五万年後の春の夜空を
七夕の夜、織姫と彦星は一年に一度だけ天の川を渡って逢瀬する。
ロマンチックなお話だ。
でも、実際に織姫と彦星が近づくことは、七夕の夜だろうがそれ以外だろうが決して無いのだそうだ。
現実なんてそんなものだ。
今はまだ五月。七夕はまだ先だというのにこんなことを考えてしまうのには、二つ理由がある。
一つは、一年ちょっとの間遠距離恋愛をしていた彼氏、いや、元彼のせいだ。
付き合い始めたのは二年くらい前だった。
同じ会社の営業部に所属していた一つ年上の彼は社交的な人で、違う部署の私にも気軽に話しかけてくれた。飲み会で会話に入れないでいる人がいたらさり気なく話題を振るような、そういう気遣いの出来る人だった。
だから彼が付き合ってほしいと言ってきた時、私はまだ彼のことを好きかどうか分からなかったけれど、
まあいいかと思ってOKしたのだ。
付き合い始めはその程度だったが、一緒に時間を過ごしていくうちに私は彼のことを好きになっていた。きちんと好きになれていたと思う。
合わない所もあった。でもそれは相手が誰であろうと多かれ少なかれあることだし、それ以上にいいと思える部分もたくさんあった。
上手くいっていると思っていた。
去年彼の転勤が決まった時は不安もあったが、頻繁に連絡を取るようにしたし、会う回数が減っても変わらずにいられると思っていた。
あまり会えない分、近くにいる時よりも彼のことを想う時間が増えたような気がした。
でもそう思っていたのは私だけだったようだ。
まさか一緒に旅行に行こうという直前に振られるなんて。
久しぶりに会えるはずだったのに。
しかも電話一本で済まされるとは、ずいぶんあっさりしたものだ。
もちろん納得など出来なかった。
でも、他に好きな人が出来たと言われたら、もう何も言えなくなってしまった。
織姫と彦星は一年に一度しか会えなくてもずっとお互いを想い合っていたけれど、私達はそうじゃなかった。
もっと会える回数は多かったのに、気持ちは離れてしまった。
現実なんてそんなものなのだ。
「俺が悪いの分かってるしこんなこと言うのもおかしいけど、引き留めないんだな。そういうの、杏子らしいけど」
最後に彼はそう言った。
泣いて縋れば彼は留まったのだろうか。
他の女性に向いていた気持ちが私に戻ったのだろうか。
彼からの電話以降堂々巡りを続ける思考を振り払うように溜息を一つ吐き、私は運転に集中した。
ヘッドライトに照らされた道路は二車線あるものの、道の両側には建物も街灯もほとんど無く、鬱蒼とした森が暗く広がるばかりだ。
カーナビによると目的地まであと2キロ。
時刻は夜の七時半。
途中であちこち寄り道はしたが、ずっと運転していたので肩や腰が凝っている。早く車を降りて背伸びしたい。
私が一人車を走らせて向かっている場所。
それが、七夕の伝説を思い出したもう一つの理由だ。
『目的地付近に到着しました。案内を終了します』
カーナビの音声が目的地に到着したことを告げる。明かりの漏れる小さな建物が一つある以外は真っ暗で、一見何も無いような寂しい場所だ。
私は駐車場に車を停め、数時間ぶりの地面を足の裏で感じながらぐっと背伸びをして大きく息を吸った。
静かな所だ。
来る前に周辺の地図を確認したので一応分かってはいたが、本当に何も無い。
もっとも、私が訪れた目的のためには良い環境ではあるのだろう。
暗闇の中でただ一つ煌々と明かりをつけた建物に近づくと、受付は無人だった。
「すみませーん」
奥に声をかけると、程無くして中年の男性が出てきた。
「あの、コテージの予約した菅崎です」
「はいはい。じゃあこちらにご記入お願いします」
出された紙に記入しながら、受付の男性の視線を感じる。
事前に連絡して許可は貰っていたが、コテージに女一人で泊まるなんてきっと変に思われているに違いない。
久々の彼との旅行で泊まるはずだったコテージ。
キャンセルすることもできたが、思い切って一人で来たのだ。
もともと私が前から行ってみたいと思っていた場所だった。彼に提案した時あまり興味が無さそうだったのは、その頃にはもう心変わりしていたからだろうか。
ああ、また彼のことを考えてしまっている。
それより、せっかく来たのだから楽しまないと。ここはただのコテージではないのだから。
「こちらがコテージの鍵と、こっちは中にシーツが入ってますのでお使いください。それから、八時から天体観望会もあるので、よろしければコテージの隣にある天文台に行ってみてください。コテージにある望遠鏡の使い方もそちらの職員に聞いていただければ」
