「詠唱完了」
十五センチは下らない、大きな銀色の注射器。
その中には、蛍光色に発光する薬液が装填され、波打つ。
ただそれだけなのに、何故か――どこかで感じたような、根源的恐怖を感じて。
「――――麻薬……ッ!!?」
いくらマリスタといえど。
それが打たれたら終わりであることだけは、瞬時に理解した。
「心配するな、ほんのお遊びみてーなもんさ。打ち慣れてるからすぐ終わる。即効性があるから恐怖も痛みも一瞬だ」
「待って……ちょっとっ、それはっっ」
体が本能的に逃げようとする。
だが四肢は泥人形に絡めとられており、どうすることも出来ない。
マリスタの頭を焦りと――――一つの疑問が支配していく。
「――『打ち慣れてる』、」
「あ?」
「打ち慣れてるって言ったわね。まさか、あんたがプレジアを追われた理由って――」
「…………人間、死に際はカンが鋭くなるって聞いたけど。案外本当なのかもな」
「……なんてこと……そんなのをプレジアの女子たちに使ってたの!?」
「プレジアの女だけじゃない。そしてお前がそんなことを知る必要はない。知ったところでどうすることも出来ない。みじめな敗北者のアルテアス」
「…………想像の百万倍のゲスね。あんた」
恐怖に張るほどの怒りが込み上がるのを感じ、あらん限りの侮蔑を込めた目でマリスタがマトヴェイを見る。
マトヴェイは瞳孔の開き切った目で小さく笑った。
「言ってろ。数年は抱き続けてやるから覚悟しとけメス。そしてお前が終わったら――次はあのクソメスだ。お前が俺の手にあるならあいつもたやすい」
「…………ナタリーのこと!?」
「察しがいいな本当に。親友ゆえか?――ああ、そうだよ。恐れ多くもこの俺をプレジアから叩き出しやがったあのクソメス……! あいつはお前と違って多少肉付きもいい。抱き心地はいいだろうよ」
「…………」
どろどろとした怒りが肚にたまる。
これが腸が煮えくり返るということなのだと、マリスタは初めて知った。
と同時に、どうしようもない口惜しさがまたこみ上げてくる。
(こんな男に、私は敗けた)
「……追い出されて当然ね、あんたなんて。ただの救いようがない犯罪者じゃない。よくまあナタリーが暴くまで判明しなかったもんだわ。お父さんに守られてたんでしょうね」
「弱い犬ほどよく吠えるってのも本当だな。w あの親父にそんな度胸はねーよ。この国盗りだって俺が焚き付けてようやくだからな!」
「ッ!」
顔を泥人形へ押し付けられるマリスタ。
とたんに押し付けられた顔の一部が泥に埋もれ――まるで首筋を差し出すような姿勢で、注射器を持ったマトヴェイに対することとなる。
「くっっ――――!!!」
「なんだかんだほざいてもビビってんじゃねーかよw 安心しろって。数年かけて俺好みに調教した後は俺の子を産んでもらうんだ。そこまでは生かしてやるからよ――――お前が先にクスリで破滅しなきゃな!!」
「くそっ――――く、そぉおおッッ――――!!!」
「じゃあな。死ぬほど解らせてやるよ、自分が所詮男に抱かれるしかない、どうしようもないただのメスだってことをな――――!!!」
断末魔のように叫ぶマリスタの首筋に。
細く小さな針が、刺さる瞬間。
広間全域の床が、ひび割れた。
『ッ!!?』
注射針がずれる。
と同時に――蛍光色の液体が、マトヴェイの足元に落ちる。
「――な!?」
注射器は鋭利な刃物に断たれたかのように、真っ二つに破壊されていた。
「……!!」
マリスタが――マトヴェイがひび割れの震源、先程大理石の鞭が叩き潰しいまだ土煙に覆われている場所を見る。
煙の向こう。
「……なんだよ、そりゃあ」
目に殺気をみなぎらせ、これ以上ないほど切れ長の目でマトヴェイを睨むサイファス・エルジオと――――その背後に控える、巨大な竜の姿があった。




