めただけでしたから無理もありません。なんとなく、どこかで見たおじさんだなぁと言う気はしていたのですが。

 そのおじさんがまず何か言おうとしたのですが、息が切れてうまく喋れない。その肩に手をかけ、後から来たもう1人の坊主頭のおじさんが杖のようなものを手に一歩前に出て、言いました。

「いま吹いていたのは、あなたでしたか」

 坊主頭の人は、まっすぐにあの不思議な長髪のおじさんを見ていました。金色のトランペットをちょっと持ち上げるようにしながら、その人は黙ってうなづきました。そして黙ったまま、楽器を草むらのなかのバッグにしまい、手に持ちました。

「お耳障りになったこと、お詫びします。学校にまで聞こえていたとは思いませんでした」

 その人は、そう謝り、軽く頭を下げ、くるりと背を向けて、立ち去ろうとしました。

「鍛えた音はよく響くから、遠くまで届くものです。素晴らしい音でした。軍楽隊で鍛えられたとお見受けしたが?」

「戸山の村雨中尉にこんなところでお会いできるとは、夢にも思いませんでした」

 その人は立ち止まり、きちんと音が鳴るくらい踵を合わせ、軍隊式の敬礼をしました。

「私の名をご存知とは、恐縮至極。ちょうどよかった。私は今日から、この中学の」 

 と言って、村雨中尉と呼ばれた坊主頭の人は後方にある沼橋市立第一中学校を、手にした杖で示しました。

「この中学のバンドの強化指導員を務めることになったのです。あなたほど吹ける人が助けてくれたなら心強い。お名前を教えていただけませんか?」

「田舎の軍楽隊崩れのラッパ吹きです。名乗るほどのものではありません」

 その人はそう言って、今度はちょっと笑いながら、軽く敬礼の真似をしました。それは敬礼、というより、やあ、とか、おっ、というような、気軽な挨拶のようにキューちゃんには見えました。そしてカバンを手に、土手から降りていきます。その背に、村雨元中尉が声をかけました。

「一緒に、強いバンドを目指そうではありませんか」

 その人は、足を止めて振り向いて、言いました。

「強い?フォルテやフォルティシモしか吹けないバンドのことですか?」

「ご冗談を。強いバンド、といえば言うまでもなく、コンテストに勝てるバンドのことですよ。一瞬に、この中学のバンドを日本一にしませんか?」

「日本一とか世界一とか、強いとか弱いとか、自分は興味ありません」

「いまその子にラッパを教えていたではないか。同じように、他の子たちも鍛えて欲しいのだ」

「困っていたので、助けただけです」

「困っていた?」

「吹き方も教えないまま、プラスチックのマウスピースを渡されたまま、途方に暮れていたのです」

 ひっ、と、あのきれいな先生が息を呑む気配がしました。キューちゃんは、先生は悪くないよと言いたかったんですけど、さっきから身体がこちこちにこわばって、自由になりません。

「強い、とは、すべてにおいて強い、ということ。強いバンドには、上手いラッパが不可欠だ。手を貸してくださらんか」

「音楽は、勝負するものではないし、強いとか弱いとかいう言葉で表現するようなものでもない、と自分は思います」

 そこまで言うとその人はくるり、とみんなに背を向けて、河原をくだっていきます。

 キューちゃんは、その人の背中が、ついておいで、と、言っているように感じました。

しかし、身体はまだ魔法がかかったみたいに固まって動けません。

「待って」

 必死に声を出そうと努力した挙句、ようやくそれだけ言えました。その途端、痺れたように固まりきっていた身体がほどけて、足が自然に前に出て、そしてキューちゃんは転がり落ちるように土手を降りていきました。

 そんなに機敏に行動したのも、キューちゃんにとっては生まれて初めてのことでした。


 生まれて初めての体験は、まだ続きました。その人はどんどん土手を降りていきます。ちょっと離れた林の中に、何か巨大なピンクの物体がありました。

 その人はすたすたと歩いていき、その巨大なピンクの物体までたどり着くと、ぴたりと足を止めました。

 そのピンクの物体は、キューちゃんが初めて見るスタイルの自動車でした。ひどく背が低いわりに縦に長い車体で、後ろにピンッと鋭く伸びた小さな翼が生えていました。

 その人は、キューちゃんの方を振り向いて言いました。

「ついておいで、と言ったつもりはないんですが」

「ぼく、おじさんみたいにラッパが吹きたい」

 トランペットではなく、その人の真似をしてラッパ、と言ってみました。

「ラッパが、好きなんですか」

 さっきあなたの音を聴くまでは好きでも嫌いでもなかったけど今は大好きです!と、言いたかったのですが、

「はい」 

 としか言えません。

「仕方ないから、乗り給え。このクルマは、キャデラックデビル、と言います。デビルと言っても、悪魔とは意味も綴りも違うから怖がらなくて大丈夫ですよ」

 と言いながら、あのカバンを後部座席に置きました。半分開いた隙間から、金色のトランペットと、そして、ぎっしり詰まった札束がちらりと見えました。さっき河原でちらりと見えた気がしたんだけど、本物だったんだ、とキューちゃんは思いました。思いましたが、自分のうちの八百屋でもそんなにたくさんの札束を見たことがなかったので、じっと見つめてしまいました。

「トランペット、うまく吹けるようになったら、これくらいの金はいくらでも稼げますよ」

 その人は、そう言ってエンジンをかけました。

「トランペット、吹けるようになりたいんでしょう?」

 ピンクのキャデラックデビルが、滑るようにスタートしました。見慣れた街のはずなのに、なぜかキャデラックデビルの窓から見る沼橋の街は、ずいぶん違って見えました。いつしかピンクのキャデラックデビルは沼橋と東京をつなぐ橋を渡りきり、キューちゃんのまったく知らない街に入り、そしてそれを行き過ぎてはまた知らない川を渡り、また知らない街に入っては行き過ぎて、何回もそれを繰り返しているうちに、キューちゃんはちょっと眠くなってきました。