受付の男性が説明と共に鍵とシーツの入ったボックスをカウンターに置いた。
このコテージの売りは、星が見えることなのだ。
周囲に明かりがほとんど無い、星空を見るのに良い環境。そして何より、コテージには天体ドームが付いていて、宿泊客は自由に天体観測をすることが出来る。
ずっと前から泊まってみたかった。流星群や月食などの天体ショーが見られる日は予約が一杯だし、暖かい季節の週末もなかなか予約が取れないので、この機会を逃したら次がいつになるか分からないのだ。それに予約が取れたとしても、天気が悪ければ意味が無い。その点今夜は晴天の予報だった。
だから一人でもやって来たのだ。意地になって、という部分も無いわけではないけれど。
壁に掛かった簡素な時計の針は七時五十分を指している。
八時からの天体観望会に参加するのも面白そうだ。自分で望遠鏡を覗く前に職員の解説を聞いて予習するのもいいかもしれない。
私は男性にお礼を言って受付を出て、貰った地図を見ながら今夜泊まるコテージに向かった。
コテージの横に車を停めて荷物を取り出していると、隣のコテージから小学校低学年くらいの男の子と夫婦が出てきた。
「こんばんは」
にこやかに挨拶してきた彼らに私も挨拶を返す。
懐中電灯を持った彼らは天体観望会へ向かうようだ。コテージのすぐ近くにある明かりのついた建物が天文台なのだろう。三人は仲良くそちらへ歩いていった。
やっぱり参加しないでおこう。今の私にはあの幸せそうな家族と一緒に星を見るのは辛すぎる。それに夕食もまだ済ませていないのだ。先に空腹を満たしたい。
コテージの玄関を開けると、真っ直ぐ伸びる廊下の横に細い階段がある。階段の先の扉は閉まっているが、そこが天体ドームだろう。
廊下の先には広々としたリビングダイニングとキッチンがあった。対面式のキッチンには冷蔵庫や電子レンジ、ポットもある。大きな食器棚には多種多様な食器が並び、包丁、まな板、鍋などもひと通り揃っているので、材料さえ持ち込めば何でも作れそうだ。
リビングにあるドアの一つはお風呂で、他には和室が一つと寝室が二つあった。寝室にはそれぞれベッドが二つずつ置いてある。
「わー、どこで寝ようか迷っちゃうなー……」
静かな屋内に、私の乾いた声が空しく響く。
一人でこんなに広いコテージに泊まるのはやっぱり寂しい。
もし二人で来ていたら。
私が対面式のキッチンで料理を作って、彼はダイニングで腰掛けながらそれを眺めている。「ちょっと味薄いかも」なんて私が言いながらスプーンを彼に渡して、味見した彼が「美味しいよ」と笑う。
そんな甘い空想は、苦い現実に変わった。
彼はここにいない。
ああもう駄目だ。彼のことなんか忘れて星を見よう。
リビングを出た私は階段へ向かった。
ステップの狭い階段を上がって腰をかがめないと通れない小さな引き戸を開けると、思ったよりも広い空間が広がっていた。
丸いドーム型の天井は大人が立ってもまだ余裕がある。中心の台座に乗る天体望遠鏡にはスイッチやレバーがいくつも付いていて、使い方が分からない。
天体望遠鏡で星を見るのは初めてだ。望遠鏡を覗くのを想像して、少し気分が上向いてきた。
とりあえず食料の調達に行って、観望会が終わった後で天文台の人に使い方を教えてもらうことにしよう。
付近には食事の出来るような店もスーパーも無く、私は少し離れたコンビニに行った。この辺りでは貴重なコンビニなのだろう。次々と客が訪れる店内は品揃えも充実していた。
コテージに戻り時計を見ると、もう九時前だった。そろそろ観望会も終わる頃だ。天文台の職員に声をかけて、天体ドームの使い方を教えてもらわなくては。急がないと帰ってしまうかもしれない。食事は後回しだ。
外に出て天文台の方へ歩いていると、隣のコテージの親子とすれ違った。ちょうど観望会が終わったようだ。手を繋いで歩く彼らを羨ましく思いながら、私は一人で人気の無い天文台の入口をくぐった。
「すみません」
「はーい」
静まり返った天文台の奥から、何度目かの呼びかけでようやく返事が聞こえた。
出てきたのは、私より二つ三つ年下だろうか、眼鏡の若い男性だった。
もっと年を取ったおじさんが出てくるかと思っていたので、少し意外だ。
「遅くにすみません。コテージの天体ドームの使い方を教えていただきたいんですけど、大丈夫ですか?」
「あ、はい。大丈夫ですよ」
天文台の職員のお兄さんと一緒にコテージに戻り玄関を開けて招き入れると、彼は律儀に「失礼します」と断ってから靴を脱いだ。
