第一章(4/6)
自室のベッドの上に、白羽の体は横たえられていた。
脱衣所での一件のあと、夜彦は意識のない白羽を抱えて居間へ急いだ。そして、弥宵の指示を受けて、白羽を部屋まで運んでベッドに寝かせたのである。
「安心せい。疲れて眠っておるだけで命に別状はない」
「そうか」
弥宵の話に、夜彦は安堵で胸をなで下ろす。いろいろ聞きたいことはあったが、それが一番聞きたい言葉だった。
「で、一体、何があったんじゃ?」
「何って……」
体験した夜彦自身でさえ、何が起きたのか未だによく分かっていなかった。だから、どこからどう説明すればいいのか困ってしまう。
その様子を見て、弥宵は更に尋ねてくる。
「白羽が別人にでもなったか?」
「……そこまで分かってるってことは、これが虹宮がうちに来た理由なんだな?」
「そうじゃ」
ようやく理解の追いついてきた夜彦に、弥宵はそう頷いた。
白羽の抱える問題を説明するにあたって、弥宵はまず悪魔についてのごく初歩的な知識について質問してきた。
「悪魔憑きは、お前さんも知っておるな?」
「要するに、悪魔に取り憑かれて、意識を乗っ取られることだろ?」
「白羽の症状も、その悪魔憑きの一種じゃないかとわしは考えておる」
そう言うと、弥宵はまた続けてこんな質問もしてきた。
「今日一日、白羽と接してみてどうじゃった?」
「何だよ、いきなり」
「いい子だと思わなかったか?」
「それは確かに……」
自身も悪魔に襲われていたのにまず他人の心配をする。引っ越しを手伝ってもらったお礼にハイビスカスティーを淹れる。目つきの悪い自分のことを怖がらない…… まだ一日どころか、ほんの数時間しか接していないにもかかわらず、夜彦は既に白羽に強い好印象を抱いていた。
「優しくて、慎ましくて、大人しくて、天使みたいないい子で、こんな可愛い子と一つ屋根の下暮らせてラッキー、あわよくば脱衣所で裸の白羽と出くわさないかな……と思わなかったか?」
「さすがにそこまでは思ってねえよ」
見てきたかのように言う弥宵に、夜彦は渋い顔をする。
「しかし、そういういい子ほど、えてしてストレスや不満を溜め込んでおるものでな。全部が全部というわけじゃないじゃろうが、白羽も無理をしている部分があるようじゃ。
それで、普通の人間ならハメを外したりしてストレスを解消するところを、どうも白羽は別人に変身することによって解消しているみたいなんじゃ」
「別人に変身、か……」
夜彦は彼女のことを思い出す。つり上がった目に、明るい色の髪。「変態!」と他人にビンタするような気の強さ。あれはどう考えても白羽とは別人だった。同一人物だというなら、まさに変身としか言いようがない。
「確かに、顔も性格もかなりきつい感じになってたな」
「尋ねてみれば分かったじゃろうが、おそらくその子は虹宮赤音を名乗ったはずじゃぞ」
「名前まで変わるのか」
それでは本当に別人である。夜彦は驚きを隠せなかった。
しかし、弥宵は落ち着いたものだった。
「虹宮白羽のままでは、できないことがあるということじゃろ。ゲームをやる時に、主人公にアルスだの、えにくすだの、ああああだの、自分の本名をつけないようなものじゃ」
「そういうもんか?」
「お前さんだって中学の頃は、〝天原夜彦は世を忍ぶ仮初の姿。俺の真名は『夜天の祓魔師ナハト・ナハト』〟とかなんとか言って、カッコつけておったじゃないか」
「……分かりやすいたとえをどうも」
単なる嫌がらせとも言えないから、夜彦は複雑な表情でそう答えた。
一方、弥宵は悪びれるでもなく説明を続ける。
「さっきは漠然とストレスが原因と言うたが、赤音に変身する時というのは、基本的に白羽が怒っている時だと考えていいようじゃな」
「まぁ、短気そうなやつではあったけど」
「そうじゃろう。お前さん、殴られたりせんかったか?」
「ああ」
夜彦はようやく納得がいった。あれは要するに、優しくて他人に怒れない白羽の代わりに、気の強い赤音がビンタをしたということなのだろう。
「で、俺を殴ってスッキリしたから元に戻った、と」
「そういうことじゃな。今のところ、そうやってストレスを解消させる以外に、変身を解く方法は見つかっておらん」
これを聞いて、夜彦の頭に一つの疑問が浮かんでくる。
「でも、要は悪魔憑きなんだろ? ばーさんたちなら治せるんじゃないのか?」
「さっきも言うたが、悪魔祓いの術の多くは失伝してしまっておる。その上、白羽の症状はかなり珍しいもののようでの。古い書物を調べてみても、治す方法どころか過去の事例すらろくに見つけられんというのが実情のようじゃ。
