「眠れる森の。」
少女の唇が、か細く激しく、俺の唇を奪う。
荒い鼻息。長い睫毛。鼻腔をくすぐる少女の香り。遅れてやってくる、唇の感触と事実の衝撃。
飛びあがる心臓。逆立つ神経。体を硬直させ、少女を引き剥がそうとするが――――押し付けられる唇の強さに、柔らかさに。少女の細く白い手に両腕を掴まれているだけだというのに、俺はそれを振り解くことが出来ない。
重ねた唇へ、少女の濡れた髪から雨粒が滴り落ちた。
ほんの数秒前まで、俺は――――死を目前にした、ただの子どもだったというのに。
光が覆う。少女の体が光の粒子を帯び、俺をも包み込んでいく。
それでも少女は唇を離さない。ただ切に、切に――――その口付けで繋ぎ止めるように、俺を求める。
やがて、光が俺を運ぶ。
体は彼方へ、意識は記憶へ。数時間前の俺へ。
そして、すべての始まり《あのときの少年》へ――――。
◆ ◆
嗚咽を上げながら、ボロボロと涙を流す少年の後ろ姿を見ている。
その子どもは体中が傷だらけだ。泥だらけで服は破れ、所々は切れて擦り剥いて血が滲み、前歯は抜けて無くなっている。
ひどくみっともない姿で、ひっきりなしにしゃっくりを繰り返しながら――ただ純粋に、これまで感じたこともない体の痛みに、目の前に母と妹がいるとてつもない安心感に、達成感に、泣き続ける。
「あんなに体の大きな高校生に飛びかかっていくなんて。あなたはまだ8才なのよ? 下手したら、もっと大きなけがだって――」
「だってっ……メイがあぶなかったんだ」
嗚咽を抑え、そう口にする少年。少年の目は、母親に寄り添い、その服の裾を握り締める妹へと向いた。
少女も目に涙の痕を残し、髪には引っ張られたような乱れがある。
母は床を見つめる娘の頭を撫で、困ったような、陽だまりのような微笑みを少年に向けた。
「……私とそっくりね。あなたはお母さんと同じ……いいえ。お母さんよりも大きい、大きい優しさを持っている。それがお母さんは、たまらなく嬉しいの。ありがとう、圭」
母の手が、少年の胸に触れる。少年は涙の流れる顔で溢れんばかりの笑顔を浮かべ、誇らしげにその手を両手で覆う。
そんな兄と母の様子に、安堵を覚えたのか。妹も顔を上げて笑い、兄の腕をとる。
「ありがとう、けいにーちゃん」
――家族が、少年の誇りだった。
「うん。いいんだよ。任せて、メイ。母さん」
――家族が、少年の生きる理由だった。
「ずっとずっと、おれがまもるよ。父さんも母さんも、メイも!」
――家族が、俺のすべてだった。
「やくそくするから!」
◆ ◆
「約束したでしょう? その金髪、三年生になったらちゃんと黒に戻すって」
「そうでしたっけ。忘れました」
「圭君!」
いつもずれている丸眼鏡を掛け直しながら、担任が力なく凄む。高校三年になるが、この人の凄味の無さはどうやら卒業まで変わらなさそうだ。
担任がため息をついて威圧を諦め、椅子に座り直す。眼鏡はもう鼻までずり落ちていた。
「あのねえ、圭君。もう何回も言ってきたけど、二年生秋までの成績見てたら、十分いい大学狙えるんだよ? 部活後に追い上げてくる人もいるんだから、もう一度しっかり頑張って、」
「言ったでしょう、進学はしないって」
「いくらなんでも冬から成績が落ちすぎ。意図的にやってるとしか思えない」
「やってます」
「素直か! じゃなくて、あーもー……そして、これは何?」
担任が机を示す。そこには白紙のままの進路調査用紙。
「ちゃんと書いてたじゃないですか。突き返してきたのは先生ですよ」
「バカにしないで。もう二年間も担任してるのよ? あなたが警察官になる気なんて微塵もないのくらい、分かります。警察関係の進路の資料にまったく興味持たなかったじゃない。ほんと、詰めが甘いというか、分かってて詰めてないというか。将来のこと、まじめに考えてるの?」
「…………」
考えた。
考えた結果、何も書けなくなった。
俺の「将来」はもう、消えてなくなってしまったから。
「――帰ります。これ以上続けても不毛なの、解ったでしょう」
「あ、ちょっと圭君! 話はまだ終わってないよ!」
「行かないと。友達と会う約束があるので」
鞄を取り、担任の声を無視して出口へと向かう。
引き戸の取っ手に手をかけた時、彼女の声のトーンが変わった。
「……じゃあ最後に一つだけ。ちゃんと付き合う友達は選びなさい。友達多いんだし、二年間一緒のクラスだったんだから、分かるでしょう」
「友人は選んでますよ。失礼しました」