「まずドームの開け方ですが、このロックを外すと開きます。それで、こっちにスイッチがありますので、これを操作して見たい空の方向に動かします。とりあえず、木星を見てみましょう」
階段を上がって天体ドームに入ると、彼は早速説明を始めた。慣れた手つきでドームを開け、開いた位置を調節する。
「次に、これが望遠鏡ですが、電源を入れます。それからこことここの二カ所のロックを外すと、動くようになります。木星があっちにあるので、このスコープを覗いて位置を決めます。スコープに入っている星はこっちのレンズにも同じように入りますので、星が真ん中に来るようにしてください」
彼は説明をしながら、望遠鏡を覗いて微調整した。
「位置が決まったらロックして、あとはレンズを覗きながらここを回してピントを合わせます。……これでちょっと覗いてみてください」
促されて私が望遠鏡を覗き込むと、丸く縁取られたレンズの中に大きな丸い光が一つと、点々と三つほど小さな光が見えた。
「大きい星の横に小さな星がいくつか見えますか?」
「はい、三つくらい小さい光があります」
「それが木星の衛星、木星の『月』ですね」
そういえば、昔理科の授業で習ったような気がする。
感心している私の横で、彼が今度はレンズの倍率を上げてピントを調節し、また覗いてみるように言った。
「縞模様が見えますか?」
「あ、ほんとだ、すごい! しましま!」
白く丸い星に、茶色がかった横縞が二本見える。木星の縞模様が見えたという感動で、思わず子供みたいな反応になってしまった。恥ずかしい。
「どうでしょう、使い方分かりました?」
「はい、たぶん」
「それじゃあこんな感じで、色々な星を見てみてください。もうちょっと遅い時間になったら土星も見えますよ」
私が彼を玄関まで見送ると、彼は遅い時間の依頼にも最後まで嫌な顔一つせず、「おやすみなさい」とにこやかに挨拶して出て行った。
一人になった私は、冷蔵庫からビールの缶を取り出して一口飲んだ。
天体ドームの使い方も分かって、どんどん期待が膨らんできた。
せっかくの旅行でコンビニ弁当というのも味気無いが、買い込んだお弁当にフライドポテトやからあげなんかも並べると、ジャンクな感じにかえってテンションが上がる。
ヤケ酒のつもりで買ったビールも純粋に美味しい。一人でも案外楽しめるんじゃないかという気分だ。
まずは腹ごしらえをして、それから本日のメインイベント、天体観測をしよう。
空腹が満たされアルコールも入ってほろ酔いの私は、上着を羽織って外に出た。
コテージの周辺は、天文台の明かりも消えてすっかり真っ暗になっている。
足元もよく見えないほどだが、懐中電灯を取りに戻るのが面倒でそのまま慎重に歩みを進めた。
階段で躓きそうになりながらも、なんとか天体観望会が開かれていた天文台の裏の広場に到着し、空を見上げた。
「すごい……」
思わず感嘆の声が漏れる。
雲の無い空には無数の星が煌めいていた。普段家の近くでは見えない小さな星も、邪魔をする明かりが無いここではよく見える。色も様々で、オレンジ色や白など、星にも個性があるのだと改めて感心する。
いつも見る夜空と同じとは思えないくらい綺麗だ。
ただ残念なことに、どれが何という星かも、どこに何の星座があるのかもよく分からない。
「あ、アプリ」
お兄さんが帰る前に教えてくれたスマホを向けた方向にある星が分かるアプリを思い出し、起動する。
スマホの画面と星空を交互に見ながら星座を探すが、スマホの明るさでせっかく暗さに慣れた目がリセットされて上手くいかない。
山間部の夜の空気は昼間の半袖でもいいくらいの暖かさからは想像できないほど冷たく、春物の薄手のコートではあまり役に立たないようだ。早めに退散した方がいいのかもしれない。
スマホを片手に四苦八苦していると、後ろでガチャッと音がして周りがぼんやり明るくなった。
振り返ると、天文台の裏口の上の電灯が点いている。注目していると、やがて扉が開いてさっきのお兄さんが姿を現わした。あれから一時間近く経っているのに、意外にもまだ帰っていなかったらしい。
「あ、すみません」
私に気付いた彼が慌てて言う。
彼は扉を施錠して明かりを消すと、空を見上げた。
「晴れてますね。夕方まで曇ってたからどうかと思ってたんですけど、良かったですね」
「そうですね。すごく綺麗です……わっ」
首を思い切り後ろに曲げて上を向いたら、バランスを崩してしまった。
倒れる!
