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3-3

「――今日はどうだった?」


 アランは郵便物を管理する使用人を見つけると、もうすっかり日課になっている問いを投げた。聞かれた使用人は左右に首を振る。これもすっかりおなじみだった。


 冬になってもアランのもとにレナからの返事が届くことはなかった。一緒に送ったオリビアにはもうとっくに返事が届いているというのに。


 レナの性格を考えれば、もらった手紙に返事を書かないなどありえない。ということは、何か事情があってどうしても手紙を書けないでいるのか、それとも、そもそも手紙を読んでいないかのどちらかしか考えられなかった。


 どちらにしろ、あまり喜ばしい状況とは思えない。レナが手紙を読んでいないとしたら、あの根性悪の子爵が、手紙を握りつぶしているに違いない。自分宛の手紙も満足に受け取ることが出来ないなんて、レナは一体どんな扱いを受けているのだろう。


 アランはレナの身を案じていた。


 家のためにと自分を殺し、我慢して婚約者の下へ身を捧げたレナ。慣れない環境で意思を伝えることさえ難しく、さぞ心細い思いをしていることだろう。


 そして何より、あのレナの愛らしさを理解しようともしない忌々しい子爵。あの冷徹無比な男から、レナがどんなひどい仕打ちを受けているのかと思うと、心配しないではいられなかった。


 ある日親方の使い走りで町へ買出しに出たアランは、通りの端に小さな敷物を広げて座る露天商に呼び止められた。


「お兄さん、お兄さん。良い物があるんだ。あんただけに特別に見せてやろう」


 黒いローブを目深に被り、姿を隠すように座る露天商はいかにも胡散臭かった。

 城下の大通りを歩いているとこの手の勧誘はさほど珍しいことではない。アランは無視して通り過ぎようとしたが、次の瞬間、露天商から投げられた言葉に思わず足を止めた。


「手が届かない人に、もう一度会いたくはないか……?」


 アランは自分でも無意識に立ち止まっていた。そのまま吸い寄せられるようにして露天商の前に立つ。


 広げられた敷物の上には、ほとんど商品は並んでいなかった。それどころか、置いてあるのはたった一つの鏡だけだった。


「……ずいぶん恐い顔をしているね。大切な人に会えないのが、そんなに辛いか?」


 アランは表情の見えない露天商を睨んだ。


「『大切な人』って……お前が何を知っているっていうんだ?」


 猛禽類のような鋭い目つきで睨まれても、露天商はまったく動じなかった。それどころか、どこか嬉しそうに口元に笑みを浮かべた。


「知っているとも。あんたの悲しみも怒りも――憎しみもな。あの男が憎いだろう。あんたが大事に大事に思ってきたお嬢さんを、横から掻っ攫われたようなものだ」


 アランは急に恐ろしくなった。なぜこの男は、そんなことまで知っているのだろう?


 そんなアランの疑問に答えるように、露天商は敷物の上にある自分の顔ほどの大きさの鏡を手に取った。


「この鏡は、持ち主が望むものを何でも映し出してくれる。この鏡をのぞけば、あんたの大事なお嬢さんにいつでも会うことが出来るぞ。今何をしているのか、どんな目に合っているのか、お前が望めばすぐに教えてくれる」


 アランは差し出された鏡を恐る恐る手に取った。


 蔓草が絡まったような黒い縁飾りの鏡は、一見何の変哲もないごく普通の掛け鏡に見えた。裏面を返し見れば、荊に包まれた鍵のような不思議な彫り物がされている。

 アランが鏡面を覗き込むと、悪魔に取り付かれたような陰気な瞳で鏡を見下ろす自分の顔が映っていた。


 露天商は鏡に見入るアランに低い声を掛けた。


「……ただし、この鏡は真実しか映さない。知りたいと知りたくないとに関わらず、本当のことしか教えてくれない。試しに願ってみるといい――あんたが今、一番会いたい人の姿を映すように」


 アランは手の中にある鏡を食い入るように見つめた。それから硬く目を閉じると強く願った。


(一目でいい、お嬢さんに会わせてくれ――!)


 するとアランの願いに呼応するかのように鏡面が波立ち始めた。それまで映っていたアランの姿がゆっくりと揺らぎ、しだいに別の形に変わっていく。


 やがて映し出されたのは、懐かしく愛おしいレナの姿だった。


「お嬢さん――!!」


 アランは思わず鏡に向かって呼びかけた。まるですぐそこに居るかのように、鏡はレナの姿を鮮明に映し出していた。


「残念ながら、こちらの声は届かない。鏡に映るのも、姿だけだ。向こう側の音を聞くことも出来ない」


「それでもいい――十分だ」


 アランはごくりと喉を鳴らした。黒い両目を最大限に見開いて、魅入られたように鏡を覗き込む。


 映し出されたレナは、薄暗い部屋の中で、たった一人窓際に置かれた椅子に腰掛けていた。何をするでもなく、時折物憂げに膝を抱いたりしながら、ぼうっと窓の外を眺めていた。


「お嬢さん……元気がない……。それに、少しやつれてる……」


 すぐ目の前にレナの姿があるのに、触れることも励ますことも出来ないなんて……。アランはもどかしさに歯噛みした。


 鏡の中のレナが、ふと顔を上げた。誰か来たのだろうか。レナは椅子から腰を上げると、ドアの方へ向かった。


 ――その時、レナの姿がぐにゃりと歪んだ。アランが思わず「あ」と言う声を漏らす。その間に鏡面は再び波立ち、やがて波が引いたときには、呆然と鏡を覗き込むアランの顔を映していた。