「起きなさい。着きましたよ」

 そんな声で目覚めると、キューちゃんはいつのまにかキャデラックデビルを降りていて、なんだかやたらと賑やかな、しかし薄暗い穴蔵みたいな場所に立っているのに気付きました。キャデラックデビルはあとかたもなく消え失せていてどこにも見えず、ただ薄暗いばかりでしたが、あの不思議なおじさんがいつの間にかカバンからトランペットを出していて、片手にそれを持ったままキューちゃんの隣に立っていることだけはわかりました。

 そしてその人は言いました。

「今からレコーディングが始まるから、そこで静かに聴いていてくださいね」

 レコーディングってなんですか、と尋ねる間もなく、その人はトランペットを手に、つい、と、キューちゃんのそばを離れて薄闇の中に歩いて行ってしまい、キューちゃんは途端に心細くなりましたが、ようやく目が慣れてきて、あたりにはマイクがたくさん立っていて、その後ろにいろんな楽器を手にしたおじさんたちがいるのがわかりました。薄暗がりだったけれど、その人が、彼らとはちょっと離れた小さな電話ボックスみたいな、しかし全てがガラスでできた大きな箱のようなものに入ってしまうのがなぜかキューちゃんにはわかりました。心細さはますます募るばかりです。

「それでは、テイクワン、いきます」

 どこからともなく、声が聞こえてきました。

 そのとき、キューちゃんはガラスの電話ボックスの中の不思議なおじさんの様子が、いつの間にか今までとはまるで違っているのに気づきました。

 黒い衣の髭むじゃ長髪の姿は、今やすっきりとしたスーツ姿の短髪になっていました。顔中を覆っていた髭も綺麗に刈り込まれ、品の良い口髭だけになっていました。

「増田さん、準備いいですか?」

「いつでもどうぞ」

 その人は言いました。声まで何だかそれまでと変わっていました。キューちゃんは、その人の名を初めて知った、と、思いました。

 姿の変わってしまったその人は、しかしそんなことお構いなしに、あの呼吸をしました。

 あたりの音を全て吸い込んでしまうような、あの呼吸。

 そして静寂が訪れ、トランペットが歌い始めました。

 しかしそれはもちろん「夜空のトランペット 」ではありません。キューちゃんの全然知らない歌でした。

 それは、始まってすぐに終わってしまいました。キューちゃんの胸の中に生まれた不思議な空間も、すぐに消えてしまいました。

 キューちゃんは、もっと吹いてほしい、と思いましたが、姿の変わってしまったその人、いや、「増田さん」は、ガラスの電話ボックスを出て、キューちゃんの元にやってきます。

 不思議なことに、キューちゃんに近づいてくるにしたがって髭や髪が伸び、服も変わって、そばに戻ってきたときには髭むじゃフード姿に。どこからか、声が聞こえました。

「サウンドチェックお願いします」

 その途端、頭の上の方から、その人がさっき吹いたばかりのメロディが聴こえてきました。それはとても素敵な、だけど、どこか物悲しいメロディで、キューちゃんはいつまでも聴いていたかったのですが、やはりさっきみたいにすぐ終わってしまいます。

「ありがとうございました、今のをいただきます」

 また、どこからか声がして、そうすると周りの暗闇から、

「お疲れさまでした」「お疲れさまでした」と声がして、そして薄暗がりの中で、みんながどこかから沸いてくる札束を手にして、消えていきます。その人の手にも、ちょっと厚めの札束が渡されました。そしてそれまでざわついていた気配がどんどん消えて行きます。

「どうでしたか?」

 その人は言いました。キューちゃんはいろいろなことにただもうびっくりしていて、まったく口をきくことができなくなっていましたから、ただ、ガクガクガクと首を縦に振りました。とてもよかった、だけど、もっと聴きたかった、と言いたかったのです。

「さっきの歌は、一九五九年にこんなレコードになりました」

 その人の言葉が終わると同時に、誰もいなくなった薄暗がりの中にまた、さっき聴いたばかりの短い歌が流れてきました。

 しかしそれはさっきみたいにすぐには終わらず、続いて不思議な声が聞こえてきました。

「これは、男性の声と女性の声が重なっていて、男性の声は裏声を使っているのです」

 その不思議な声に、美しく響くトランペットがしずかに絡み合っていきます。どこかで聞いたことがある!と、ぼやっとしたキューちゃんは思いました。そしていきなり、ぼやっとモヤがかかったような頭の中が、霧が晴れたようにはっきりして、その瞬間キューちゃんはその歌の題名を知りたい!と強く思いました。その問いかけが聞こえたかのように、その人は答えました。

「誰よりも君を愛す、という題名です。歌っているのは和田弘とマヒナスターズという男性コーラスグループと、松尾和子。作曲は吉田正、歌詞は月光仮面の作者でもある川内康範、そしてトランペットを吹いているのは、増田義一さんでした。あなたの生まれた翌年に大ヒットした曲です」

 増田さんって自分のことでしょう?さっきそう呼ばれていたでしょう?他人事みたいに言うのはおかしいや?それに、なんでぼくの生まれ年を知っているのだろう?いくつもの疑問が生まれましたが、キューちゃんが口を開く前にその人はいいました。