しかし思わず目を閉じた私の体が地面に叩きつけられることは無かった。
「大丈夫ですか?」
「すみません」
支えられて体勢を整えた私に彼は「ちょっと待っててください」と言い残し、再び建物の中へ入って行く。
戻って来た彼は、私の横の地面にレジャーシートのような物を敷いて言った。
「どうぞ。立って見るのは危ないですから」
「え、でも……」
「観望会もみんなで寝転んで星を見るんですよ。それからこれもどうぞ」
彼から手渡されたのはブランケットだった。
「夜は結構冷えますから」
「何から何まですみません。ありがとうございます」
ブランケットに包まり横になって見上げると、さっきよりずっと空が広い。視界の端まで星が瞬いている。
「もうちょっとしたら天の川も上がってきますよ」
彼も少し離れた所にシートを敷いて横になった。
もしかしたら帰るところを引き留めてしまったかもしれない。だとしたら申し訳ないことをした。
「なんかすみません。もう帰るところだったんじゃないですか?」
「あ、お邪魔でしたか?」
私の言葉を逆に捉えて、彼が慌てて起き上がる。
「いえ、自分じゃ星座とかよく分からないので、お話聞けたら助かります」
彼は「それじゃあ」とまた仰向けになって続けた。
「この光の先に北斗七星があります。分かりますか?」
「はい」
彼がレーザーポインターで星座を示す。
「この柄杓の柄の部分をカーブに沿って延長していくと、明るい星が二つあります。オレンジっぽいのがうしかい座のアークトゥルスで、青白いのがおとめ座のスピカです。このカーブを、『春の大曲線』と言います」
望遠鏡の使い方を教えてもらった時にも思ったけれど、彼の説明は丁寧で分かりやすい。普段小さい子供に説明することが多いからかもしれない。とてもやわらかい話し方だ。
「このアークトゥルスとスピカ、そしてしし座のデネボラを結んで出来るのが、『春の大三角』です」
「春も大三角があるんですね。夏と冬は知ってましたけど」
私が素直な感想を言うと、彼は私の無知を笑うでもなく「あるんですよー」と穏やかに答えた。
「夏の大三角にはこと座のベガとわし座のアルタイル、織姫と彦星がありますよね。今はまだ見えませんけど」
彼の言葉にドキリとする。
現実には出会うことの無い織姫と彦星。
来てはくれなかったあの人。
離れたままの二つの星のように終わった私の恋。
「春の大三角にも同じように対になった星があって、それがスピカとアークトゥルスなんです。この二つは『夫婦星』とも呼ばれています。力強い輝きのアークトゥルスが旦那さんで、それより少し弱い光のスピカが奥さんですね」
彼が示す二つの星を見上げる。
空に数え切れないくらい輝く星の中で、どうして昔の人はスピカとアークトゥルスを夫婦と見立てたのだろう。三角の頂点となる二つの星の距離は決して近いわけではない。離れ離れの二人。スピカの青白い輝きは、どこか寂しげにも見える。
そんな私の感傷的な想像は、続く彼の言葉で消えてしまった。
「この二つの星、今は離れて見えていますよね? でも実は、アークトゥルスはほんの少しずつですけどスピカの方へ近づいていて、このまま行くと、五万年後には二つの星はすぐ隣に並んで見えるようになるんですよ」
遠い未来の夜空で仲良く寄り添う夫婦星。
それはおとぎ話なんかじゃなく、現実に起こることなのだ。
現実「なんて」じゃなかった。
「お兄さん、モテそうですね」
「え? な、えぇ!? モ、モテませんよ、全然!」
軽く言ったつもりの言葉に予想外に慌てふためく彼が、なんだか可愛らしい。
「そうですか? やわらかい語り口の素敵なお話を聞きながら一緒に星なんか見たら、女の子は絶対コロッといっちゃうと思いますけど」
「そんなこと言われたの初めてですよ。見た目だってこの通りですし」
今は暗くてよく見えないが、さっき見た限りではそんなに卑下するような容姿ではなかったと思う。確かに所謂『イケメン』という感じではないけれど、いや、だからだろうか、ほっとする雰囲気の好青年という印象だった。
