第一章(1/6)
ドアを開けると、少女の裸が目に飛び込んできた。
着やせするタイプらしい。華奢にも思えた彼女の体つきが、服を脱いだ今は膨らみの確かなものに変わっていた。
そして、その豊満な体に、透き通るような白い肌が全身くまなく――それこそ普段は下着に隠れているようなところにまで――広がっているのだった。
「!」
「す、すまん!」
天原夜彦は慌てて脱衣所のドアを閉じた。
天使だ女神だと虹宮白羽のことを半ば神聖視していたから、同い年の女子高生の裸を見たというのに、いかがわしい気持ちは全く湧いてこなかった。ただ自分の行動を後悔するばかりである。
(やらかした……)
今まで長い間ずっと祖母との二人暮らしだった。だから、祖母が居間にいるなら風呂には誰もいないと、そう思い込んでしまったのだ。
しかし、それは自分の一方的な都合である。被害者の白羽には何の関係もない。
そう考えて、脱衣所のドアが開いた瞬間、夜彦は再び彼女に謝るのだった。
「悪い、虹宮!」
慌てていた先程とは違い、今度はしっかりと頭を下げて謝罪する。
だが、いつまで経っても白羽の返事はなかった。
彼女らしい反応として、「いいですよ」とすぐに許してくれるか、「気をつけてくださいね」と軽く注意してくるか、そのどちらかだろうと予想していた。それが何も言ってこないということは、怒りや恥ずかしさのあまり、口を利く気もなくなってしまったということだろうか。
「虹宮……?」
白羽の様子を確かめる為、夜彦は恐る恐る顔を上げる。
すると――
「変態!」
ビンタが飛んできた。
叩かれた頬がじんじんと痛む。というより、ひりついて熱いくらいだった。
「お前……」
夜彦は呆気に取られていた。
ビンタをされたからではない。
ビンタをしたのが、白羽ではなかったからである。
「お前、誰だ……?」
◇◇◇
夜彦が白羽の裸を目にする、その数時間前――
(悪魔……!)
天候に恵まれた三月の昼下がり。そんな春の穏やかな空気に入り交じって、生臭さにも似た独特の臭いが――魔界の空気が漂ってきた。これは悪魔が境界を越えて人間界に侵入しようとする時の代表的なサインである。
一般人でも魔界の臭気は感じ取れるが、悪魔祓いとして修行を積んだ夜彦の嗅覚はその比ではない。日課のジョギングを切り上げて、すぐに臭気の発生源(=侵入の現場)へと走り出す。
悪魔の人間界への侵入は、たとえるなら人間がドアを開けて部屋の中に入るようなものである。体の大きな人間がドアを大きく開くように、魔力の大きな悪魔ほど境界の穴を大きく広げなくてはならない。だから、その分だけ侵入に時間がかかる。
言い換えれば、魔力の小さな悪魔なら、侵入は短時間で済むということでもある。
(遅かったか!)
