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白い獣現る



 閉じたまぶた越しに、紫の火花が飛び散るのが見えた。

 そして響き渡る獣の遠吠え。



 痛みで朦朧として、今にも落ちていきそうだった意識が、雷鳴のような轟音によって無理やり叩き起こされる。


「……?」


 ガラスを力任せに引っ掻く、歯が浮くような音。溶接場に響く、鉄が姿を変える時に鳴るような耳をつんざくような音。

 落雷が鳴り響き、鋭く巨大な爪が紫の障壁をゆっくりと貫いていく。

 そのままこじ開けるよう縦に動く爪に、障壁が歪みだす。


「どうなってんだ……?」


 唖然としたスバルの問いに答える者は誰もいない。

 無理やり縦に引き伸ばされた障壁が、元に戻ろうと収縮を繰り返す。引き裂かれた先から修復しようと、紫の光の粒子が集合する。けれどそれも続く巨大な牙に易々と喰い千切られた。

 噛み砕かれた障壁は、薄く脆い飴細工のように粉砕される。

 紫のかけらが雨のように降りしきる中、白い毛皮に覆われた獣の前脚が、私の目の前で地響きをたてながらフィールドの上へと降り立った。


「ウゥグルルルルル……」

「白い……狼?」


 轟くような低い唸り声。アイリスのか細い声が、蝋燭に灯る火よりも容易くかき消される。

 そう。それはとてつもなく巨大な、白い狼だった。

 予兆もなく突如現れた体長5メートル程もある巨大な狼が、私の体をまたぐようにしてオッドウェルと対峙する。

 だが対面のオッドウェルは微塵も怯む様子を見せず、むしろ牙を剥く狼に向け、喉の奥から威嚇するような唸り声を発している。

 それはまるでアルへ向けた敵意そのものだ。


「……アル?」


 そこで気が付く。混乱する皆の中に、アルの姿が消えている。


「うおおっ!」


 気合いの雄叫びか、獣の咆哮なのか。オッドウェルが狼に向かった走りだす。すぐさま詠唱が聞こえ、オッドウェルの正面に魔法陣が現る。その陣を通すことで魔法・攻撃を増強する魔法だ。


「【掻き消えろ!!】」

「!!」


 召喚された青紫の火球が、魔法陣を通ることで強大な炎の塊となり白狼へと向かう。

 狼が避けても避けなくても、その真下にいる私は無事ではいられない。

 もうすでに動く体力さえ消耗しきってる。体を抱きしめるようにして身を強張らせた。


「ガウッ!!」

「え?」


 狼の鳴き声と同時に、柔らかい感触が体全体を覆う。

 狼が伏せに近い態勢をとって、私の体を腹部の毛皮で覆ったのだ。

 その直ぐ後を追うように、激しい轟音と衝撃が炸裂するが、狼は赤い眼をギラつかせ真正面から火球を噛み砕いてそのまま爆破させる。

 本来なら熱波となって蒸し焼きになっているところのはずが、狼の毛皮の中まで熱は届いてこない。

 もし狼が腹部を完全に地面につけていたなら、私は狼の体重で圧死していただろう。

 けれど、狼は圧死させない距離を保ちつつ、毛皮で熱風と衝撃から私を守ってみせた。

 偶然?


(ううん、偶然じゃ……)

