眼球クラゲ
グロテスクな描写あり。気持ち悪い話。
ゆらゆら。
右に左に、上に下に。
ゆらゆら。
眼球クラゲは四角い水槽の中で揺らぐ。
眼球クラゲ。
グロテスクで不思議なその生物はある日突然、わたしの意識に何の違和感もなく滑り込むように現れた。
小さな透明の箱の中、主を失ったばかりの空きスペース。
眼球クラゲは見計らったように、そこに住み始めた。
もともとその水槽には金魚を飼っていた。
お祭りで掬い上げた、黒いでめ金と和金の二匹。
珍しく冬を越すことができたと思った矢先、春になると卵を産んだ。
まさか金魚掬い出身の金魚達が、卵を産むとは夢にも思っていなかったわたしはそれはもう喜んだ。
放っておくと卵を食べてしまうらしいので、親は別の水槽に移した。
しばらくすると卵の中に目らしきものが確認できた。
魚独特のぎょろっとした、小さな目。
時々くるんっ、と卵の中で動いた。
その度にわたしははしゃぎ、飽きもせずにずっと水槽の中を覗いていた。
そのうちにちらほらと卵が孵化し、小さな稚魚が産まれた。
金魚というよりはメダカのような姿をしていた。
わたしは本当に嬉しかった。
稚魚用の餌を買い与えたり、水変えを小まめにしたりと世話をした。
だかその一方で、稚魚の数はみるみる減っていった。
金魚の稚魚を育てた経験の無い、全くの素人だったわたしには無理だったのだ。
稚魚達がメダカの姿から金魚になる前に、全て死んでしまった。
わたしはショックでしばらく立ち直れなかった。
あんなに喜んだぶん、それを失った喪失感は大きかった。
だがその翌日。
奇妙な事が起こった。
水槽を片付けようと中を覗くと、小さな卵を一つ見つけた。
白く濁っていて、すでに卵のまま死んでいるのがわかった。
わたしは水槽を片付けなかった。
もう死んでいるとわかっているのに、なんだか名残惜しくなった。
もう少しくらいこのままにしていてもいい、そう思った。
そうこうしている内に、卵は日に日に大きくなっていった。
一週間でピンポン玉ほどの大きさまで“成長”した。
さすがに不気味に思い始めたが、水槽を片付けたりはしなかった。
卵はそれっきり大きくなる事はなくなったが、今度は内側が変化するようになった。
白く濁っていた卵の内部に、黒くて丸い模様が浮かび上がってきた。
さらには卵の“中身”がくるんっ、と動き始めた。
間違いなく卵の中身は“生きて”いる。
でも、これは金魚なのか?
それでもわたしはやはり捨てる気にはなれなかった。
そして、死んだはずの卵が“成長”を始めてから二週間が経ったある日。
卵が孵った。
ぴっ、と亀裂が入り、ずるずると“中身”が這い出してくる。
わたしは目の前で起きている信じられない出来事に、思わずぎょっとした。
卵から這い出しきたモノは“眼球”だった。
白い球体の端から、神経のようなものが伸びている。
中心は黒くやや赤みがかっていて、周りにうっすらと血管が浮き出ていた。
まさに眼球そのものといえる物体は、それ単体が生物であるかのように、明らかに意思を持った動きで水面を浮遊しだした。
恐る恐る近づいて水槽の中を覗き込む。
泳ぐというよりは水面を漂うように、ふわふわと身を委ねている。
「クラゲみたい……」
得体の知れないその生物を前に、わたしはそう思った。
だからわたしはその生物のことを“眼球クラゲ”と呼ぶ事にした。
ある日のこと。
朝起きていつものように水槽をのぞくと、
眼球クラゲが二匹に増えていた。
私はぎょっとして、水槽の中へ目を凝らした。
……居る、確かに二匹。
水槽の中を隈なく探したが、卵の殻らしきものは見つからなかった。
気にはなったが、きっと殻は食べてしまったんだろうと、それ以上深く考えるのは止めた。
それなのに翌日、眼球クラゲはまたも数を増やしていた。
今度は四匹。
これはさすがおかしいと思った。
卵は昨日まで一つも無かったはずだし、当然殻も見当たらない。
私は夜中、水槽にかじりつくように眼球クラゲの様子を見張った。
しばらく見張っていると、眼球クラゲの体に変化が起こった。
体の一部が凹み、それが徐々に広がっていき、歪な瓢箪の形になった。
くびれは少しずつ狭くなって、ぷつん、と千切れた。
信じられない事に、私の目の前で眼球クラゲは分裂したのだ。
他の二匹もいつの間にか分裂していて、眼球クラゲは八匹に増えてしまった。
言うまでもないが、眼球クラゲはこの時点で金魚という可能性はなくなった。
金魚は分裂して繁殖したりはしない。
ただの眼球と言いたいところだが、それも無理がある。
なら、この生物は一体何なの?