「次の仕事が待っています」

 そして気がつくとキューちゃんはあのピンクのキャデラックデビルの助手席に座っていたのです。

 そしてまた窓の外をたくさんの街が流れ、やがてまた薄暗い穴蔵に着くと「レコーディング」という儀式が始まり、不思議なおじさんはその都度、いろんな姿に変わり、いろんな名前で呼ばれました。都丸欣一さん、と呼ばれた時は「星のフラメンコ」という歌が流れ、宮下明さん、と呼ばれた時は「港町ブルース」という曲が、そして荒尾正伸さん、と呼ばれた時は「小指の思い出」「白いブランコ」「新宿の女」などたくさんの歌が、トランペットに導かれながらあたりに響きました。その人は「白磯哮たけるさん」「羽鳥幸治さん」「早川博二ひろつぐさん」など、実にたくさんの名前で、呼ばれました。しかし、名前ごとにまったく違う姿になってしまうのです。「増田義一さん」だったときは、ちょび髭に短髪のニヒルなダンディ、「都丸欣一さん」だったときはそれとは正反対の好々爺然とした姿に、瞬時に変わってしまったのです。またある時には広い劇場のステージで立派な黒服を着て、たくさんの弦楽器の後ろから、堂々としたファンファーレを吹き鳴らしているのをキューちゃんは見ました(その時には髭はまったく消え失せ、髪も綺麗に撫で付けられていました)。またある時には煌めくライトを浴びながら、恐ろしく高い音を恐ろしく大きな音で吹き鳴らし、その音で人々が激しく踊りまくるのを、息を凝らして見つめていました。また、ある時には髪の毛に盛大にパーマをかけてまるで鳥の巣のようになった頭をして、真っ黒なサングラスをかけ、真っ黒に日焼けした姿でトランペットを大地に向け、大地に呼びかけるように不思議な音を吹き続けていました。そのそれぞれの姿をキューちゃんはじっと見つめ、そして、その音たちがぐいぐい心のなかに食い込んでいくのを感じていました。

 そして、いろんな姿でトランペットを吹くたびにその人のカバンの中に札束がどんどん溜まっていくのも見つめていました。

 キューちゃんの中には、今やたくさんの疑問が溜まってしまって、いてもたってもいられなくなりました。何よりも、名前も知らない・・・いや、名前しか知らない・・・いや、どれが本当の名前だかもはやわからないその人のように、自由自在にトランペットが吹いてみたくて仕方なくなりました。三つのヴァルヴは自由の象徴なのだというその人の言葉の意味を、キューちゃんはようやく知ることができたように思いました。かつてのぼやっとしたキューちゃんは、もうどこにもいません。


 気がつくと、あたりには光が溢れていました。いつのまにか、キャデラックデビルはあの河原のそばの茂みに戻っていたのです。ずいぶん時間が・・・そう、ずいぶん長い時間が経ったような気がしていましたが、不思議なことに河原には午後の日差しが溢れ、何より不思議なことに、お昼ご飯も抜きになってしまったはずなのに、キューちゃんは少しもお腹が減っていないのに気付きました。

 いや。

 それに気づいた途端に、キューちゃんのお腹がぐうぐうなりはじめました。

 思わず、カバンの上からお弁当の存在を確かめると、いつものようにやや大きめのお弁当箱はずっしり重いまま、カバンの上からでも健在ぶりがわかり、ますますお腹が盛大になりまくります。

 ちょっと恥ずかしくて前屈みになったキューちゃんの頭の上から、

「だいぶ時分どきを過ぎてしまいましたが、お弁当をご一緒しませんか」

 その人の声がしました。

 二人は土手に上がり、見晴らしのいい場所でお弁当を食べました。キューちゃんは、もしかしたら傷んでしまったかも、と、ちょっと心配だったのですが、お母さんが握ってくれたおにぎりからは、まだ充分に新鮮な海苔の香りがしましたし、その人がわけてくれた(キューちゃんはあまりにお腹が空いてしまい、いつものおにぎりだけではとても足りなかったのでした)フランスパンのサンドイッチはパリパリと歯応えもよく大変に香ばしく、キューちゃんはようやく落ち着きました。

「トランペットが鳴る、というのは単なる物理現象にすぎません」

 キャデラックデビルの後部座席には小さな冷蔵庫のような装置があり、そこからよく冷えた紅茶のポットを出してきたその人は、キューちゃんに甘く冷えた紅茶もご馳走してくれました。そして、言葉を続けました。

「単なる物理現象をさっき聴いたみたいな歌にするために、たくさんのトランペット奏者たちはたくさんの、自分なりの経験を積み重ねてきたのです。ぴたりと合わさったふたつの唇の間に、ある一定の強さできれいに整理された空気の細く強い流れをぶつければ、その空気の細い流れは上と下のふたつの唇を激しく開閉し、その開閉時にぶつかる唇たちの振動がマウスピースを通じて瞬間的にトランペット本体に共鳴している、それだけの物理現象です。決して、唇から音が生まれ、それが管を伝わってベルから放射されているわけではありません。トランペットをうまく鳴らす、ということは、その物理現象を身体で感じて理解し、何回でも同じように再現できるようになる、ということです。ですが、それは単なる物理現象に過ぎない」

 その人はそこで言葉を切り、紅茶をひと口。そして続けます。

「単なる物理現象を音楽に変えるのは、心です。自分が奏でようとするメロディを心から理解し、心に刻み、心の命ずるままに奏でられるようになるためには、いろいろなメロディを心から好きになるのがはじめの一歩です。あんなメロディを吹きたい、こんなメロディを吹きたい、と心から願い、そのメロディを心に刻み込めたらしめたものです。さっき、あなたは駆け足で歌謡曲からクラシック、ジャズ、と、トランペット奏者にとって重要な、さまざまな現場を通り過ぎました。同じトランペットという楽器が、まるで違う鳴り方をするのにも気づいたはずです」

