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現れたのは


 衝撃は皆無。

 痛みはいつまでたっても降りかかってこない。


「……?」


 現実を直視する恐怖と、何が起こっているのか分からない恐怖。

 好奇心は恐怖にも勝るのだろうか。

 結局私は恐る恐る、襲いかかってこない脅威を確認するために、ゆっくりじんわりと薄く目を開けていく。


「ひっ!」


 思わず喉の奥で悲鳴をあげる。

 オッドウェルは、まるで獣のような形相だった。

 もともと薄顔の狐顔ではあったけれど、今はそんな面影は全く消え失せ、歯をむき出し、理性を失った目はさらに釣り上がってギラギラと充血している。まるで血に飢えた獣そのものだ。

 背中を丸め、ヒグマが威嚇のために二本足で立ち上がったようなシルエット。睨みつけているのは———、私ではない。

 もっとずっと遠いところを見ている。

 それはさっき、私たち3人を同時に吹き飛ばした時もそうだった。オッドウェルは、ううん。キーラインは、一体何 を見ているのか。

その視線の先は、


「……ゲート?」


それはグラウンドと外部をつなぐ出入り口の1つ。レオンもそこを通って観客席からこのグラウンドに駆けつけてきた。

 そのいくつかあるゲートの1つに、オッドウェルは明確に威嚇して見せている。


「アンジェリカ」


 呼びかけにハッとする。

 声の方向に向くと、アイリスが覆いかぶさってきた衝撃で目が覚めたスバルが小声で私を呼んでいた。

 意識が逸れているオッドウェルを刺激しないためだろう。


「早くこっちに」


 アイリスの頭部を動かさないよう腕に固定しながら、スバルが手招きする。

 けれど私は首を振った。力が入らないだけでなく、あちこちに感覚がなくて動ける気配がしなかったのだ。


「わかった。待ってろよ」


 言うと、スバルはいくつかの小石を転がしてくる。

 私の体に小石がコツリと当たって止まると、石はみるみる内に紫のタンザナイトの輝きに変わった。

 そこから、ゆるゆるとした紫の光が立ち上る。スバルの聖女の力だ。

 光に包まれた先から、痛みに喘いでいた肺に正常に空気が行き渡りだした。鉛のようだった体から重みが取れて、感覚がなくなっていた末端に、神経が通いだす。


「うぅっ」


 失っていた感覚が治療の効果で蘇り、ただしおまけに痛覚までも連れてくる。


「【癒しを与える】」


 省略呪文を唱え、ひとまず痛覚を抑え込む。そして気付かれぬようジリジリと、匍匐前進の要領でスバルの元へ向かった。


「大丈夫かアンジェリカ。悪ぃ、オレあんまり回復上手くないみたいだ」

「そんな事ない。スバルのおかげで魔法を使う余裕が生まれたから助かった。それより……」


 スバルの腕に抱かれたアイリスの顔を覗き込む。

 まだ目覚めていないけれど、額の傷はスバルが聖女の力で治療してくれているようだった。


「アイリス、よかった……」


 頭を打っているのでまだ心配ではあるけれど、ひとまず治療が終わっていることに安堵する。

 けれどその安堵もつかの間、オッドウェルの突然の咆哮に肩をビクつかせる。

 まだ何も終わってないのだ。


「オッドウェル……、なんか急に様子がおかしいよな」

「うん、さっきからずっと何かを警戒してるみたい」

「この操られた空間で、何を警戒するってんだ。そもそもオレらはこの陣から出る事も出来ないってのに」


 吐き捨てるようなスバルの言葉にハッとする。


「そうだ、スバル聞いて。この障壁の壊し方なんだけど」

「壊し方? そんなのあるのか?」

「皇子がさっき教えてくれたの。スバルとキーラインの力を一点に重ね合わせれば、その力の負荷で障壁は破損するって」

「一点に?」


 やはりスバルもそこが気になったのだろう。怪訝そうに問い直して来る。


「そう、一点同時じゃないと障壁は歪むだけで破壊までには至らない。同時に障壁に向けて力を放つ必要があるの」

「でもそんなの……。オッドウェルが障壁を攻撃するように持っていっても、そこに対象がいないんじゃ、すぐに狙いは変えられちゃうだろ?」

「そうだけど……、それはどうにかするしかないのよ。どのみち私たちの力だけじゃ、オッドウェルに近付いてキーラインを取り除くのは難しそう。外にいる皇子にも手伝ってもらわないと」