引き戸を閉め、担任の姿が見えなくなる。
間もなく声を掛けられた。
「オイおせーよ、あんま待たせんなよ」
「先に行っててくれって言っただろ」
「お前をイクミちゃんと二人っきりにしておけっかよ」
「どういう意味だ?」
「ちっ、イケメンめ」
「ジゴロ野郎がよ……さあ、はやく行こうぜ」
「あー、彼女欲しー」
廊下で待っていた、いかにもな風貌の不良たちに続く。
周りから見れば、俺も立派な同類なんだろう。
◆ ◆
「天瀬圭。よく分かんないやつですよね」
「何を考えてるんでしょう、あの子。二年担任してますけど、いまだに掴み切れなくて」
「成績優秀、眉目秀麗。クールに見えて、いざ話してみると人当たりは良くて、文化系から不良グループまでと、男女問わず交友関係は広い。その一方で一線引いて、過度に人と仲良くしようとはしない……そのミステリアスさが、図らずも女生徒達の注目をより集めている。ハハ、こんなに出来すぎたスペックを持ってる奴も珍しい」
「二日前も、女生徒に告白されていましたよ。にべもなく断っていたようですが」
「二日前も、ですか? なんとまぁ……私は十日くらい前にも見ましたがね」
「でも、最近は成績がガタ落ちなんですって?」
「はい……去年の冬から一切勉強をしなくなったみたいで。そのくせ……見てくださいコレ!」
「どれどれ……ははは! こりゃ面白い。全教科きっちり赤点プラス一点じゃないですか」
「器用なのか不器用なのか……おちょくってるとしか思えません」
「ああ見えて、構ってほしいだけかもしれませんね。彼って確かもう、施設を出ちゃってるんですよね」
「は、はい。高校入学と同時に」
「ああ、知ってます。施設長がずいぶん止めたらしいですよぉ、高校卒業までは居ていいって。あの年頃の男子が一人暮らし三年目……辛いことはあるでしょうね」
「でも、構ってほしいだなんて」
「しかも火事で家族をみんな亡くしてるんですよね? 十年前ですっけ……きっと愛情に飢えてたり、まだ傷が癒えていなかったりするんだと思いますよ」
「……そうなんですかね、やっぱり。十年前の」
「こう言うと不謹慎ですが。話せば話すほど、出来すぎた境遇の奴ですな」
「外から眺めてる分にはねぇ」
「そうですね。でもだからこそ、少しでもあの子を……」
(…………あの子の内側を……いいえ、彼を理解したい。力になりたいって、思うの)
◆ ◆
「いいじゃねえかコレ。デュナミスのネックレス欲しかったんだよ。貰ってもいいんだよな? 友達だもんな?」
「おい、何かしゃべれよ。口ついてんだろ? 新入生くんよ」
「んだよその目は。やんのかテメー」
駅前のゲームセンター。その付近の高架下。
人通りの少ないこの場所が、こいつらの居場所。
同じ高校の下級生らしい男子が殴られ、既に傷だらけの顔を地面に叩き付けられる。男子は起き上がろうとする気配もない。ネックレスを奪い取ったそいつらは得意気に顔を見合わせ、倒れたままの男子を嘲笑ってネックレスを弄び始める。
背にある壁の冷たさをシャツ越しに感じながら、俺はその光景から目を逸らし――笑っている自分に気付いた。
いつかと逆だな。まるで、逆。
妹の髪を引っ張る高校生。妹の声。込みあがってくる怒り。
髪を引っ張り、股間を殴り、手当たり次第に噛みつき。
〝ありがとう、けいにーちゃん〟
そうやって得た達成感。安心感。家族の笑顔。
そうやって得ていた自己肯定感。自尊心。俺の居場所。大切なもの。
――それが、目の前で爆炎に包まれて砕け散った。
〝一人だけ生き残ったらしいわよ。かわいそうに〟
〝天瀬圭君だね。おじさんは警察だ。少し、お話させてもらってもいいかな?〟
〝はじめまして。君はこの場所を、本当の家だと思ってくれていいんだよ〟
だが、あれは事故なんかじゃない。
炎に包まれ消えていく家族。父。母。妹。そして俺。
それを空から眺め、立っていた――爆炎に映る、長い髪の、人間のシルエット。
〝出火原因? ああ、調べてはいるが……とにかくすべてが燃え尽きていてね。ガス爆発の線が濃厚だと言われているよ。犯人? はは……面白いこと言うね、圭君は〟
〝警察になるの? いいじゃないか、お前ならきっとなれるよ。先生、応援するぞ〟
〝犯人がいたって言ってきかないんだよ。きっと混乱しているんだ。この話題は、あの子の前では避けるようにしてくれ〟
――違う。違う。あれは事故なんかじゃない。俺の家族は、殺されたんだ。
俺は警察になる。警察になって、俺から家族を奪った犯人を――
――犯人を?