夜彦が現場に到着した時には、侵入は既に完了したあとのようだった。ウプイリ――人面吸血コウモリが、その羽根で少女を追い立てていた。
ウプイリから逃げようと、少女は必死に走る。しかし、突如現れた奇妙な生き物への恐怖心や、助けを求めようにも周囲に人影がないことへのよるべなさから、彼女の足は今にももつれてしまいそうだった。
状況を確認して、夜彦はすぐに悪魔祓いを開始する。
といっても、呪文を唱えたり、魔方陣を書いたり、複雑な儀式を行うわけではない。ただ霊力を込めた拳で、悪魔を思い切り殴るだけである。
短時間で侵入してきたことから分かるように、相手は所詮魔力の小さい下級悪魔である。後ろから追いつきざまにパンチを一発お見舞いすると、それだけでウプイリは黒い煙となって霧散した。
だが、これで万事解決というわけにはいかない。ウプイリのせいで、少女が怪我を負ってしまった可能性があるからだ。
「おい、アンタ大じょ――」
「お怪我はありませんか?」
「あっ、ああ」
夜彦は思わずうろたえる。逆に気遣われる展開は予想していなかった。
しかし、何より予想外だったのは、少女の容姿だった。先程までは悪魔のことで頭がいっぱいになっていたから気付かなかったが、彼女は目を見張るような美少女だったのである。
肌はきめ細かで色も白いが、つやがあるから決して不健康な印象は受けない。髪はさらりと流れるように伸びており、色素の薄さもあいまって、ストレートのロングヘアーなのに全く重苦しさを感じさせない。
更に、大きな丸い瞳、整った形の鼻、品のいい色の唇、ほっそりとした顎、ほどよい大きさの胸、すらりと伸びた脚…… 体の各パーツが美しいのはもちろんのこと、それらを組み合わせた全身像も調和が取れていて美しかった。神が人間を創ったというのなら、彼女は間違いなく傑作の一つだろう。
そんな彼女の予想外な言動や容姿に戸惑いつつ、夜彦は改めて尋ねる。
「アンタこそ怪我はないか?」
「はい、おかげさまで」
少女が傑作なら、夜彦は失敗作か不良品かというところだった。実際、周りからは不良品ならぬ不良というレッテルを貼られている。別に素行が悪いわけではないのだが、見た目だけでそう決めつけられるほどとにかく目つきが悪いのだ。
加えて、夜彦は背が高く、悪魔祓いの修行の一環で体を鍛えている。つまり、強面の上にガタイがいい。そのせいで、初対面の人間は、夜彦を怖がることがほとんどなのである。
しかし、そんな夜彦を前にして、彼女は微笑んでこう言うのだった。
「危ないところを助けていただき、ありがとうございました」
(て、天使……!)
見た目も中身もそう呼ぶにふさわしい。夜彦は内心叫ばずにはいられなかった。
「どうかされました?」
「ああ、いや」
馬鹿なことを考えている場合ではない。少女に声を掛けられて、夜彦はすぐに悪魔祓いの職務を思い出す。
(それじゃあ、あとは記憶を消して――)
悪魔を退治するだけでなく、事件に巻き込まれてしまった人々のアフターケアをするのも悪魔祓いの仕事の内である。その為に、夜彦も怪我を癒す治癒術や、直近の記憶を消去する忘却術を習得していた。これらの術を使うことで、被害者にトラウマが残ったり、社会に無用な混乱が生まれたりするのを防ぐのである。
だが、その作業は、被害者である当の少女によって阻まれてしまった。
「あの……もしかして、天原夜彦さんですか?」
「そうだけど」
夜彦は怪訝な顔をする。どれだけ記憶を辿っても、彼女のことは思い出せなかった。
「アンタは?」
「私は虹宮白羽といいます」
やはり思い出せない。見た目にも名前にもインパクトがあるから、簡単に忘れるはずがないと思うのだが。
「虹宮……?」
「弥宵さんから聞いてませんか?」
「なんだ、ばーさんの知り合いか」
「はい」
天原家は代々悪魔祓いの家系だった。当然、夜彦の祖母の弥宵も悪魔祓いである。
弥宵と知り合いなら、悪魔や夜彦のことが話題に上ることもありえるだろう。悪魔や夜彦の姿を目にしても、白羽がそこまでパニックを起こさなかったのは、そのおかげかもしれない。……自分で認めるのは癪だが。
「ちょうど弥宵さんのお宅をお伺いするところだったんです」
「そうか」
祖母の知り合いのはずなのに、夜彦は白羽のことを知らない。ということは、白羽が天原家を訪ねるのは今日が初めてという可能性がある。
「道分かるか? 分からないなら、送ってくけど」
「よろしいんですか?」
「どうせ帰るついでだからな」
