第一章【Smile Again】P.1
全ての音が突然ピタリと止んだ
僕は目の前に向かって座っている父の瞳を見つめた。いつもは自信に満ち溢れている力強い父の瞳。なのに今のそれは力なく、酷い疲労を抱えているようだった
目の下にはくまが出来ている。普段ふっくらとしていた頬も、何だかやつれてげっそりとしている
恐らくここ何日が眠れずにいたのだろう
僕はそんな父の姿を直視することが出来ず、目を逸らした
「目を背けるな」
声は父の声だった
荘厳な雰囲気を漂わせる父の声。怒られるときや真剣な話をするときに出す低い声
今がまさにそれだった
僕は震えながらゆっくりと顔を上げた
父からその話を受けたのはその日の晩のことだった
母はいつもより早く寝室代わりに使っている和室に入って眠っていた
普通に考えてもまだ早い時間だった。そして父はリビングでアルコールを入れていた
そんな父が部屋にいる僕を呼んだ。大事な話がある、と言っていた
リビングに入ったときから既に嫌な予感がしていた。それを煽るように僕の嫌いなアルコールの匂いが鼻を刺激していた
「父さんはこの家を出て行く」
長い沈黙の末に言い出された言葉がそれだった。まだ幼い僕の心は、その直球を真っ正面から受け止めることが出来なかった
だが、言葉の意味は理解していた。だからその言葉を聞いたとき、周りの音がピタリと止んで、頭の上に大きな岩が落ちてきたかのような感覚に陥った
僕は父の目をじっと見た。手をぎゅっと握る。手だけではなく、体中全体に嫌な汗が吹き出していった。それが体温を急激に奪い去っていく
「どうして」
やっと言えた言葉がそれだった
理由が知りたかった
どうして父がこの家を出て行かなきゃいけないのだろう?
父はしばらく無言だった。一定の間隔で長いため息をついた
父は昔から仕事で一人どこかに出かけていた。単身赴任と言えるほどの長い間隔ではなかったが、三日、四日、最長では二週間。仕事で家を空けることが多かった
それでも幼い僕は父の優しさを知っていた
出張先から帰ってくると、必ずお土産を買ってきてくれた
欲しい物があると、自分の小遣いを減らしてまで買ってきてくれた
僕を甘やかし過ぎだと、母がよく愚痴っていた
たまに家に帰ってきたときは僕の勉強を見てくれた
僕は分数の足し算が苦手だった
二分の一から三分の一を引くと、六分の一になる理由がどうしても分からなかった
一つの物を二つに分ける。その内の半分の一つをまた三個に分ける。それから一個引く。すると残るのは三つの物を分けた内の二つになる。だったら答えは三分の二になるのではないか?
父にそう尋ねると父は笑っていた
『お前は理論から物事を知ろうとするのか。確かにお前の言う通りだな』
でも父はそのときに、分母を通分して数を揃えてから引くという計算方法を教えてくれた
やっぱり僕には分からなかった
どうして二分の一が六分の三になって、三分の一が六分の二になるのかってことを……
頭の中で林檎を想像してみた。一つが三つ、一つが二つ……頭がおかしくなりそうになった
そんな父との思い出がある。今父が言っている「家を出ていく」というのは、また仕事で家を空けるのだということではないということを僕は分かっていた
だから知りたかった。何故父が出て行くのか……
「お前にはまだ分からないだろう」
父はそう呟いた。その言葉を聞いて、僕は頭中に血液が駆け上るのを感じた
「分かる、分からないじゃないよっ!」
気がついたら僕は立ち上がって父に向けてそう怒鳴っていた。父に向かって怒鳴るというのは初めての経験だった
だけど父は顔色一つ変えずに、僕を見つめていた。また鼻がつんっとした。アルコールの匂いのせいではない。必死に湧き起こる涙を堪えているからだ
――泣いちゃ駄目だっ!
僕は自分にそう言い聞かせた
父は僕を見つめながら小さく息を吐いた
「そうだな。お前にはちゃんと話しておくべきだ」
いつもの口調でいつもの声で父さんはそう言った。そして座りなさい、と僕に言う
僕は気持ちを抑えながらも、きちんと父に言われた通りにした
しばらく黙り込んだ
「……お前は今、好きな女の子とかいるか?」
えっ?って思った。そのときに脳裏に浮かんだのは、僕のクラスメイトの一人の女の子だった
肩にかかるくらいの長さの黒髪に、前髪がキチンとそろえられていて、無邪気な笑顔が僕の胸をしめつける
小学生の僕が感じる初めての気持ち…
父は黙って僕を見ながら、さらに言葉を続けた
「その人のことをどう思う?」
「どう思うって?」
「色々あるだろう。守ってあげたいとか、いっしょにいたいとか、振り向いて欲しいとか」
父が今あげた言葉は全て自分の気持ちに当てはまるものだった
確かに彼女を様々な物から守ってあげたいと思う
彼女といっしょにいたいと思う
彼女に振り向いて欲しいと思う。自分のことを見て欲しいと思う…
だから彼女のそばでちょっと目立つようなことをしてみたり、彼女が通る道をわざと通ってみたりする
彼女に見て欲しいと思うからだ
「父さんもお前と同じだ」
「どういう……こと?」
父が守ってあげたい、いっしょにいたい、振り向いて欲しいと思う相手はただ一人のはずだ
父と母はお互いに好き合っているから、僕が生まれて、そして家族というものが成り立ったはずなのだ
なのに……
「父さんがいっしょにいたい、と思うのは母さんではないということだ」
その言葉を聞いて、また先ほどの感覚を覚えた。父さんは母さんを守りたいとは思わない
母さんといっしょにいたいと思わない
母さんに自分を見てもらいたいと思わない
そういうことだろうか……そういうことなのだ
「……じゃあ……誰といっしょにいたいの?」
僕?