〝気持ちはわかるわ、圭君。でもね、いい加減現実を見ないと――犯人なんていないのよ〟
〝その年でここを出てどうしようというんだ。例の犯人に、復讐でもする気なのか?〟
〝解らないガキだなお前も! もう警察はあの事故に関わらない。十年も前の事件性の無い「事故」なんかにはな!〟
〝犯人が分かったぜ。お前の家族自身だ、自殺だったんだろきっとな!! じゃなきゃあんな白昼堂々、一切目撃証言のない火災事故なんか起こるワケがない! だからいい加減消えろ、いつまで俺に付きまとう気だこの気狂い野郎が! 警察も暇じゃねぇんだ! そうだな、きっと誰かが魔法でも使ったんだろうな! 女? じゃあ魔女だろう! おーこええ、俺もお前に呪い殺されそうだ! せいぜいパンでもちぎって一生道に落としてろ! 小鳥に食われてるとも知らずにな!!〟
警察は、もうあの事件を事件とも思っていない。
警察になったところで、俺の願いはもう叶いはしない。
俺のすべては、もう戻らない。
雨が降り出す。不良たちは我先にとゲームセンターへと避難していく。俺は顔を伝う滴を感じながら、倒れたまま、きっと震えている男子を見続けた。
惨めだ。哀れだ。現状を変える力も無い、逃げ出すことも叶わない、無意味な人生だ。
〝将来のこと、まじめに考えてるの?〟
考えた。
考えた結果、何も描けなくなった。
俺の「将来」はもう、消えてなくなってしまったから。
犯人はワルいワルい、マジョ。
そう思わなければ、とてもやっていられなかった。
「――――」
男子が起き上がる。口を大きく開き、歯を覗かせ、雨音で掻き消える雄叫びを上げ、俺を睨みつけている。霧がかった視界に、男子の持った小さなナイフが光る。
御誂え向きに用意された目の前の終幕に、小さな笑いが込み上げた。
もがいても更に、沈んでいくだけ。
だったら沈み尽くして、いっそ消えてしまえばいい。
家族が待ってる。
終わりに向き合う。男子が体を硬直させるが、それも一瞬。
少年が肩で息をする。
震える両手でナイフを握る。
唾を散らして叫ぶ。
雨を砕いて俺に迫る。
そして――――――――そして、唐突に地面に倒れた。
――霧深い静かな冷雨の向こう。
彼女は、俺の意識を釘付けにした。
男子の後ろに立っていたのは、透き通った髪色をした少女。
その体はいつかの俺のようにボロボロで、ローブだったらしい襤褸を纏い、素足でよろよろと俺に近付いてくる。眼前の光景を受け入れられない俺の体は、凍ってしまったように動かない。
息遣いが重なる。少女は俺の肩に腕を回してしな垂れかかると、全ての力を振り絞るようにして――――俺に口付けた。
柔らかな感触。逆転する心臓。
途端、体を意識が巡る。血管を辿るように意識が循環し、目の前の少女の中さえも駆け抜けていく。地面が薄色に光り、雨粒を弾き飛ばし、少女の腰まで伸びた長い髪を舞い上がらせる。
薄金色の瞳から零れた涙が、少女の白い頬を伝った。
唇が離れ、大きく息を吸い込む。胸に衝動が吹き荒れるが、俺は少女を突き飛ばすことも抱き寄せることも出来ず、荒い呼吸を繰り返す。
……体が冷たい。
心とは裏腹に――やがて光は消え、世界をまた、雨音が支配していく。
そうして、どれだけの間見詰め合っていただろうか。
互いの瞳に釘付けられた俺と少女は、やがて静かな呼吸を取り戻し、――きっと、同時に「確信」を得た。
初めて動かしたかのように重い唇を、やっとの思いでこじ開ける。
「――――」
俺は、確かめなければいけなかった。
唐突に、まるで本能のように確信した少女の名を、否――
「――――『リセル』」
――魔女の、名を。
「――ごめんなさい、圭。ごめんなさい――――」
少女は顔を悲愴に染めてそう応え、霧の中に消えていく。
――やがて、現実。
場には倒れた少年と、立ち尽くした俺だけが残った。
◆ ◆
「……え?」
その教師は、帰路に倒れる少年を目にとめる。
彼女が慌てて駆け寄ると同時に、すぐ傍のドアが開く。交番から出てきた警官が、同じように目を丸くする。
「君、大丈夫か? おい、君!――あなた関係者? この子の」
「と、通りすがりです。でも、この制服はうちの高校の――」
教師の視線の端に、何かが映る。
顔を上げる。少年を介抱する警官の横で、彼女は、走り去っていく金髪の少年を見た気がした。