『やはり……』


 急にどこか遠い場所から声が聞こえて、思考が一気に分散された。

 どこから聞こえてきた声なのか。

 その声が、身を起こした狼の毛皮の隙間から見えたオッドウェルから発されたものだと気付くまでに、かなりの時間がかかった。


『お前……、やはりそうか……』


 遠くから風に乗って聞こえる拡声器の音のようにボヤけた声だった。

 オッドウェルが喋っているはずなのに、ずっと遠いところから声が聞こえる。

 おそらくそれは、どこか遠くでオッドウェルを操っている張本人のものだ。

 選手控え室で出会った、アルによく似た容姿を持ったヨナスの声だ。


『そうか……、そんなところにいたのか』


 それは問いかけでもなく、意味不明な、ただ独白に近い。思わず溢れたつぶやきのようだった。


「ウォウッ!!」


 その声をかき消すように、狼が激しく吠えて走り出した。器用に私を避け、オッドウェルへ向かって飛びかかる。


『恥知らずめ!』


 オッドウェルの左手が紫に輝く。キーラインの輝きだ。

 空中にいくつもの魔法陣が描かれ、碇をつなぎとめるほどの太さの鎖が大量に召喚される。

 鎖は蛇のように波打ちながら、狼の動きを拘束しようと勢いよく襲いかかる。

 けれど狼はその巨体からは想像のつかない俊敏さで、鎖をかわし、またはその鋭い爪で叩き落としていく。

 その攻防を見守るしかできない私の肩を、誰かが後ろからそっと掴んだ。


「アンジェリカ、動けるか?」

「あ、皇子」


 狼によって破壊され、遮るもののなくなったフィールドへ、レオンがこっそりと上がってきたのだ。


「よく耐えた。頑張ったなアンジェリカ。もう大丈夫だ」


 そっと体を抱き起こされ、慎重に抱きかかえられた。

 力の入らない体をもろともせず、皇子はゆっくりと立ち上がる。皇子の胸元に頭を預けると、1人きりの重圧から解き放たれて、じわりと染み込むような安堵感に満たされていく。