僕でなければ誰?母さんじゃないなら……誰?
父さんはうんざりするように顔をしかめた
「それはお前に言ったって仕方ないし、言いたくもない」
「どうして」
「お前だって、他人に好きな人が誰なのかを言うのは嫌だろ?それと同じだ」
父さんの言うことは理にかなっていると思った
友達に好きな人を教えたいなんて思わないし、絶対に知られたくないと思う。それと、同じだ
僕はそれから先言葉が言えなかった
父には別の相手がいると言うことは分かった。でもまだ分からなかった
どうして父が出て行かなきゃいけないのか…
「お父さんは……その人といっしょに暮らすの?」
思いつきでそう言ってみた。けどそれはそれ以外何物でもなかった
「そうだ」
「……結婚……するの?」
「今すぐ、というわけではないが、いつかそうなりたいと考えている」
そんな……
僕は絶望の淵に落とされたような思いになった。母さんはそのことを知っているのだろうか、知っているんだろうな。だから今眠っているのだ
こんな気持ちになったのだろうか……いや、僕なんかよりもっと辛い気持ちになっただろう
「じゃあ……僕はどうなるの?」
僕は震える声でそう訊いた。涙が出そうだ……
「お前は何も変わらないよ。いつも通り母さんといっしょに暮らすんだ。いつものように学校に行って、友達と遊んで…」
「そういうことじゃない」
僕は父の言葉を遮った。今僕が訊きたかったのは、そういうことではなかった
「僕は誰になるの?」
父と母がお互いに好きになって、僕が生まれた。そして三人で家族となって生きてきた
だけどこれからは違う方向へと流れは変わる
父はいなくなり、僕と母だけで暮らしていく
そして父は違う人と結婚して違う暮らしを始める
じゃあ、僕は誰になるんだろう?自分の存在が分からなくなる
誰の子供になるんだろう?
僕は誰に……
僕は必要とされていない?
何だか急に自分が怖くなって、吐きそうになる気持ちを必死で抑えた
「お前はお前だ」
暗闇の中で父の声が聞こえた。あのとき分数の足し算を教えてくれたときの父の声だった
「お前はお前で他の誰でもないよ。父さんがその人と結婚しても、お前は父さんと母さんの子であることには変わりはないんだ。会いたいときはいつでも会えるし、勉強だって教えてやれる。欲しいものがあったら父さんが買ってやるし、連れて行って欲しいところがあったら休みの日に出かけよう」
「そこにはお母さんはいないのに?」
僕がそう言うと父は口を噤んだ
言い返せなくて黙ったのだと僕には分かった
父と母の間に僕がいた。いつでもどこでもどんなときでも…
そこに僕という個が成り立っていたのだ
だけどこれからはその中には父がいなくなるし、母がいなくなる。孤立する
父は深くため息をついた。ばつが悪そうな顔つきになった
「父さんが言いたいのは……お前は何も変わらないということだ」
「分からないよ」
「そうだ。そうだよな。お前にはまだ分からない。お前にはまだ早過ぎたんだ。こんなこと、お前に話すべきではなかった」
それは違うと思った
分かっても分からなくても、その真実だけは知りたかった。確かに分からなかったけど、話すべきではなかったというのは違う
そう言いたかった
けど言えなかった
何だか自分がとてつもなく惨めで、ちっぽけな存在に思えた
父はコップに入ったお酒を一気に飲み干してから、目を伏せて言った
「……話は終わりだ。もう寝なさい。明日も学校だろ」
僕は黙って父の言う通りにした。本当はまだ知りたかった
色々知りたかった。だけどそれ以上に、この場所から逃げ出したいという気持ちの方が強かった
僕は立ち上がって、ふらつく足取りでリビングを出ようとした
そのとき立ち止まって、僕はもう一度父を見た
「……出来ないの?」
僕は震えた声でそう呟いた
「お父さんがその人のとこに行っても、僕とお母さんといっしょに暮らすことは出来ないの?」
父さんは振り向きもせず、そして答えもしなかった。父さんは答えてもくれない
そして……そんなこと出来るわけがないということを僕自身が分かっていた
僕は唇を噛み締めて、リビングを出た
そのとき……背中から父が
「ごめんな」
と言ったような気がした。気のせいかもしれないが、そう聞こえた
僕は部屋に戻ると、今まで溜めていた思いを吐き出した。ベッドの中に入ってうずくまった。声を押し殺して泣いた
次の日、廊下で足音が聞こえた。ベッドの中で僕はそれが父さんのものだと分かっていた
目を閉じながらそれを感じていた
すると部屋のドアが開き、中に誰かが入ってきた
「……寝てるか?」
父の声でそう聞こえた。僕は一睡もしてなかったが、寝てる振りをして答えなかった
「……父さんの携帯の番号を置いとく。何かあったら、すぐに電話しなさい」
その言葉を聞いてから数秒後、部屋の中には僕以外誰もいなくなった
家の玄関のドアが開き、閉まる音がした
それから遠ざかっていく足音が聞こえなくなるまで、僕はずっとうずくまっていた
足音が聞こえなくなると、僕は起き上がって、机の上にある物を見る
数字が並んで書いてあるメモ用紙だった。僕はそれをとってくしゃくしゃに丸めると、ゴミ箱に乱暴に捨てた
そのとき……もう二度と心から笑えなくなるんじゃないかと思えるくらいの悲しみが僕を襲った