 キューちゃんは、黙ってしっかりうなづきました。

 その人はキャデラックデビルの荷物室から古い小ぶりなケースを出してきました。革製のようでした。

「たぶんさっきの河原での状況から考えると、あなたは自分の楽器を持っていた方がいいでしょう。ゴムホースにマウスピースをつけただけでも練習にはなるのですが、さっきみたいなたくさんの歌を唄いたいなら、トランペットを吹いた方がいい。これは、戦前から細々とトランペットを作り続けてきた下野管楽器が考案した、手作りのポケットトランペットです。学校の楽器とはずいぶん形が違うように思うかも知れないが、管の巻き方が違うだけで長さはまったく同じなんです。さっきのプラスチックマウスピースでも構いませんが、普通のマウスピースもケースに入っています。どちらでも構わないから、これをたくさん吹いてたくさんの経験を積んでください。でもうまくなるには、そういう楽器の練習の他にもラジオなどでたくさんの音楽を聴き、心から好きになれるものを見つける必要がある。心から真似してみたくなる音楽を見つければ見つけるだけ、そんな音楽が増えれば増えるだけ、あなたはきっとうまくなる。まだ中学生だから自由にレコードを買ったり演奏会に行ったりはできないだろうけれど、それでも、音楽を聴きたいと心から願えば、必ず道は開ける。そして、必ず心から好きなメロディがみつかる。それには何日かかるか、何ヶ月かかるか、何十年かかるか、まったく誰にもわからない。人によって、道はさまざまだからです。でも飽きず弛まず焦らず続けていけば、きっと見つかります。もし迷ったならこのポケットトランペットで、何も考えずしずかに迷いが消えていくまで、ロングトーンをすれば良い。身体が拒否するまで、マウスピースから決して唇を離してはいけない」

 その人の声は、そこで途切れました。 


 気がつくと、キューちゃんは夕暮れの河原にひとりぽつんと腰掛けていました。夢を見ていたのかな、と、キューちゃんはまたぼやっとしかかりましたが、膝の上には革製ケースがあって、上から触ると、ポケットトランペットの小さなベルの手触りがあり、その確かな手触りがキューちゃんの気持ちを引き締めました。革ケースのポケットには、しっかりとした重みを放つ銀色のマウスピースが入っていました。プラスチック製のマウスピースとはかなり違う重さでしたが、取り出して握ってみると、不思議なその硬さが「しっかりやれよ」と声をかけてくれたような気がしました。

 なんだか入学した早々に不思議なことばかり起こったけれど、そしてたぶんこれからもいろいろありそうだけど、ぼくはこれがあれば頑張れる。キューちゃんはそう思いながら、銀色のマウスピースを握りしめました。




その五 坊主頭間奏曲


「いや、さすがに軍楽隊仕込みの指導力。わずか数週間で、中学生をこれだけ見事に統率するとはのう、校長」

「同感です市島先生。いや、とても女の指導者では無理だったでしょうなあ。桜庭楽器さんのご提案にはまったく、感謝感激です。しかし改めて私が言うまでもありませんが、全員丸刈りの子供たちの集団行動は、いつ見ても気持ちいいものですなあ。市島先生の長年のご指導の賜物です」

「いやいやなんのなんの。男子は坊主頭が一番ですからな、だから市内の中学をそれで統一した、ただそれだけのこと。何よりも、これだけ見事な分列行進を見るのは久しぶりじゃよ、村雨先生」

「市島先生、お褒めいただき恐れ入りますが、まだまだ訓練は始まったばかり。これから楽器を持たせて同じように機敏な動きができるように鍛え上げなければなりません。まだまだ、迷いが随所に見られる。こら三番!どこ見てる!きちんと前に揃えろ!自分だけ目立とうとするな!自分を捨てろ!気持ちをひとつに!お話の途中で失礼しました市島先生、どうしてもまだ時々は怒鳴らないと」

「いやいや、素晴らしい、こんな年寄りのことはお気になさらず。それに、これだけけたたましく機械仕掛けの号令を鳴らしていれば、大声を出さなきゃ聞こえませんもんなあ校長」

「まさしく、同感です市島先生」

「市島先生、お言葉ですが、今鳴らしている機械仕掛けの号令は、メトロノームと言います。ベートーヴェンと同じ時代の発明家が発明したもので、発明家自身の名前をつけたものです」

「いやそれは失敬、村雨さん」

「いえいえ、これも市島先生のご高配の賜物です。今回特別に議会で追加承認いただいた特別予算で拡声機材や楽器などを新調していただいたおかげです。いかに我が杖に工夫を加えたとはいえ、野外では音量が足りない。音楽はリズムが基本。ついつい音階や音程など、まず頭で理解しやすいことから覚えさせようとするのが最近の傾向のようですが、基本は歩くリズムを揃え、ひとつの集団でひとつのリズムを、まるでひとつの生物のように身体の全細胞に叩きこむべきなのです。桜庭楽器の拡声器などの最新鋭音響システムは、その目的に完全に合致します」

「恐れ入ります村雨さん。市島先生、私ども業者からもお礼を言わせてください。おかげさまで沼橋市全体の売り上げは、この四半期で全国トップクラスでして」

「なに、全国に先駆けて新たな教育機構を構築し、よき見本を作らねばならぬわけですから、当然の投資ですじゃ」

「とととということは、市島先生、二中にも同様の設備が?」

「その通りじゃ校長。しかし二中と一中が競り合うことが沼橋市全体のレベルを上げ、ひいては日本全体のレベルを上げることになるんじゃから、小さな事で騒ぐでない。むしろ、どちらも同じ強化策を施された同士で競い合うわけだから、例えばどちらかが負けたとしても機材などの違いは理由にならなくなる。気合いを入れねばならんぞ」

「うーむ、確かに。あちらも村雨先生のご指導を受けているんでしたな」

「さようさよう、強化策は公平に施さねばならんからな」

「こら三番!集中集中!」

「生徒にゼッケンをつけるのは村雨先生の発案ですか?素晴らしく効率的な発想ではないですか」

「窮余の一策にすぎません。名前を覚える時間もなかったし、わずか三十人くらいの小隊ですから可能なことです。こら三番!またよそ見しとるか!」

「どうもあの三番君は集中力に欠けとるようじゃなあ」

「恐れ入ります市島先生」



その六 たくちゃんのたくらみ



 入学式翌日の土曜日、学校のすぐそばの河原で不思議なおじさんに出会い、彼から小さなポケットトランペットをもらったキューちゃん。うちに帰ってからも、なんだか夢を見ていた気がしていたのですが、ポケットトランペットは間違いなく本物でした。そして、キューちゃんはあまり気にしていなかったのですが、土曜日午後は吹奏楽部の練習がありました。キューちゃんは結局、それをすっぽかしてしまったのです。その日の夜に、キューちゃんのうちを訪ねてきた幼なじみの、そして、キューちゃんを無理やり吹奏楽部に連れて行った張本人、つまり、その日のキューちゃんの不思議な体験の総責任者とも言えるたくちゃんの言葉で、ようやくキューちゃんはそれに気づいたのでした。

