キスと出刃包丁
往生際の悪い太陽が、山のてっぺんにしがみついている。そんな時間。
薄暗い駅のプラットホームで、始発電車を待っていたら、後ろからスーツの裾をツンッと引かれた。
振り返ると、いつだったかテレビで見たアンティークドールように整った顔の少女が、俺をじっと見ていた。
真っ白い肌に、真っ赤な唇。赤い縦巻きロールのツインテールに、黒いベルベットのリボンとワンピース。
こんな田舎では、とんとお目にかかる機会もない、いわゆるゴスロリファッションというやつだ。
古びた駅構内と少女がミスマッチすぎて、咄嗟に言葉が出てこなかった。
彼女が無表情のまま器用に唇の片端だけクイッと上げる。それを見て停止した時間が動きだし、どこかに行きかけた意識が戻ってきた。
「あの、なにかご用ですか?」
おそるおそる、聞いてみるが……今すぐ回れ右して走り去りたい。とてつもなく嫌な予感がする。
すると、なんの前触れもなく彼女の腕がスッと上がった。
「キスをして。じゃないと刺す」
ぎょっとして下を見る。
左胸にピッタリと出刃包丁の刃先が当たっていた。
「早くしてちょうだい」
顔を前に出して唇を突き出す少女の頬に、フワッと赤みがさす。まるで人形が急に人間になったような、生々しい変化。ますます鼓動が早くなり、握った拳の内側が汗ばんだ。
腰を曲げてゆっくり顔を近づけると、彼女のくるんと上向きに生え揃った羽のような睫毛が震えた。
息を止め──チュッと音を立てて深紅の唇に軽くキスをする。
ゴツン。
と音がした。間をあけて、ソロリと下を見る。俺の足の間に出刃包丁が転がっていた。
──ひぃ……。足に刺さらなくて良かった。心臓、止まるかと思った。
安堵して顔を上げる。と少女の視線とぶつかった。
人形のように無表情だった彼女が、急に人間らしくなって、今はなんとも複雑な……けれど、女の子らしい顔をしている。
またしても言葉に詰まり、ぼうっと眺めていると、少女はみるみるうちに首から上を真っ赤に染め、唇を隠すように両手で押さえ──涙目になった。
──えっ、なにその顔。俺のせい?
回れ右した少女が、ホームを走る。
その足が、階段の手前でピタリと止まった。クルンと髪を振り回しながら振り返る。
「あ、明日も来るから!」
「は?」
言い捨てて、少女は階段を二段飛ばしで駆け昇った。
落ちている出刃包丁をどうしたらいいのか。いや、今のは一体なんだったのか。通り魔に襲われたのか。
のちに、この美少女と付き合う事になるのだが、彼女はどうやらヤンデレと言うものらしい。
律儀に毎朝、田舎の駅で、奇妙なアプローチを続ける彼女に会うのが──だんだん楽しみになってくる。
なんて、あの日の俺には考えもつかなかった。
そう。出刃包丁の始末で頭を抱えるなんて、はじまりにしか過ぎないのだ。