「――残念。時間切れのようだ」


 露天商はそう言って鏡を取り上げようとした。しかしアランは伸びてきた露天商の手から身を翻して逃れると、鏡を固くその胸に抱いた。


「頼む、もう少しだけ見せてくれ! 誰か来たんだ、今、お嬢さんの部屋に――」


「そんなの子爵様に決まっている。あの娘は、彼の妻になるのだから」


「妻なんかじゃない……! お嬢さんはあいつのことなんか愛していない!」


「愛があろうとなかろうと、あの二人が夫婦になる事実に変わりはない。――諦めろ。初めから、あの娘はあの男のものになる運命だったのだ」


 アランは血走った目で露天商を睨みつけた。


「俺は運命なんて信じない……! 初めから決められていただって? そんな馬鹿なことあるはずがない。あの男は、お嬢さんの良さをこれっぽっちも分かっていない。それどころか、あの人の優しさを知ろうともしない。そんな奴がお嬢さんを手に入れることが決まっていたなんて、そんなことあるはずがない!!」


 アランの体に、煮えたぎるような激しい感情が湧き上がる。抑えきれない感情に、体がわなわなと震え出す。

 アランはこみ上げてくる吐き気を飲み込んだ。


「……お嬢さんがあの男に愛されている姿を想像するだけで、頭がおかしくなりそうだ。あんな男が、お嬢さんを幸せに出来るわけがない……」


 苦しそうに言葉を吐き出すアランの姿に、露天商は楽しげな笑みを浮かべた。


「諦めろ。運命とは残酷なものだ」


「そんなの……認めない。俺は絶対に認めない……っ!!」


 露天商はアランの剣幕に驚くどころか、むしろひどく満足そうに目を細めながら、激しい憎悪に身を委ねるその姿を眺めていた。


「『認めない』――か。気に入った。その鏡、あんたに譲るよ」


 信じられないという顔でアランは露天商を見た。


「……良いのか? これを、タダで俺にくれるって言うのか?」


 露天商は粘りつくような優しい声を出した。


「もちろんだ。あんたの気持ちはよくわかる。運命を前にして、己の無力さに、どれほど絶望しているのかも……。せめてその鏡で大事な人の行く末を見守っていてやるといい」


 アランは魅入られた瞳でもう一度鏡を見つめ、絶対に手放さないとばかりに両手で抱きこんだ。そうして露天商を一瞥すると、礼も言わずに逃げるようにして明るい大通りに駆け戻っていった。


 その後姿を、露天商の男は嬉しそうに見送っていた。嬉しくて、自分の口元から笑いが漏れていることにも気がつかないほどだった。


「持って行くといい……。僕にはもう、その鏡は必要ないから――」



  * * * * *



 屋敷に戻ると、アランは鏡をそっと自分の枕の下にしまった。


 鏡は長い時間映像を映し続けることは出来ないようで、長くても一日1時間ほど、短いときは数分しかレナの姿を見せてはくれなかった。


 それでも、アランは毎日鏡を眺めた。夜中に起き出して、鏡を抱えて人気のない場所へ行き、レナの名を呼んだ。一人静かに眠りにつくレナの儚げな横顔が映し出されるたび、アランの胸を激しい切なさが締め付けた。


 あの男は、どうやらレナとは別の場所で寝ているようだった。アランはそのことに密かに安堵し、同時にレナの孤独を哀れんだ。


 彼女は毎日、どんな気持ちで一人きりで居るのだろう。それを考えると、身を引き裂かれるほどの歯がゆさがアランの心を襲った。


 あの男は、お嬢さんを愛しているのだろうか? 


 少しでも大切に思っているというのなら――あの人がいつか孤独から救われるというのなら、自分は今のうちに諦めよう。今ならばまだ、踏み止まれる気がする。


 レナの姿が揺れる水面の向こうに消えていった後で、アランはとり憑かれたように呟いた。


「鏡よ、お前が真実を映すと言うのなら、教えてくれ……。この世で一番彼女を愛しているのは誰だ……?」


 鏡面にゆっくりとさざ波がたち、静かに消えていく。アランはごくりと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。


 引き波の後に映し出されたのは、今にも泣き出しそうに醜く歪んだ顔の、自分自身だった。


 その事実を目の当たりにした瞬間、勝ち誇ったような歓喜とともに激しい悔しさが胸を襲う。

 アランは苦しさに耐えて固く目を閉じると、鏡を胸に掻き抱いた。まるでそれが、大切なあの人そのものだとでもいうかのように。


 なぜあの人は、今、自分の手の届く所に居ないのだろう。あの人をこの世で一番大切に思っているのは自分だというのに――真実を映す鏡も、こんなにも明白にそれを証明しているというのに。


 なぜあの人は、自分を愛してもくれない人のものになっているのだろう。これが運命だというのなら、あまりにも理不尽だ。


 冷たい夜の闇が、アランの心を映すように深い漆黒を広げていた。

 真夜中の庭園に人影はなく、空に浮かぶ白い月だけが、地面に崩折れるアランを静かに見下ろしていた。



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