ジョギングの途中だったからこれは嘘である。だが、嘘も方便だろう。
事実、これを聞いた白羽は――
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
と例の天使のような微笑みで言ったのだった。
先程夜彦は、自分の顔を見ても白羽が怖がらなかったのは、弥宵から事前に話を聞いていたからだと考えた。しかし、彼女の穏やかで優しげな物腰からすると、そんなことは全く関係なかったのではないだろうか。
(悪魔がいるなら、天使もいてもおかしくないよな……)
「どうかされました?」
「ああ、いや」
本心を言えるわけがないので、夜彦は適当にそう誤魔化すのだった。
◇◇◇
「おい、ばーさん。客だぞ」
居間に上がると、夜彦はそう言って、弥宵に白羽を引き合わせた。
「こんにちは」
「おお、よう来たのう」
弥宵はゲームのコントローラーを置いてそう答えた。
二人は続いて、「これ、つまらないものですけど」「わざわざすまんの」などとやりとりする。小柄な老婆という風で見た目は年相応だが、趣味は未だに若い弥宵の為に、白羽は手土産としてケーキか何かを持ってきたようだった。
「迷ったりせんかったか?」
「はい。天原さんが道案内をしてくださったので」
会話の流れで、二人の視線が夜彦に向けられる。白羽は感謝するような表情を、弥宵は意外そうな表情をそれぞれ浮かべていた。
「ま、行きがかり上な」
「珍しく気が利くじゃないか」
「喧嘩売っとんのか、クソババア」
買う気満々で、夜彦は彼女を睨みつける。
しかし、それを完全に無視して、弥宵は白羽に話しかけていた。
「この通り、夜彦は何かにつけてクソクソ言うようなやつでの。祖母のわしから見てもクソガキなんじゃが、友達が全然おらんから白羽は仲良くしてやっとくれ」
「は、はい」
「お前もクソクソ言ってんじゃねーか」
白羽と夜彦は、それぞれそう答えた。
「自己紹介は済んどるようじゃから、家の中の案内でもしようかの」
「はい、お願いします」
「それじゃあ、まずはお前さんの部屋にしようか」
そう言って、弥宵が居間を出ていくと、白羽もそのあとに続いた。
「ほれ、ぼさっとしてないで夜彦も来んか」
一人棒立ちのままだったのを弥宵が叱りつけてくる。しかし、夜彦には相変わらず何が何だかさっぱり分からない。
「……一体何の話をしてるんだ?」
「何って、これから暮らす家を案内するって話じゃろ」
「誰がどこで暮らすって?」
「じゃから、白羽がこの家で」
彼女の名前が虹宮白羽だということ。白羽が弥宵の知り合いだということ。白羽と自分は同学年で、この春休みが明けたら高二になるということ。虹宮家は天原家と違い、いたって普通の家系だということ……
今日は初めて聞く話ばかりだったが、その中でも今の話が一番衝撃的だった。
ポカンとする夜彦を見て、弥宵もようやく気づいたらしい。
「あれ? もしかして、言っとらんかったか?」
「微塵も聞いてねーよ」
普通こんな重大なことを言い忘れるだろうか。夜彦は思わず悪態をつく。
「ばーさん、とうとうボケが始まったか?」
「わしももう年じゃからのう」
「うるせー、ババア。長生きしろよ」
二人はそんな風に言い争いを始める。
すると、これに何故か白羽が割って入ってきたのだった。
「すっ、すみません。せめて来る途中で、私が気付いていればよかったんですけど」
「いや、別にアンタのせいってわけじゃあ……」
夜彦はしどろもどろになってしまう。白羽を責めたつもりはないし、白羽が悪いと思っているわけでもないのだが……
「何かとご迷惑をおかけすることになるかとは思いますが、よろしくお願いします」
「お、おう」
白羽に頭まで下げられては、そう答えるしかなかった。おかげで、弥宵とは「何照れとるんじゃ」「うるさい」とまた言い争いになった。
それから先程話していた通り、弥宵と夜彦が先頭に立って、白羽に家の中を案内することになる。
その案内が始まった直後のことだった。
「おい、ばーさん」
「何じゃ?」
後ろを歩く白羽に聞かれないように、夜彦はあくまで小声で確認する。
「わざわざうちで暮らすってことは、やっぱり悪魔関係で何かあるのか?」
「そういうことじゃな」
「ふーん……」
弥宵の返答に、夜彦は白羽と出会った時のことを思い出す。あの時、白羽はちょうどウプイリの襲撃を受けるところだった。今まであれは単なる偶然だと思っていたが、真実は違ったのかもしれない。
(……もしかして、悪魔に狙われやすい体質とかか?)