わからない。
ここでわたしは初めて、この生物に恐怖を感じた。
結局その日、八匹に増えた眼球クラゲはそこで増殖を止めた。
眼球クラゲはそれから毎夜一日一回のペースで増殖を繰り返し、その数を着々と増やしていった。
今の水槽だけでは到底収まりきらなくなって、昔使っていた水槽を引っ張り出してきた。
それでも眼球クラゲは際限なく増え続ける。
水槽がいっぱいになるのは時間の問題だった。
わたしはいっぱいになった水槽の一つの、眼球クラゲを処分することにした。
水槽に蓋をして、隠すように布を被せた。
密閉した水槽にあんな数が密集していれば、水中の酸素はすぐに尽きてしまうだろう。
わたしは水槽をそのまま二日間、放置した。
布を被せた水槽は物音一つ立てずにひっそりと静かに、ただそこに在るだけ。
それがわたしにはかえって不気味だった。
わたしは中の様子が気になり、水槽に被せている布をめくってみた。
そして、
布の陰に隠れていた水槽を覗き込むと、
目。
目。目。目。
目、目、目、目、目目、目目目、目目目目目目、目目目目目目目目目目目目目目目目目目、目目目目目目目目メ目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目め目目目目目め目目、目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目メ目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目メメ目目目目目目目目目目目目目目目目目目め目目目目目目目目目目目目目目目目目目目
目が、たくさんの目が。
水槽内を隙間なく埋め尽くし、さんびゃくろくじゅうどいろんなトコロに彷徨わせていて。
なにこれ?
気持ちわるっ……、
ぎョろリ、
眼球の一つが、わたしを見た。
捉えた。
ぎょろっ!
ぎょろ、ぎョロぎょろギょろぎョろッ、
さんびゃくろくじゅう度に飛び散っていた視線が、
バラバラだったはずの眼球が、
数えきれないほどある幾つもの目が、
いっせいにわたしを
見た。
「――――――っひぃ!」
ごとッ、
パリンッ!!
水槽が床に落下し、ガラスが割れた。
ばしゃんっ、と水が流れ出る。
ぼろぼろと、こぼれ落ちた眼球が、床に幾つもいくつも転がる。
ぶるぶると震える眼球達。
形はどれも不揃いで、みな歪な形状をしている。
極端に小さいモノ。
異様に大きくて、表明がぼこぼことしているモノ。
陥没しているモノ。
小さな眼球が何個も固まり、溶け合うようにくっついているモノ。
分裂に失敗し、歪んだ瓢箪の形をしているモノ。
傷んだ苺のような色に変色し、ぬるりとした粘膜を張っているモノ。
「ひ…っ、いやぁ……!」
散らばる眼球に、もはや恐怖しが芽生えない。
いくつかの眼球達は、ぎょろぎょろと視線を彷徨わせている。
もう駄目だ。
処分しないと……!
わたしは散らばった眼球をかき集めてビニール袋にまとめて入れた。
ぎょろぎょろと動く眼球が気味が悪くて仕方なかったが、なるべく手元を注視しないようにしながら急いで片付けた。
すべての眼球を集め終えると、袋を二重にしてしっかりとくくり付けた。
あとは他のゴミと一緒に捨てよう。
袋の中身は時折がさがさと音をたてた。
わたしは袋を持った手に伝わる感触に、このまま捨てても大丈夫だろうかと不安がよぎった。
物音を不信に思った誰かに、万が一見つかってしまったら……。
袋の中の眼球達は、いまだにがさがさと音をたてて動き回っている。
どうしよう。
このままでは捨てることができない。
わたしは迷った。
どうすればいい?
どうすれば……。
そしてわたしは、ある一つの方法を思いついた。
眼球を、殺す。
抵抗はあった。
でも、迷ってる暇はない。
こいつらは、可愛い金魚ではない。
不思議なクラゲなんかじゃない。
ただの化け物なんだ。
わたしは眼球がひしめき合う袋を、そっと床に置いた。
そしてペンケースの中から、普段あまり使わない鉛筆を取り出した。
がさり、がさりと音をたて続ける袋。
わたしは袋をじっと注視しながら、ゆっくりと屈み混んだ。
鉛筆を握りしめる手の平がじっとりと汗ばんでいる。
やれ、やるんだ。
わたしは鉛筆の先を袋目掛けて突き刺した。
ぷちっ。
弾ける音、感触。握りしめるた鉛筆の先から手の平に伝わる確かな感覚にぞわり、と寒気にも似た嫌悪感で思わず叫び出しそうになりそうになる。
鉛筆が突き刺さって開いた小さな穴から、滲み出るように濁った赤色の液体が漏れてきた。
ぷちっ、ぷちっ、ぷちっ。
わたしはただひたすらに、鉛筆を刺し続けた。
そのうち気味の悪い感覚も気にならなくなった。
ぷち、ぷち、ぷち、ぷぢゅ、ぷち、ぷち、ぷちっぷち、ぷちぷちぷちぷちぷちぷちぷちぷちっぷちぷち、
ぷち、ぷち、
ぷちっ、
ぷち…………。
いつの間にか、袋の中身は動かなくなっていた。
白い袋は穴だらけで、濁った赤い液体に塗れている。わたしはその袋ごと新聞紙に包み、他のゴミと一緒に可燃ゴミ用の袋に詰め込んだ。
一刻も早く袋を捨てたくて、わたしは急いで外にゴミを捨てに行った。
ゴミを捨てて部屋に帰ってきたわたしは、一気に脱力感が押し寄せてきた。
何とかなった……。
「はぁ……」
ため息。
疲労感と、じんわりと広がる安堵からだった。
ふと両手を広げて見てみると、先程の液体が手に付着していた。
わたしは慌てて手を洗った。
うっすらと赤色に染まった泡は、呆気く流れてゆき、わたしの手に着いた汚れは落ちた。
そうだ、床の掃除をしなければ。
あの液体が染み付いては大変だ。
そう思ったわたしは雑巾を掴み、部屋へと向かった。
そして、真っ先に見つけた“異変”。
あの液体は付着している床。
そこにある、“何か”。
眼球。
ごぼごぼと、泡立つ赤い液体。
その液体の中のにはあの眼球が、いた。
「ひ、」
何で?