「どうして練習に来なかったのさ」

 たくちゃんは部屋に入るなり、キューちゃんに言いました。

「初練習だったんだぜ」

 たくちゃんは、ポケットからちょっと大きなマウスピースを出して、言いました。

「ぼく、トロンボーンになったよ。これがやりたかったんだ。今日いきなり変なおじさんが来て、お前の唇はトランペットに向いている!とかなんとか怖い顔で言っちゃってさ、ちょっと怖かったけど、なおたんがおじさんを無視してくれたおかげで、トロンボーンになったんだ」

 たくちゃんは、腕を伸ばしたり縮めたりしながら、つぶやきました。なおたん?と、キューちゃんが訊きました。

「なおたんは、なおたんだよ。顧問の、櫻井先生」

 なおこ、だから、なおたんか。キューちゃんは胸のなかでこっそり、なおたん、という四文字を転がしてみました。なんだか、胸のなかが急に熱くなった気がして、キューちゃんはびっくりしました。そんなキューちゃんには気づかず、たくちゃんは言いました。

「ずっとなおたんならよかったのになぁ」

 あれ、櫻井先生は顧問じゃなくなったの、とキューちゃんは尋ねました。

「いや、顧問は顧問だよ。だけど練習は変な坊主頭のおじさんが仕切って、なおたんは来ないんだ。それにしてもあいつ本当に変なおじさんだよ、なんだか偉そうに、これからお前たちを強いブラスにするために鍛えてやるから覚悟しろ、とかさ。強いブラスってなんなんだよなあ。野球の試合するわけじゃないだろうし。でもみんなにゼッケンつけちゃって、そのうち野球部と試合でもするのかもね、なんちゃってさ、勘弁しろ、だよ。野球が得意なら野球部に入ってるさ。野球とか不得意だから吹奏楽部に入ったんじゃないかよ、なあ。みんなそのゼッケンで呼ばれるんだ。ぼくなんかもう単に『三番!』としか呼ばれないんだぜ。なんだかやな感じ。あいつ先生じゃないみたいで、授業をするわけじゃないから名前なんか覚えなくていい、とか言うし。部活の時間にしか来ないんだってさ。でもトロンボーン吹けるならどうでもいいや。『全員集合』で見て、カッコいいなあと思っていたんだトロンボーン」

 その前の週に最終回を迎えた人気番組「八時だよ!全員集合」では毎回、バンドの生演奏が番組を盛り上げていました。スライドを派手に動かす様子はキューちゃんも小学生の頃から見ていましたが、まさか幼なじみのたくちゃんがそんなものが好きだとは知らなかったので、キューちゃんはちょっと愉快になりました。

 と同時に、自分の中に、吹奏楽部に行かないとその「なおたん」に会えなくなるのはちょっと淋しいんじゃないか?という気持ちが芽生えかけているのに気づきました。

 気づいたけれども、まあ、いいや、とも思いました。もう、いいや、とも。

 キューちゃんは、机に放り出したままだった茶色いプラスチック製のマウスピースをたくちゃんに差し出して、これ櫻井先生に返しといて、と言いました。なおたん、と自分も呼んでみたかったけれど、それはなんだか許されない気がしていたのです。

「なんだあ、キューちゃん結局ブラスやんないのかあ」

 たくちゃんが、ちょっと残念そうに口を尖らせていいました。吹奏楽部の人は、吹奏楽部を「ブラス」と呼んでいることを、キューちゃんはその時初めて知りました。そして、これからぼくたちは「強いブラス」を目指してこれから猛練習するんだ、と話し始めたたくちゃんの、広がったり縮まったりする鼻の穴を、ちょっと面白いなと思いながら見つめていました。

 翌日の日曜日、キューちゃんは自分で朝ごはんの残りを自分で握って、不恰好なおにぎりをふたつ作り、風呂敷につつんであの革ケースと一緒に家を出ました。

 足は自然にあの河原に向かいました。また、あの不思議なおじさんに会いたかったし、不思議なクルマにも乗りたかったし、何より、そのクルマで連れていってもらった先で聴いたいろんなメロディをもっと聴いてみたかったからです。

 名前も連絡先も聞く暇がありませんでしたが、教わったとおりにトランペットを鳴らせるようになったら、きっとあのなんとかデビルっていうクルマで来てくれるに違いない。なぜかキューちゃんはそう思い込んでいました。だからそれにはまず、トランペットでロングトーンが出来なければなりません。

 土手に座り、あの不思議なおじさんの言葉をキューちゃんは必死で思い出そうとしました。確か、スイカかブドウか、なにか果物の種を吐き出すように息を入れるんだっけ。そこは思い出せました。三つのヴァルヴが世界平和とか核融合とかいう話は、はなっからわからなかったのでアタマから消し去り、ヴァルヴには指を置いただけでした。金属でできた、プラスチックとはまるで違う存在感のマウスピースを楽器に差し込み、キューちゃんは果物の種をぷっと吐くようなつもりで唇を尖らせ、ぷっとやりました。

 すると、ポケットトランペットも、

 ぷ。

 と、鳴ったではありませんか!

