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月の兎に手を伸ばしたら

「天気、悪そうだね……」


 電話越しに直樹が残念そうな声を漏らす。

 九月の十五夜、中秋の名月の時に一緒にお月見をする予定なのだが、天気予報によるとその日はあいにく雨らしい。


 八月の夜、流星群が降り注ぐ空の下で、彼は私の願い事を叶えてくれた。

 そうして付き合い始めたのだけれど。

 私と彼の住む場所は気軽に行き来できる距離ではない。いわゆる遠距離恋愛というやつだ。

 そのせいで、付き合っていると言っても、あれ以来会わないまま一ヶ月近く経つ。

 もちろんSNSでメッセージのやりとりや電話で話したりはしていた。でもやっぱり会って、直接顔を見て話がしたい。

 だからお月見をすごく楽しみにしていたのに。


「どうしよう。お月見は出来ないかもしれないけど、どこか遊びに行きますか」


 彼がそう続ける。

 彼に会えるならそれでもいいとは思う。有休も取ってあることだし、少し残念ではあるけれど楽しまないと。それに、なかなか敬語が抜けない彼との距離をもっと縮めたい。


「うん……。あ、ちょっと待って」


 気持ちを切り替えようとした途中でふと思い付いて、話しながら天気予報を調べる。その日の天気は。


「ねえ、直樹君がこっちに来てお月見するのはどう? こっちは天気良さそう」


 星を見るなら彼のところの方が明かりが少なくて良いと思っていたが、月なら多少明るい場所でも見られるだろう。


「杏子さんのところですか? えっと、大丈夫ですけど、じゃあホテル予約しないと」

「うちに泊まればいいでしょ」

「え? でも、そんな」

「家族と一緒ってわけじゃないから、気にしなくて大丈夫だよ。そんなにいい部屋じゃないけど、それでも良ければ」


 彼はその後も「女性の部屋にいきなり泊めてもらうなんて……」などと遠慮していたが、最終的には私の提案を受け入れた。


 彼が、私に会いに来てくれる。

 そう思うと、心が弾んだ。



  ◇



「あ、月。丸いけど、十五夜って満月じゃないんだっけ」

「うん。毎年満月とは限らなくて、今年の満月は明後日」


 見上げた夜空には、まだ少しだけ満ち切っていない月が皓々と輝いていた。月明かりが星を隠し、うっすらとわずかな雲影を浮かび上がらせている。

 今夜は中秋の名月。

 少し雲はあるが、お月見に支障は無い。

 アパート近くの公園に着いた私達は、ベンチに荷物を置いてお月見の準備を始めた。

 直樹は持参した望遠鏡を手際良く組み立てている。私の出る幕は無さそうなので、大人しくベンチでお菓子とお茶の準備をすることにした。

 とは言っても、お菓子の準備なんてすぐに終わってしまって、手持無沙汰になった私は小さな公園を見回した。

 夜の公園は私達以外にお月見をする人も無く、時々犬を散歩させる近所の住民が通り過ぎるだけで、とても静かだ。

 私はベンチに腰を下ろして、また月を見た。


「うーん、兎が餅ついてるの、よくわかんないなあ」

「これなら見えるかもしれませんよ。はい」


 準備を終えた直樹に促されて、望遠鏡を覗く。

 望遠鏡のレンズの丸い枠いっぱいに収まった月には、肉眼ではぼんやりとしか見えなかった模様がはっきりと見て取れた。


「わ、すごい。模様がちゃんと見える!」


 興奮して直樹を見ると、彼はそんな私の様子を眺めながらにこにこしていた。

 いけない。また子供っぽい反応をしてしまった。私の方が年上なんだから大人の女らしくしないと、と思っているのに。


「クレーターを見るならもっと欠けてる時がいいんだけど、満月辺りに見える月の海も綺麗ですよね」

「クレーターかあ。写真でしか見たこと無いかも」

「じゃあまた今度見ましょうか」

「うん。あ、お菓子持ってきたよ。食べる?」


 私は彼と一緒にベンチに座り、用意したお菓子を差し出した。


「はい。お月見と言えばお団子かとも思ったんだけど……」

「饅頭? あ、兎だ」


 表面に焼印で目と耳が描かれた雪兎のような可愛らしいお饅頭は、和菓子屋で一目惚れしたものだ。

 一口食べた彼が、「おいしい」と言って笑った。気に入ってもらえたようだ。

 温かいお茶と一緒にやさしい甘さを楽しみながら、彼と並んで月を見上げる。

 ゆったりとした、穏やかな時間。