全然捨てたはずなのに!
わたしはパニックになりながらも、また眼球を潰しにかかった。
スリッパを履いた足で、何度も踏み付ける。
ぷちぷちと弾ける感覚。
赤色の液体が飛び散る。
足にも着いたが、構わず踏み潰し続けた。
ぐちゃぐちゃと湿った音だけになり、わたしはようやく足を止めた。
潰した、これで全部。
それにしても、何で眼球はここに?
見落としてしまったんだろうか。
あるいは、また生まれたのか。なら、どうやって?
袋から漏れだし、床に付着した液体。
そこに群がっていた眼球達。
何故?
液体に塗れた床。
ないはずだった眼球。
でも再び現れた。
眼球が潰れて出てきた液体。
そこに、いた。
眼球が。
液体から、
産まれた?
液体が着いた場所から、眼球が、眼球が産まれた?
まさか。
そういえば、液体といえば。
わたしさっき、手、洗ったよね?
何で、って。
それは、
手に、
あの液体が、
つ い て、
た、
か………ら……、
ごぼ、
ごぼごぼごぼごぼ…っ
血の混じったような赤い液体が泡立ち、そこから眼球が生まれた。
「きゃああああああっ!」
目が目が目が目が!
生まれては落ち生まれは落ちわたしの手から次々と目が目、目が目があああああああァ!!
わたしは無我夢中で眼球を払い落とした。
すぐさま洗面所に向かい、手に着いた液体を洗い流そうとした。
そして蛇口に手をかけようとした、その瞬間。
「いやぁぁぁ!」
絶叫した。
蛇口を覆い尽くす、目目目目目目目目目目目目目。
そこだけじゃない。
わたしが眼球を潰すのに使った鉛筆。
ゴミ袋を取り出すために開けた引き出しの取っ手。
ドアノブ。
履き慣らしたスニーカー。
それら全てに、眼球が群がっていた。
わたしは絶叫しながら、狂ったように手当たり次第、眼球を潰して回った。
自分でも訳がわからなかった。
めちゃくちゃだった。
潰したら液体が付いて、また眼球が生まれてしまうのに、わたしは構わず素手で眼球を叩き潰した。
ぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶち、
ぶちっぶちぶちぶぢ、
ぶちぶちぶちぶぢゅっ、
ぶちぶちぶちっ!
潰れる。
生まれる。
潰す。
産まれる。
潰しても潰しても潰しても、
眼球はウマレル。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も!
「いやあぁああああぁあああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
わたしはただひたすら、辺り一面に群がる眼球達を潰した。
潰した、潰した、潰した。
潰せ潰せ潰せ。
ぜんぶ、
潰ななきゃ。
潰して潰して潰しまくれ。
あれもこれも眼球という眼球は全部。
あぁ、親の金魚にも眼球クラゲが。
ふたつ、ついてる。
潰せ、潰せ。
クマのぬいぐるみも写真も漫画もポスターも全部全部全部眼球がいるいるいる。
潰なきゃ潰さなきゃああ。
ああああああああぁぁああああああああぁあああ!!
ここにも眼球がある、
ここにも、
鏡に映ったわたしの顔にもふたつ、
眼球が!
眼球が眼球が眼球が眼球が眼球眼球ががが眼球が眼球眼球眼球眼球眼球眼球眼球眼球がぁぁぁぁぁぁ、
潰せ潰せ潰せ――――
ぐぢュうッ、
わたしの視界は闇に堕ちた。
初の短編です。鬱要素はないので連載とは別にしました。話は変わりますが、調子に乗ってHPを作りました。こちらに投稿させて頂いた物をまとめました。是非遊びに来てください。