第一章【Smile Again】P.3
思わずそのまま学校を飛び出してきてしまった。教室に戻ろうかと思ったけど、そのときはもう遅かった
鞄や荷物、全て置いてきてしまった
……どうでもいいや
踵を再び返して、校門を出た
とても教室に戻るような気分じゃない。いや、学校自体にいられる気分ではないのだ
罪悪感と虚無感が僕を襲った。どうしようもなく情けない自分に苛立ちを覚えた
今、腹の中に巻き起こる激しい渦のような感情は自分に向けられているのだ
何も出来ない自分……どうしてあの時、父が家を出て行くのを必死で止めなかったのだろうか……
泣いて懇願すれば良かったのだ。
お父さん行かないで
僕とお母さんを置いていかないで
しかしそんなことをしても何も変わらなかっただろう。余計何も出来ない無力な自分に失望してしまうだろう
それでも……あのとき何かをしていれば……
途方に暮れていた
家に戻るわけでもなく、僕はまるで死人みたいな顔つきで街中をさまよった。行く先の見えない闇……僕の目にはそう映っていた
次第に街中を歩いていく内に、僕は何のために生まれてきたのだろう、と考えるようになった
僕は何のために生まれてきたのだろう
大した取り柄があるわけでもなく、なすがままにされている自分
不幸になるために生まれてきた自分
僕は父に捨てられた
それは必要としていないから
ボクハウマレテキテハイケナカッタ
ボクハダレカラモヒツヨウトサレテイナインダ
ナンノタメニ
ナンノタメニ
ボクハイマイルノ?
ボクハ……ダレニナルンダロウ……
二度と幸せなど訪れることないだろう、超越した深い悲しみが僕に取り憑いていた
楽になりたい……
こんな悲しみから、解放されたい…
過去に戻りたい
どうすれば過去に戻れるのだろう。出来れば、父がその違う女の人に出会う前のところまで…
もしかしたら何かの拍子で過去を変えることが出来るかもしれない
自分なら…
気がつけば僕は国道を横断するための歩道橋を歩いていた。真ん中辺りまで来ると虚無な顔つきで柵を超えて下を見る
たくさんの自動車やトラックが僕の真下をものすごいスピードで行き交いしている
――ここから飛び降りれば、過去に戻ることが出来るかもしれない…
不意に力が入る。かと思えば力が抜ける
何だか急に眠たくなってきた
力が抜けて視界が真っ白になる。体が軽くなって、浮いた感覚……
今なら空でも飛べそうだ……
全ての音が止まった
父からあの話を受けたときみたいに……
体中が落ちていくような感覚になった…
何か聞こえた
――――――っ―――――
体中に温もりを感じた。はっと我に返って辺りを見回す。僕は歩道橋の端っ子に座り込んでいた
ただ座り込んでいるだけではなく、無造作な形でへたり込んでいたのだ
その瞬間嫌な汗が全身から吹き出た。そして体中に感じている熱こもったこの温もりは何だろう
ふと耳の傍で荒い息遣いが聞こえた。荒い息が耳にかかり、何だかほんのりと熱かった
見上げてみると、僕は驚きのあまり目を見開いて呆然とした
町田先生だった。町田先生の無精髭が見える。僕を抱くように座り込み、激しく肩で呼吸をしていた
体には熱気がこもり、額には汗びっしょりとかいていた
「……せん……せい……」
僕はかすれた声で町田を呼んだ
町田は激しく呼吸しながら、僕を見下ろす。そして僕は怒られるのかと思って思わず目を瞑り、下唇を噛み締めた
しかし町田は思いもよらず、僕の頭に手を乗せた
「大丈夫か?」
たった一言。それが僕の緊張を弛緩させた。それと同時に今まで堪えてきた何かが臨界点に達した
気がつくと僕は震えていた。恐怖と悲しみが僕を襲った。でもそれと同時に安堵と嬉しさを感じた
僕は顔を隠しながら嗚咽を漏らして泣いた
そんな僕を町田は何も言わず、ただ黙って抱きしめてくれた……
「飲むか」
近くの公園のベンチに僕と町田は座っていた。町田は近くの自販機でジュースを買ってきてくれた。僕はそれを受け取ったが、とても飲む気になれずしばらく手に持った缶とにらめっこをした
町田が言うには、僕が叫んで職員室を出た後すぐに僕を追いかけたかったが、そうはしなかった
理由は当然自分のクラスのこともあるからだ。しかし彼はすぐに一旦教室に行くと、授業を受け継いでいた副担に事情を説明すると、すぐに僕を追いかけ始めたという
しばらく探し回って、見つけたとき僕は……歩道橋から飛び降りようとしていた
あのとき微かに聞こえたのは先生の声だったんだ
「どうしてあんなことをしようとした?」
町田が下を俯いている僕に問いかけた。僕はしばらく黙り込む。自分でも分からなくなっていた。急に視界が真っ白になったのだ
だけど……
「戻れる気がしたんだ」
僕はそう呟いた
「あそこから飛び降りれば、何もかもが元通りに戻る気がしたんだ。過去に戻れると思ったんだ」
そんなことありえないと今更ながらに思い、僕は自嘲気味に笑った
「……過去に戻ることなんて、誰にも出来やしないよ」
町田は僕の話を聞きながら、寂しげにそう言った
「人は後ろに下がることなんて出来ない。どんなに辛くたって、前しか歩けない。不器用な生き物だ」
僕は黙っていた。そう言われると、全ては何も変わらないと言われているようだった
もうお父さんは二度と帰って来ない
町田にそう宣言されているようだった。また涙ぐんでしまう
「さっきは悪かった」
先生が本当に申し訳なさそうに謝ってきた
「お前の気持ちを汲みもしないで、勝手だったよな。本当に悪かった」
――そんなことないっ!
僕はそう言いたかったが、言葉が出てこずまた俯いてしまう
「なぁ」
先生が僕を呼ぶ。僕は涙ぐんだ目で先生を見上げた。町田は穏やかな目をしていた。いつもの眠そうな半開きの目だが、穏やかな雰囲気が感じとれた
「……少し……先生の昔話を聞いてくれないか?」
先生の昔話?
僕は疑問に思ったが、先生の目を見つめた。澄んだ目の奥が揺らいでいる。どこか寂しげな感じだ
町田は小さく笑った
「……先生なぁ、ちょうどお前と同じくらい……いや、もう少しちっちゃかったな?父親を亡くしてなぁ……」
僕の体中に電気が走った。悪寒が頭の中を貫く
「父親が死んで、先生は母親と二人暮らしをすることになった」
「……そう……なんだ……」
僕は上手く言葉が言えなかった。父親がいなくなる悲しみが共感出来るが、町田は父親を亡くしたと言っている。しかも今の僕より幼いときに……
そのときの悲しみがなんとなく想像できた
「母親としばらく二人暮らしだった」
「しばらく……って?」
僕が訊ねると、町田はまた小さく笑った
「……いなくなったんだ」
「え……」
「だからいなくなったんだ。ある日突然……姿を消したんだよ」