「でも、望遠鏡覗いてもどこが兎かよくわかんなかったなあ」

「それならちょっと待って。……はい」


 私がぼやくと、直樹がスマホを取り出した。

 彼が操作して見せてくれた画面には、さっき望遠鏡で見たのと同じような月が映っている。


「ここが耳で、こう体があって、これが臼かな」

「うーん、見えなくもない、かな」


 彼が画面を指さして教えてくれたが、あまりピンと来ない。

 私はベンチから立ち上がってもう一度望遠鏡を覗いた。


「うんうん。ちょっとわかってきた気がする」


 望遠鏡から顔を離して、レンズ越しと肉眼で見える月を比べてみる。


「こうして見ると、月って思ったより小さいね」

「そうですね。映画とか漫画なんかだと大きく描かれたりしますし。こうしてお月見したり、人間にとってそれだけ特別な存在っていうことなんでしょうね」


 本当に、どうして人はこんなにも月に魅かれるのだろう。

 満月も三日月も弓張り月も、夜空に浮かんでいると、何故か目が行ってしまう。


「今の月と地球の距離は約38万キロメートル。でも月が出来たばかりの頃は2万キロしかなかったんです。だからその頃はきっと、僕達がイメージするみたいに大きく見えてたんだと思いますよ」

「へー、見てみたいね」


 もしその時地球に人類がいたとしたら、お月見をしただろうか。

 きっと、手を伸ばせば届きそうな、大きな月を見上げていただろう。世界各地に月にまつわる伝説が残っているように、それは人類共通の感情なのだ。


「月は今も地球から遠ざかり続けてて、皆既日食ってあるでしょう?」

「月が太陽を隠す?」


 彼の言う皆既日食とは、たしか月が地球と太陽の間に入って太陽を完全に覆い隠してしまう現象だったはずだ。一部分だけ隠れるのが部分日食で、真ん中だけ隠れて周りがリング状に見えているのが金環日食。残念ながら、私はどれも実際に見たことは無い。


「そう。月が離れてだんだん小さく見えるようになっていったら、その皆既日食は見られなくなるんです。完全には隠せないから金環日食になっちゃう」

「そうなんだ。なんか寂しいね」


 神秘的な現象が見られなくなってしまうのは、なんだか残念な気がする。


「でも遠ざかってるって言っても1年で3センチくらいだから、まだまだずっと未来の話です。その頃には人類はいないかもしれないし、地球がどうなってるかもわからないから。それに、もっと別の天文現象が見られるようになってるかもしれない」


 月を眺めながら遠い未来の夜空に思いを馳せる直樹の口ぶりは楽しそうで、瞳はきらきら輝いて見えた。

 そんな彼の横顔を見ていると、胸がぎゅっと締め付けられたようになる。


「すき」


 思わず言葉が口を突いて出た。


「え?」

「ううん。直樹君の星の話聞くの、好きだなあって思って」

「そう? なら良かった」


 彼がほっとしたように微笑む。

 そんな必要は無いのに、なんとなく誤魔化してしまった。




「そろそろ帰ろうか」


 持ってきた荷物を片付けて、私達は公園を後にした。

 歩きながら、相変わらず静かに浮かぶ月を見上げる。

 何度見ても変わらないのに、どうして飽きずに見てしまうのだろう。

 上を向いて歩いているせいで、ふらふらする。

 腕を伸ばしてバランスを取っていたら、直樹がその手を取った。

 身体が安定する。

 彼は何も言わなかった。

 ただ、彼の大きな手は私の手をふんわりと包んだまま、離すこともなかった。

 私が手を引けばすぐにほどけてしまいそうな、そんな控え目さ。


 手を繋いで、月を眺めながらゆっくり歩く。

 いつも私が彼に近付きたくて、彼のことが好きで、彼は穏やかに受け入れてくれるだけだった。

 私ばかりが彼のことを好きなんじゃないかと不安になることもあった。

 だから彼から手を繋いでくれた、ただそれだけのことが、すごく嬉しい。

 彼の手はあたたかかった。

 ゆっくり歩いていたのに、あっという間にアパートはもう目の前に迫っている。

 もっと遠くの公園に行けば良かったと後悔しても、もう遅い。着いたらこの手は離れてしまう。


「もうちょっとだけ、月を見ながら散歩しませんか」


 彼の言葉に、私は繋いだ手をきゅっと握り返した。

 白い月は変わらず、夜空を明るく照らしている。

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