 キューちゃんは驚き、そして嬉しくなって、どんどん空想上のタネを吐いていき、ぷっぷっぷっぷっとやりました。

 数回やっただけで、唇が痒くなってきたので、ちょっとマウスピースを離しました。

「離してはいけません。そこが我慢のしどころなんです」 

 出し抜けに、あの声が聞こえました。そちらをみると、まるで影が立ち上がっているかのようにしずかに、その人は立っていました。

「あ」

 あまりに突然だったので、キューちゃんは驚いてそれしか言えませんでした。

「息をまず全部吐いて。そうすると肺が空っぽになりますから、自然に息が流れ込んできます。その流れを邪魔せず、肩の力を抜くと自然に肩が上がります。そのまま目一杯、もう、入るだけ入れて、口を閉じます。そすると息が出口を求めて苦しそうに肺の中で暴れまわるのを感じるでしょう」

 その人の言葉通りにしてみると、その人の言葉通りに感じました。

「苦しいでしょうけど一瞬我慢して、肩をストン、と落としてみてください。そうすれば、胸の奥で暴れまわる息がギュッと固まって、腹の底に太陽みたいな力が宿ります。その、腹の中に生まれた太陽みたいな力を使って、たまった息を細く長く、そして早く強く唇の一点にぶつけるのです」

 その人の言葉に従って、キューちゃんはやってみました。

 ポケットトランペットが、今度は、

 ぷーーーーーーーっ

 と、長く鳴りました。

「そう、その調子。しばらく一緒にロングトーンを吹いてみましょう」

 その人は言いました。

 そして二人のロングトーンが河原の風に溶けこんで、しばらく続けていくうちに、渾然一体の風となってどこまでもどこまでも流れていくのをキューちゃんは感じました。唇がジンジンし始めましたが、我慢して吹き続けました。遠くの鉄橋を京成電車が何本も何本も、東京から千葉へ、あるいは千葉から東京へと走ってゆきました。太陽が、じりっじりっと空をゆっくり登っていく様子を、キューちゃんは生まれて初めて見た気がしました。ひとつの音だけを吹き続けるうちに、音も自分も風や光の中に溶けて、どこまでが自分でどこからが楽器なのか、自分が立っているのか座っているのか、判然としなくなりました。近くを自転車に乗った人や、犬を連れてお散歩する人たちが通りましたが、誰も「うるさい」なんて言いません。というより、キューちゃんたちがすぐそばの土手に立ってトランペットを吹いてるのにまったく気づかない様子で、行きすぎていきます。

 やがて唇がジンジンを通り越して、痛くて痛くてたまらなくなって、キューちゃんが思わずマウスピースを唇から話した瞬間、土手に静寂が訪れました。

 予感していたけれど、横を見たらやっぱりあの不思議なおじさんは消えていました。

 気づくと、キューちゃんはマウスピースを離して座っていました。なんだか唇に違和感を感じて触ってみると、

 痛い!

 指が染みたのでした。

 ひりひりひりと、日差しの暖かさが直接唇の肉に当たる感じがしました。唇を触った指を見ると、驚いたことに血がついています。怖くなって、お腹が空いていたのも、お弁当を持ってきたのも忘れ、荷物を早々とまとめてうちにかけ戻りました。

 うちに帰って柱時計を見ると、出かけてから一時間とちょっと。まだお昼前でしたが、途端に疲れが出て、それでも頑張ってキューちゃんは自分で布団を敷き、潜り込みました。目が覚めたらもう夕方で、居間から賑やかに「サザエさん」のオープニングテーマが聞こえてきました。居間に這うようにして行ったのは、足がどうかしていたわけではなく、お腹が空いて身体に全然力が入らなかったからです。だから、まるでバキュームカーのように(当時の沼橋市のトイレはまだ汲み取り式でした)ちゃぶ台のご飯を掻っ込んで、ついでにお昼に用意したお弁当も一気に片づけて、今度は満腹のお腹を抱えて転がるように寝床に戻りました。唇の痛みは消えていました。


 翌日、学校の帰り道にまたキューちゃんは河原に寄り、またポケットトランペットを鳴らしました。昨日のことを思い出したら、割と楽に鳴らせました。

 ヴァルヴを押してみたらどうなるんだろう、と思いついたのは、しばらく吹いているうちに昨日の傷がまた痛み出した頃でした。もう限界でした。ヴァルヴを押す実験は諦め、急いでうちに帰ると、ちょうど晩御飯直前。お腹が張り裂けるほどご飯を詰め込んだキューちゃんは、また這うようにたどり着いた寝床で、明日はヴァルヴを動かしてみよう、と思いました。


 そして翌日。また放課後の河原でポケットトランペットを前の日と同じ音から鳴らし始め、しばらくしてロングトーンをしたままヴァルヴを動かしてみました。

 音が変わりました。思った通りでした。

 しかし、あの不思議なおじさんは現れません。

 ヴァルヴをもっと動かしてみました。いろんな音が鳴りました。しかし、やはり何も起こりません。土手には、誰も現れません。

 キューちゃんは、言われた通りにしない時、あるいは、どうしてもうまくいかない時に、あの不思議なおじさんが現れて助けてくれる、そんな気がしていたのですが。

 なんとなく、酷く心細くなってキューちゃんはまた、ロングトーンに戻りました。

 そのうちにまた、そんな心細さも唇の鈍い痛みも、みんなロングトーンの中に溶け込んで渾然一体の風になるのを感じました。

 そんな日が、続きました。


 自分の影が、土手の上に決めた目印からある地点まで動いた時にちょうど一時間くらいが経ったことになることが、やがてキューちゃんにもわかりました。


 春から夏へと季節が移り、次第に寒さから暖かさへ、暖かさから暑さへ変わっていくに従って、キューちゃんの鳴らせる音は増えていきました。


「河原で、ひとりで練習してるんでしょ」

 ある夜、訪れてきたたくちゃんが言いました。その頃はもう梅雨時で、部屋に入ってきたときはすでに制服のズボンまでぐっしょり濡れていました。しかし、それとは別に、なんだが全体的にずいぶんぐったりした雰囲気なのがちょっと気になったキューちゃんは、疲れてるの?と聞きました。