「あ、あの明るい星って、さっき見た木星ですか?」
「え、ああ、そうです。あと、火星も見えますね」
急に変なことを言って困らせてしまったようなので、私はまた話題を星に戻した。
その後も彼は様々な星の話を聞かせてくれた。楽しそうに説明する声から、本当に星が好きなんだと伝わってくる。私がコテージに戻る時には懐中電灯が無いと危ないからと言って、玄関まで送ってくれた。本当に親切な人だ。
彼が帰ってから、私はコテージの天体ドームで星を見た。望遠鏡を覗くのは、外で肉眼で星を見るのとは違う面白さだった。
ベッドに入り一日を振り返った時、一人でも来て良かったと、私は満足した気持ちで目を閉じた。
翌朝チェックアウトを済ませると、私はコテージのある公園を散策することにした。
昨夜到着した時は暗くて分からなかったが、広い園内には芝生の広場や遊具、遊歩道に小川、植物園などがあるらしく、休日の午前中ということもあり、小さな子供を連れた親子もちらほらと見えた。
空は昨夜から続く晴天だ。新緑が目にも鮮やかで気持ちいい。
ひと通り公園内を散策した私は、最後に天文台にやって来た。午前中に開演されるプラネタリウムを見るためだ。本当はすぐに帰るつもりだったが、予定を変更した。こんな風に思いつきで動けるのが一人旅のいいところだ。
「いらっしゃいませ」
建物に入ると受付で中年の女性が笑顔で迎えてくれた。昨日のお兄さんは見当たらない。夜の天体観望会を担当しているなら午前中には出勤していないかもしれないとは思っていたけれど、残念だ。
プラネタリウムはほぼ貸切状態だった。ドーム型の天井に映し出された春の夜空には昨夜見たのと同じ星座が輝いていて、女性ナレーターの説明が流れている。ここで予習してから実際に星空観察をしても良かったかもしれない。
一時間弱のプログラムが終了し、室内が明るくなった。静かな音楽と共に楽しむ人口の星空も悪くはないけれど、やっぱり昨夜見た本物の夜空の方がずっと綺麗だった。そう思うのは、彼と一緒に見たからだろうか。
昨夜一人で天体望遠鏡を覗いて土星の輪が見えた時、すごく感動した。あのお兄さんと一緒に見たかったな、と思った。感動を誰かと共有したくなって浮かんだのは、別れた彼じゃなく天文台のお兄さんだった。
彼女はいるのだろうか。
結婚していたりするのだろうか。
もし仲良くなれたとしても遠距離になってしまう。
そんなことを、眠る前にずっと考えていた。
振られたばかりで落ち込んでいる時に優しくされたから、かもしれない。
でも、今までこんな風に自分から誰かに近づきたいと思ったことがあっただろうか。いつも受け身で、離れて行く背中を追いかけることも無かった。
初めての気持ちだった。
だから、もしかしたらまた会えるんじゃないかと、わずかな望みを抱いてプラネタリウムに来てみたのだけれど、やっぱりそう上手くいかないようだ。
「こんにちは」
落胆と共にプラネタリウムを出た私に、どこからか声がかけられた。昨日と同じ、やさしい声。
「天体望遠鏡、使いました?」
声の先には、出勤してきたばかりらしく手に鞄を持ったお兄さんがいた。
「はい。土星の輪っかも見えました!」
「晴れて良かったですよね」
ニコニコした彼の顔は、明るい場所で改めて見てもやっぱりほっとするやわらかい印象だ。
今を逃したらもうチャンスは無いかもしれない。
私は思い切って口を開いた。
「あの、また星のお話を聞かせてほしいんですけど、LINEとかSNSとか教えてもらえませんか?」
「えっと、あ、この天文台ツイッターあるんですよ」
あれ、私の決死の発言がさらっと躱されたような。やっぱりお兄さんモテるんじゃないだろうか。
うーん、どう攻めるべきか。
なんだか楽しくなってきて、私はくすりと笑った。
彼は不思議そうな表情を浮かべている。
まあいいか。
ほんの少しずつでも近づいて行けば、いつか隣にいられるかもしれない。
五万年後の春の夜空に輝く、夫婦星のように。