「確かに……」


 オッドウェルに弾かれた時、私たちはその危険性を体感していた。

 私たちを吹き飛ばしたあの衝撃波が、もし熱線や刃であったなら、私たちは全員が既に死んでいたのだ。

 至近距離でオッドウェルと向かい合うのは危険が過ぎる。奇襲をかける事も出来ない、こんな何もない平面ではあまりにも不利だ。


「アンジェリカ」


 俯いて考え込んでいると、スバルが私の手を握りしめた。


「ス、スバル?」


 強く私の手を握ったまま、スバルの神秘的な紫の瞳がヒタリと見据えてくる。その瞳の中に自分の姿を見て、あまりの距離の近さに思わず動揺してしまう。


「ど、どうしたの?」

「アンジェリカ、防御魔法を張るとしたら、何重までいける?」

「え?」


 防御魔法。スバルの質問には答える。サポートキャラの性質が私の動揺を抑え込み、答えが口からまろび出る。


「強度を高めたいの?それなら全詠唱の上で、省略詠唱を重ねがけていくことになるわ。時間が経つ毎に効果は消えていくから、全詠唱での重ねがけは時間的にも不利になるの。でも、省略詠唱の重ねがけだと、4回が限界。それ以上かけても、最初の効果を補強するだけで強度はそれ以上変わらなくなる」

「なるほど……」

「もう少し言えば、それは1人で重ねがけした時の場合です。もう1人詠唱する者がいれば、全詠唱で更に重ねて、強度はかなり強固なものとなるはずです」

「アイリス!」


 スバルの腕の中でぐったりと倒れていたアイリスが、今は黒曜石のような瞳をしっかりと開けて微笑んでいた。


「ごめんなさい、気を失ってたんですね」

「アイリス、無理しないで」


 身を起こそうとするアイリスを慌てて押し留める。しかし私の顔を見た瞬間、アイリスは柳眉をぎゅっとしかめた。


「何言ってるのアンジェリカ。あなたはこんなにボロボロじゃないの」

「でも、さっきまで頭から血が出てたんだよ」


 アイリスが血を流していたショックが蘇り、半べそになりながら伝えるけれど、アイリスはゆっくりと首を振った。


「アンジェリカ、今は皆が力を合わせる時でしょ? スバルさん、何か考えがあるんですか?」


 こんな時、アイリスはものすごく強いのだ。付き合いの長さでもう引いてくれないであろう事が分かる。


「ある。ちょっと危険かもしれないけど……」

「!!【援護を求める!!】」


 スバルが口を開いた瞬間、私は反射的に詠唱した。

 オッドウェルが、無差別的な360度の衝撃波を放ち出したのだ。

 魔法ではなく衝撃波なのは、オッドウェルの理性がしっかりしていないためだろう。

 キーラインに操られているのに理性もクソもないのだけれど、魔法を制御するのには精神力がものをいう。

 キーラインに操られながらオッドウェルが魔法を操れていたのは、彼がキーラインのコントロール下の元、それなりの判断能力と理性を持っていたからだ。

 詠唱なしの衝撃波はキーラインの純粋な力で、そのため無意識下でも発動がしやすいのだ。


「精神が暴走してる?」

「でもなんでこんな急に……」


 オッドウェルの様子がどんどんとおかしくなってきている。

 一体あの出入り口に、何があるっていうのだ。

 私はゲートを振り返り、そして絶句した。

 障壁の向こう側、私たち以外時が止まった紫の空間の中に、人影が見えたからだ。

 まるで幾重にも鎖をかけられたような紫の拘束に、重い足取りでこちらに向かってくる人物。

 そしてゲートから現れたのは、アルフレッドだった。




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