「当たり前だよ。毎日朝から晩まで、昼休みだって練習練習でさ。最初のうちは楽器なんかいじらせてくれなくて、行進の練習ばっかり。それも、耳壊れそうなくらいでっかい音で、メトロノームを拡声器で鳴らしてさ。それに合わせて歩いてばっかり。ちょっとでもずれると、おっもーい杖で思いっきり背中をぶっ叩くんだよ。せっかくなおたんにトロンボーンにしてもらったのに、俺なんか楽器手にしたのはゴールデンウィーク明けてからだぜ」

 しばらく会わないうちに、たくちゃんはちょっと大人びた言葉使いをするようになっているのに、キューちゃんは気づきました。でももう、驚きませんでした。

「キューちゃん、一人でずっとロングトーンしてるでしょ。あれ、楽しいの?」

 キューちゃんは素直に、うん、とうなづきました。

「ちょっと痛む時もあるけど」

「なんで痛いの?」

 キューちゃんは黙って唇の傷を見せました。もうとっくにかさぶたも取れて、生傷ではなく白く跡が残っているだけでしたけれど。

胼胝たこになっちゃってるじゃん」

 一人でそこまで練習やるなんてすごいよなあ、と、たくちゃんは床にゴロンと寝っ転がりました。

「なんか、一人で練習してる方が楽しそうだな」

 たくちゃんは、ポツンと呟きました。


 次の日の放課後。いつものようにキューちゃんが河原でロングトーンをしていると、どこからか別の音が聞こえてきました。それも、大勢の音が。

 振り向くと、そこにはトロンボーンを手にしたたくちゃんと、他の吹奏楽部のみんながそれぞれの楽器を手に、音を出していたのです。

 たくちゃんが、キューちゃんの方をむいて手を振りました。正確には、トロンボーンを振り上げて、大きくぐるぐると頭の上でまわしたのです。

 キューちゃんも、ポケットトランペットを空にかざして、大きく振りました。

 そして、みんな思い思いに音を出しました。

 曲になるはずがないのに、どう言うわけかみんなの音が響きあって、何だか面白い響きになりました。いや、面白いと思ってるのはぼくだけだろうなとキューちゃんは思いましたが、ちょっと横目で見たら、たくちゃんも何だか吹きながら楽しそうな感じでした。

 他のみんなも。

 ふと気づくと、キューちゃんのそばにあの人が立って、一緒にトランペットを吹いていました。

 キューちゃんと不思議なおじさんは、目を合わせて微笑みました。

 そう、その時だけはお互い、ちょっと楽器を離してしまったんですけれど、他のみんなの音がたくさんその辺りにふわふわと流れていたから、音が途切れることはありませんでした。


「こらー!貴様ら、そんなところでさぼっていたのか!」

 

 遠くから大きな声が聞こえました。

 一瞬、音が止みました。一瞬の、静寂。


 しかし次の瞬間その静寂をついて、あの不思議なおじさんが「夜空のトランペット」の、あのメロディを吹き始めました。

 みんなは楽器を持ったまま、その音に聞き惚れていました。

 河の流れも河原を吹き登ってくる川風も、まるで「夜空のトランペット」の伴奏をしているかのように響き渡っていて、みんなはそれに聞き惚れていましたが、その綺麗な響きを引き千切るみたいに、そう、まるで目の前に広がる焔の草むらを必死で薙ぎ払うように杖を振り回しながら、「こらあ!」と怒鳴りながら、まず坊主頭のおじさんが駆けつけました。後ろから、校長と桜庭楽器の社長、そして、ちょっと遅れて櫻井先生が、一番最後を杖をついた市島華右衛門がよたよたと追ってきます。

 あの不思議なおじさんは「夜空のトランペット」を吹き終えると、また別の歌を吹き始めます。

 坊主頭のおじさんたちは、その歌たちが生み出す音の流れを掻き分けながら、みんなの方に進んできます。

 でももう、誰もそちらの方を見ていません。

 午後の太陽は、夕暮れの方に傾き始めています。

 夕陽を背にしたその人は、歌の最後の気分を盛り上げようとするかのように高くトランペットのベルを空にむけて、息を大きく吸ってクライマックスのフレーズを吹こうとしました。

 

 その瞬間。何かがキラリ!と夕日の紅に煌きました。

 その瞬間。女の人の悲鳴が聞こえました。

 悲鳴と、キラリ、と、どちらが先だったのか、キューちゃんもみんなも、実はよく覚えていないのです。

 しかし、キューちゃんたちはしっかりと見ていました。

 坊主頭のおじさんが手にしていた杖からキラキラ光る細い刀を引き抜き、振り上げ、あの不思議なおじさんに斬りかかるのを。

 その人の両手が、トランペットごと切り落とされるのを。

 金色のトランペットが夕陽に一瞬きらりと煌めいて地に落ち、ベルが曲がり、両の手を失った腕から噴き出す血潮が、どす黒い虹のように空に弧を描いたのを。


 そう、みんなはそれらを確かに見たはずなのです。

 キューちゃんたちはもちろん、校長も社長も、そして悲鳴をあげた櫻井先生も。


 しかし、櫻井先生の叫びが消えた河原には、血も、斬り落とされた腕も、地に落ちてひしゃげたトランペットも、どこにも見当たりません。


 もちろん、両手と楽器を失って気を失っているはずの男の人の姿も。


 どこからかパトカーのサイレンが聞こえてきました。


 が、誰もそこを動こうとしませんでした。

 

 


その七 キューちゃんの告白



 土手の公衆電話で警察を呼んだのは、櫻井先生でした。

 パトカーが何台も騒々しくサイレンを鳴らしながら飛んできて、あたりを散歩していた人たちも集まってきました。人の輪の真ん中に、市島華右衛門、朝岡社長、藤岡校長、そして、村岡さんが立っていました。戦争が終わってもう四半世紀を超えていましたから、例え被害者が見当たらなくても、そして元軍人であろうと、人前で刀を振り回せば銃刀法違反の現行犯となります。通報した櫻井先生ともども、キューちゃんやたくちゃんなど、一中吹奏楽部部員が全員が数台のパトカーと救急車に分乗して去っていき、後には何も残っていません。