じゃから、悪魔憑きというのも仮説の一つに過ぎん。悪魔祓いの間でも見解は分かれておる。秘められた悪魔祓いの力が暴走しておるとか、祖先の悪魔の血が目覚めかけておるとかな」
「なるほど……」
本来の悪魔憑きは、悪魔に意識を乗っ取られた状態のことである。その為、たとえば魔王パズズに憑依されれば、普通その人間はパズズの人格になるものなのだ。白羽のように本人の別人格になるような例は、夜彦も聞いたことがなかった。だから、弥宵たちベテラン勢が、白羽の症状を悪魔憑きだと断言できないのも頷ける。
「それで、治す方法がないなら、せめて変身しても生活に支障の出にくい環境で暮らす方があの子の為かという話になっての。
その点、うちは悪魔祓いの家系で、こういう現象には理解がある。それに、夜彦は同い年じゃから、学校でのフォローもしやすい」
「最悪、忘却術で周りの連中の記憶を消せば、変身してもなかったことにできるもんな」
「うむ」
今日突然話を聞かされたが、弥宵が白羽を預かろうと決めたのは、深く考えた上でのことだったようだ。長年悪魔祓いを務めてきただけのことはある。
「それに、いい子過ぎる性格を直して、ストレスを溜めないようにすれば、変身体質が治ったのと同じことになるはずじゃろ? じゃから、白羽には夜彦の影響を受けてもらおうと思ってのう」
「どういう意味だ、クソババア」
「いや、そういう意味じゃろ」
確かに、間違っても白羽は「クソ」とは言わないだろう。納得はいかないが理解はできた。
「そういうわけで、家族や周りに迷惑をかけたくないという本人の意思もあって、うちで引き取ることになったわけじゃ」
「本人の意思って……」
それは「空気を読んだ」「強制された」という意味の常套句ではないか。
「そういう子じゃから、変身するまでストレスを溜め込んでしまうんじゃろう」
白羽に目を落とすと、弥宵は嘆息を漏らした。
あの天使のような微笑みの下で、白羽は悩みや苦しみを抱えていたらしい。そう考えると、今の寝顔の方がずっと安らかで心地良さそうに見えてくる。
しかし、それにしても――
「変身ねぇ……」
眠る白羽の姿を眺めながら、夜彦は思わずそう繰り返す。
白羽の変身体質を治す方法は、今のところ分かっていない。一度変身したら、ストレスを解消するまで元に戻らない。変身後の赤音という少女は、暴力でストレスを解消しようとする……
これは最初に想像していたより、ずっと大変なことに巻き込まれたのではないだろうか。
と、夜彦がそう考えた時だった。
白羽が意識を取り戻したようだ。何度かまばたきすると、それから体を起こす。
「まだ寝とらんでいいのか?」
「は、はい」
弥宵にまずそう答えると、白羽は次にいきなり頭を下げたのだった。
「すみません。ご迷惑をおかけして」
この発言が、夜彦には気になった。まるで何が起きたのか分かっているかのようではないか。
「変身中の記憶があるのか?」
「いいえ。でも、変身前に何があったか考えると、大体予想がつくので……」
「まぁ、赤音は完全な別人というわけじゃないからの。白羽の隠れた一面とでも言えばよいのか」
白羽の説明を、弥宵がそう補足した。
そして、赤音が――変身中の自分が何をしでかしたか予想がつくだけに、白羽は再び頭を下げるのだった。
「すみません。多分、殴ったり蹴ったりしちゃったと思うんですけど」
「大丈夫だよ。別に怪我もしてないし」
「本当ですか? 折れたりしてませんか?」
「折っ…… いや、マジで大丈夫だから」
本気で怒ったらビンタ一発では済まさないほど、赤音は暴力的な性格なのだろうか。いや、白羽にそういう暴力的な一面があるということなのだろうか。
ただ、そんなことを考える前に、夜彦にはまずやるべきことがあった。白羽に謝ることである。
「元はといえば俺のせいなんだし、虹宮が気にすることじゃねえよ。俺の方こそ悪かったな」
「はぁ……」
無理をしている面があるというだけで、本質的にはやはりいい子のようだ。夜彦の言葉に、白羽は納得したような、していないような、そんな曖昧な顔つきになる。
「なんじゃ、白羽を怒らせたのはお前さんじゃったのか。一体、何をしたんじゃ?」
「それは……」
変身のきっかけを思い出して、夜彦は口をつぐんだ。同じ理由で、白羽も赤くなってうつむいてしまう。
しかし、弥宵はお構いなしに質問を続けた。
「白羽の裸でも見たのか?」
「さっきから分かってて言ってるだろ、クソババア」