追憶
「み……くん……み…るくん……満くん!」
「んん……?」
意識の遠くの方から呼び掛ける声と、ゆさゆさと身体を揺すられる振動で目を覚ます。
「もう、やっと起きた。もう部活終わったよ」
身体を預けていた机から頭をもたげ、寝ぼけ眼で満を起こした声の主を見る。
満が突っ伏して寝こけていた机の前に、学生服を纏った少女が呆れ顔で満を見下ろしていた。
「雛乃さん……?」
「もう下校時刻だよ。帰ろ?」
学生服の少女に促されるまま立ち上がり、机の脇に掛けたスクールバッグを手に取って辺りを見る。
そこは満が生活の拠点としている宿ではなく、簡素な机と椅子が整然と並んだ教室だった。
窓の外には既に夜の帳が下りていて、徐々に覚醒する満の脳が状況を飲み込むと同時に、満の胸がずきりと傷んだ。
ーーこれは夢。明晰夢というものだ。満にとっての幸せと、それが奪われた日の、一生忘れられない記憶の夢ーー
「それでね、先生ったら急に「今度のコンクールはこれをやるんだ〜」って言い出しちゃって、みんなに大ブーイング受けてたの」
「あはは、さすが三枝先生……」
教室を後にして生徒玄関に向かう間、隣を歩く少女の話に満は幾度となく繰り返した相槌を打つ。
彼女は桜咲 雛乃。満と同じ高校に通う一年先輩兼恋人で、この時満は一年生、彼女は二年生だった。
彼女とは中学生からの付き合いで、たまたま同じ委員会の活動で一緒になる機会が多かったことで仲が深まり、一年ほどの友人期間を経て満の高校入学と同時に交際関係に発展した、そんな関係だった。
良くも悪くも、何もかもが平凡な満に対し、雛乃は容姿端麗、人当たりも良く愛嬌があり、学業の成績においても秀才、部活動での吹奏楽にも才能を発揮する、あらゆる面で恵まれた人物だった。
「ね、満くん。今度の日曜日、先生が家の用事で出れないからって部活お休みになったんだけど、久しぶりにお家行ってもいいかな?」
「久しぶりって……二週間前に来たばかりだよ」
「二週間は久しぶりだよ〜。満くんの好きな煮込みハンバーグ作ってあげるからさ、それ食べて……ね?」
「……うん。どうせ二人とも居ないだろうし、わかったよ」
恥じらうように目を伏せながらの雛乃の言葉に、一際強い胸の疼きを覚えながらも満の口は巻き直したテープのように当時の言葉を繰り返す。
それを聞いて雛乃は嬉しそうにはにかみ、そっと満の腕に自身の腕を絡めた。
これが彼女と交わした最後の約束であり、それが果たされることが永遠にないことを、今の満は知っている。
「そういえば、不審者が出たって騒ぎになってたけど部活は普通にやるんだよね」
「うん……先生も迷ったみたいなんだけどね。今のところ生徒に危害を加えられたってわけでもないし、コンクールも近いからってことでやることにしたみたい。
まあ、私には頼れる騎士が毎日待っててくれてるからね! 帰り道も安心!」
「それやめてよ……普通に恥ずかしいんだから」
「ふふ、頼りにしてるよ。満くん」
満は特に部活などの放課後活動に参加していたわけではないが、下校時刻ギリギリまで吹奏楽部の活動に参加する雛乃に帰宅時間を合わせ、のんびり二人で歩いて帰るのが日課になっていた。
そんな二人を見た雛乃の友人が面白がって満を「騎士みたい」と言ったのを雛乃がいたく気に入り、こうしてことあるごとに満を弄り、満が嫌がるというのが当時の定番のやり取りになっていた。
「すみません、ちょっと道を聞きたいんですが……」
ゆっくりと、幸せそうに歩く二人に突然声が掛けられる。
二人を呼び止めたのは黒いスーツを着てビジネスバッグを携えた長身の男。
当時学区内で高校生に対する声掛け事案が発生し、警戒するよう周知されていた満達だったが、身綺麗で、困ったように弱々しい苦笑を浮かべる男には不思議と脅威を感じず、足を止めてしまった。
「駅まで行きたいんですが、道に迷ってしまって……」
「えっと、駅だったら……」
「ああ、ちょっと待ってください。スマホスマホはっと……」
快く道を教えようとした雛乃を制し、男はビジネスバッグを弄る。
そして男がバッグから手を抜いたその瞬間、満は雛乃の身体を思い切り突き飛ばしていた。
「……あれ? どうしてわかったのかな?」
男の手に握られていたのは、刃渡り二十センチほどの柳葉包丁。
バッグから抜いた瞬間雛乃を狙って振り下ろしたそれは彼女の身体を突き飛ばした満の腕を浅く斬りつけていた。
「逃げて!」
満が叫ぶと、雛乃は素早く立ち上がり男に背を向け全速力で走り出す。
男はそれを追おうとするが、満は男の包丁を持った腕に取り付き、足を止めさせる。
「この……邪魔するなクソガキ!」
男は満を振り払おうと腕を振り回すが、満は必死に男の右腕を掴み、食らい付く。
暫しそうして揉み合うとふとした瞬間、満の腹に鈍痛が走り身体がくの字に折れ曲がる。
男が満の腹に膝蹴りを打ち込んだのだ。
「ゲホッ……!」
「死ねクソガキ!」
腹からせり上がってきたものを吐き出し、満は男の腕から手を離してしまう。
戒めを解かれ、自由を取り戻した男は荒い息を繰り返しながら悶絶する満に歩み寄り、右手の刃物を高く振り上げ、振り下ろした。
「ダメぇぇぇぇぇぇ!!」
次の瞬間、満の目の前に紅い華が咲いた。
「ひなの……さん……?」
満と男の間に割って入った雛乃の胸に包丁の細い刀身が根元まで埋まり、彼女の身体が崩れ落ちるのに従って包丁が引き抜かれた箇所から、鮮血が迸った。
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