「皇子……」

「大丈夫だからな」


 レオンがそう言うなら、もう任せてしまっても大丈夫なんだ。涙が滲む。

 後方で行われている戦闘に刺激を与える事のないよう、レオンは気配を消してフィールドを降りた。


「アンジェリカ!」


 フィールドから離れるのを待ち構えていたアイリスとスバルが駆け寄ってきて、レオンごと抱きしめるように覆いかぶさってきた。


「直ぐに治療するからね! それまでの我慢だからねアンジェリカァ」

「アンジェリカ……! もう大丈夫だからな!」


 消耗しきっているはずなのに、泣きながらでもすぐさま治癒の魔法を詠唱しだすアイリスに、くすりと笑みが溢れる。


「……ありがと……」

「喋らなくて良い。アンジェリカの治癒が落ち着けば、ここから離脱するぞ」

「離脱って……」


 レオンの言葉にスバルが戸惑ったようにフィールドに目線をやった。そこではまだオッドウェルと白狼が争っている。


「あの狼って……」


 言いにくそうに言葉を切るが、その続きは誰もが気付いている。だからか、その躊躇を無視してレオンははっきりと告げた。


「アンジェリカ以外は全員見ていたから分かるだろう。あれはアルフレッドだ」


 やっぱり。そんな感想しか抱かなかった。

 アルフレッドの特徴的な白い髪と同じ色をした毛皮。同じ赤い瞳。

 オッドウェルが見せた、アルフレッドへの威嚇と変わらぬ狼への対応。

 そしてあの狼は、私を決して傷つけないようにと、動作一つどれを取ってもそんな配慮に満ちていた。

 あの狼は、アルだ。


「そりゃ、見てたけど」

「レオン様は、このことをご存知だったのですか?」


 治癒の効果を確認しながら、アイリスが聞く。


「……いや、私も知らなかった。そもそもアルの生まれを私も知らない。ヤツが子どもの頃に私が拾って側に置いた。大まかにいうと、それだけだ」

「あいつ、ちゃんと自分の意識はあるのか?」

「それも不明だ。アンジェリカを守っていたのは間違いないが、……だが、それをもって理性を保っていると確信するのは話が別だ。確証がない」

「そんな……」


 その時一段と激しい激突音が鳴り響き、全員がハッとフィールドを見やった。


「あれって……」


 狼がオッドウェルを踏みつけようと前脚を掲げているが、オッドウェルから立ち昇る白い煙のようなモヤがそれを防いでいる。

 モヤはゆっくりと集まり、そしてもう一匹の白い狼の形へと変貌していく。

 具現化した狼は、すぐさまアルの首に食らいついた。


「ガァッ!!」

「アル!!」


 レオンが思わずと言った様子で声を荒げる。

 だがアルは首筋を噛まれたまま、前脚を大きく振りかぶって勢いよく叩きつけ、オッドウェルの狼を跳ね飛ばす。

 その勢いのまま、アルはオッドウェルに襲いかかった。モヤでできた狼を喰いちぎり、相手の抵抗を噛み砕いていく。

 モヤでできた狼の奥にいるオッドウェルの体から、狼がダメージを食らうたびに血飛沫が飛散する。


「やばい。あいつ、このままじゃオッドウェルを殺しちまう」

「オッドウェルはアンジェリカを殺そうとしたのですよ!?」


 スバルの言葉に、アイリスがキッとなってスバルに反論する。

 そのアイリスの言葉に、スバルは黙ったまま私の姿を見た。

 繰り返し治癒の魔法を受けているとはいえ、見られるのが恥ずかしいくらい私の体は傷付いてボロボロだ。正直あまり見ないで欲しい。

 おそらく露出している肌のほとんどが打ち身で青黒く変色しているし、フリル過多なメイド服は、フリルなどとっくに千切れているし、血と土でドロドロだ。

 お気に入りの髪だって、今は血で固まってたり、もつれて絡んでバサバサになっている。

 スバルの視線に耐えられず、アイリスの治癒魔法で少しは動くようになった体をきまり悪げにモソモソと動かした。

 スバルの瞳が悲しそうに眇められる。


「アイリスの言う通りだ。どこもかしこも傷だらけで、いつ死んでても不思議じゃなかった」

「そうですよ! こうやって、命があるのが奇跡みたいなもんなんです」


 スバルが優しく私の髪を手櫛でとくが、すぐに引っかかってしまう。カァッと顔に血が集まるのが分かった。みすぼらしい髪。恥ずかしくて、目尻に涙が浮かぶ。

 けれど、髪に触れるスバルの手に指を伸ばして懸命に握りしめた。


「アンジェリカ」

「スバル……。いいの。アルを助けに行ってあげて」

「アルさんを?アンジェリカ、大丈夫よ、アルさんなら……、アルさんなら……」


 言いながら、アイリスの目から涙がこぼれる。

 アイリスだって今の姿のアルが、操られているオッドウェルを殺してしまうことを良しとしていない。

 もしオッドウェルを殺してしまったら、アルは普段の姿を取り戻した時、自分をひどく責めるだろう。もしかしたら私たちの前から姿を消してしまうかもしれない。


「いつも本当にごめんねアイリス」

「ほんとに。アンジェリカはいつも困らせてばかり……」


 アイリスが涙に濡れた頬を、そっと優しく私の頬に押し当てた。


「でも愛してる」

「私も、アイリス」


 治癒の詠唱を再度唱えると、アイリスは立ち上がった。

 その後ろで小さなため息が聞こえた。


「まったく。何一つ言うことを聞かないお前たちの主人はさぞ苦労していた事だろう」


 アルを置いて撤退を主張していたレオンが、ゆるく首を振る。

 たしかに、スバルの試合に乱入した時もレオンの言うことなど全く耳を貸さなかった私たちである。

 そのくせ行き詰まったらレオンの指示に頼っていたので正直耳が痛い。

 その事を分かっているのかと言わんばかりに、私たち一人一人と視線を合わせて確認した後、レオンは腰に差した剣に触れた。

 おそらく動かなくなった試合待ちの生徒の1人からでも奪ってきた剣だろう。


「あの巨体を止めるには骨が折れる。仕方がない、私も行こう。アルフレッドは私の従者だからな」

「それはダメ」

「だめだろそれ」

「駄目です。お断りします」

「……」







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