 警察が中学生まで連行して行ったのは、彼らに万が一でも被害が及び、怪我などがあった場合を心配してのことでしたが、もちろん彼らは無傷。現場関係者ということで彼らの調書も取られましたが、彼ら全員が証言する「被害者」ならびに証拠物件の一切が見当たらないので、警察も困惑しました。

 キューちゃんははっきり覚えていましたが、実はすべてを証言したわけではありませんでした。

 あの人が「斬られた」瞬間、キューちゃんが手にしていたポケットトランペットも、煙のように消え失せたのです。そのことを伝えても、たぶん誰も信じてくれない。キューちゃんはそう思い、ポケットトランペットをもらったことも、ピンクのキャデラックデビルでいろんなところに連れていってもらったことも、トランペットについていろいろなことを教えてもらったことも、言いませんでした。ニニ・ロッソや、「夜空のトランペット」のことは、一番の秘密なような気がしていました。

 

 吹奏楽部のみんなは、思い思いに見たことを話しました。キューちゃんが被害者と思われる人物からもらったポケットトランペットでひとり練習をしていたことは、たくちゃんが話したようでした。しかし、とにかく現場には被害者も残留物も何もないのですから、警察もどうしようもなく、刀を振り回した村雨氏だけが現行犯逮捕の上収監され、他は即日警察署からは無罪放免されました。

 しかし、一中吹奏楽部部員と櫻井先生以外は、完全なる無罪放免とは行きませんでした。

 翌日の新聞に、「一中付近で銃刀法違反の元軍人逮捕」「極秘に行われていた元軍人による暴力的指導」「元政治家の教育長と楽器製造販売業者の癒着」「時代錯誤の音楽的軍国教育」「前近代的指導法の全国展開構想」などという見出しの記事が連日躍り、結果的には世代交代を目論む若手政治家たちの進言により、元国会議員として隠然たる院政を行っていた市島華右衛門氏は、完全なる引退に追い込まれました。沼橋市内の中学の坊主刈りについても、彼の引退とともに廃止になったのは言うまでもありません。引退に追い込む強烈な論陣の急先鋒を張ったのは、たくちゃんのご両親が所属する新聞社だったというのは、果たして偶然なのか、それとも、我が子を守ろうとした親心がなせる業だったか、たくちゃんのご両親亡き今となっては確認のしようもありません。

 藤岡校長はかろうじて罷免を免れましたが、翌年の定年後は自ら目論む教育長への転身は出来ず仕舞いでした。桜庭楽器は村雨氏の立場が正社員ではなかったことを理由に、朝岡社長の二ヶ月減俸ということで終わったようでした。村雨氏は被害者が不在ということで、しばらく収監の後、出所。その直後にとある大事件に巻き込まれるのですが、それは本編とはまた別の話。

 肝心の、本編の主人公であるキューちゃんの、その後の話の方が大切です。

 河原での騒動の直後、ポケットトランペットを失ってしまったキューちゃんは、たくちゃんからもずいぶん熱心に誘われたのですが、結局吹奏楽部には入らず、そのままトランペットの練習をやめてしまいました。

 その代わり、あの不思議なおじさんが言った言葉や、仕草を細かいところまで思い出しつつ、あの不思議なおじさんの行方を探し続けました。

 高校に入り、そして卒業して沼橋市の小さな金属加工の会社に就職してからも、それは続きました。その小さな会社では、桜庭楽器からの注文で金管楽器の本体やマウスピースのもとになる真鍮棒や真鍮板の製造卸に携わることになるのですが、そんな忙しい毎日でも、行き帰りの街道や駅前通りで、あのピンクのキャデラックデビルを思わず探してしまうのが習い性になってしまいました。

 ある時には、よく似たピンクのクルマに、なおたん先生(ついに中学時代にはそう呼びかけることは出来なかったのですが)によく似た女の人が助手席に乗っているのをすれ違いざまに見た気がして、大急ぎで回れ右して思い切り走ったのですが、ついに見失いました。遠くの交差点を曲がる小さなピンクの翼が見えた気はしたのですが。そしていつか、そんなことも忘れてしまいました。唇の胼胝も、いつのまにかきれいに消えて、そんなものがあったことも忘れてしまいました。

 忘れなかったのは、あの不思議なおじさんがさまざまな心ときめくメロディを吹いた時の、さまざまな名前でした。「増田義一」「都丸欣一」「荒尾正伸」「白磯哮」「羽鳥幸治」「早川博二」などのいろいろな名前を、キューちゃんははっきり覚えていました。それらは全員が全員、本当に実在し活躍したトランペットの名手で、いずれもすでに故人となっていることを知りました。休日を潰して、あるいは仕事が終わってから、さまざまなライブハウスやコンサートホールを巡り、楽屋を訪ね、さまざまなトランペット奏者たちに会い、調べた結果でした。

 そして彼ら、ならびに彼らの仲間たちのトランペット奏者たちが、いずれもニニ・ロッソに対して深い敬愛の念を抱きながら日々の仕事をこなしていることを知りました。

 そしてその仕事の多くに彼らの名は刻まれることなく、名もなき名手として歴史の藻屑と消えていく運命だということも。

 キューちゃんはやがて、それらの情報を記事にまとめては、その都度、「埜田九一朗」のペンネームで音楽の専門誌に送ることを思いつきました。いまお読みいただいている原稿は、それらの記事を元にしているのです。

 そうです。まだるっこしい書き方になってしまいましたが、キューちゃんとは、他ならぬぼくのことです。これを書いている本人なのです。

 そんなわけでぼくは、たくさんの名もなきニニ・ロッソたちを知りました。今も会社勤めの空き時間を利用して、さらにたくさんの名もなきニニ・ロッソたちを発見しては、会ってお話を聞き続けています。

 しかし、未だにあの不思議なおじさんの名前はまだわからず、まだ会えずにいるのです。

(本文終了)

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