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3-2

 レナは天気のいい日には、庭の桜の木の下で過ごすことが多くなった。


 新たに見つけた居場所は、狭く慣れない部屋の中よりもずっと居心地が良かった。日差しが強ければ広がった枝がちょうど良い木陰を作ってくれたし、木に寄りかかって桜の木の懐かしい香りに包まれて本を読んでいると、不思議なほど心が落ち着いた。


 吹き過ぎて行く風がすっかり冷たくなっても、レナは暖かい毛布にくるまって一日の大半を桜の木と共に過ごした。


 そんなある日、レナがいつものように桜の傍で柔らかな日差しについうとうとしていると、落葉を踏みしめる音がして、頭上にエリックの影がかかった。


「……お前に、これが届いていた」


 エリックはレナに毛糸で編まれた羽織を手渡した。懐かしい匂いですぐにわかった。オリビアが編んでくれた物だ。

 レナは懐かしいのと嬉しいのとで、羽織を抱きしめて涙を浮かべた。懐かしい人の匂い。それは恋しいウォルバート家の香りだった。


 するとエリックは突然レナの隣に腰を下ろした。レナはびっくりしてエリックを見た。この青年は、今までこんなふうに桜の木の下にいる自分の所へやって来たことなどなかった。レナが一人きりで桜の元へ通っていることは知っていたが、それを非難するわけでもなく、ただ無関心を決め込んでいたのだ。


 レナはどんな嫌味を言われるかと身構えた。

 しかしエリックからぶつけられたのはいつもの嫌味でも皮肉でもなく、純粋な疑問だった。


「……この木の何がそんなに良いんだ?」


 レナは拍子抜けして傍らのエリックを見た。


「桜というのだろう? うちの庭師から聞いた」


 レナはエリックの様子がいつもと違うことに戸惑いつつも、この木に関心を持ち、わざわざ庭師に名前を尋ねてくれたと思うとなんだか少し嬉しかった。

 レナは足元に落ちていた木の枝を拾うと、地面に文字を書いた。


『母が好きだった』


 エリックは、初めてレナからまっとうな返事が返ってきたことに驚いた。驚きというよりも純粋に感動していた。

 拾ってきた子猫が初めて自分の与えたミルクを飲んでくれたときのような不思議な高揚感が胸に湧き上がって来るのを必死で押さえこむと、エリックは努めて冷静な声を出した。


「……お前も確か、母を亡くしているのだったな」


 頷くレナを横目で見ながら、エリックは地面に落ちている枯れ枝を指先で弄んだ。


「わたしも子供の頃に母を亡くした。今居るのは、父が後妻にもらった継母だ」


 ぎこちなく並んで座る二人の間を埋めるように、冬を運ぶ風が冷たく吹き過ぎて行く。肌寒いはずなのに、なぜかその冷たさが今は心地良いと思えるのがエリックは不思議だった。


「――お前の家にも、桜があるのか?」


 レナは頷き、そしてすぐに首を振った。エリックがどういう意味か尋ねようとすると、地面に文字が綴られた。


『今はない』


「ないって――なぜだ? 母が好きだった木なのだろう?」


 エリックが尋ねたが、レナはその理由を決して地面に書こうとはしなかった。硬く身をこわばらせ、地面に転がる枯葉に視線を注いだまま動かなくなった。


「……何かあったのか?」


 レナの表情にさっと青が走る。レナの体は小さく震え出し、自分の存在を隠そうとするように膝を抱えてそこに顔をうずめてしまった。


 エリックは急変したレナの様子に戸惑いながら、自分はもしかして愚かな質問をしてしまったのだろうかと後悔した。


 何があったのかは知らないが、レナの様子を見るによほど思い出したくないことなのだろう。怯える小動物のように震える肩はあまりにも痛ましく、小さな体がそのまま冬の風に溶けて消えてしまいそうな気がして、エリックの手は無意識のうちにレナの細い肩に伸びた。


 しかしその手はレナの肩に触れることなく、乾いた音をたてて無残に弾かれた。


「痛――っ」


 エリックは思わず顔を歪めた。

 レナは自分のしたことに驚いて目を瞠ったが、すぐに泣き出しそうな表情になると、すべてを遮断するべく再び膝に顔をうずめてしまった。


 エリックは震えるレナを呆然と見つめた。


 冷たい北風が叩かれた手を撫でていく。じんじんという痛みは叩かれた手のものか、それとももっと別の場所が痛んでいるのか、エリックにはよくわからなかった。


 耐え難い痛みの残照を振り払うように、エリックは勢いよく立ち上がった。


「……日が暮れる。中に入るぞ」


 しかしレナは顔を上げず、首を振った。


「――勝手にしろ」


 レナを置いてエリックは桜の下から立ち去った。


 エリックはレナをどう扱ったら良いのかわからなかった。

 繊細で、乱暴に触れたら壊れてしまいそうな彼女を、どうやって大切にすれば良いのかわからなかった。


 たった今レナと母親の話をしたせいか、エリックの脳裏に、忌まわしい継母の姿が浮かび上がる。


 継母は大変美しい人だった。血のような深紅のドレスが良く似合う、妖艶な貴婦人だった。母を失ったばかりの幼いエリックにも、美しい声で優しい言葉をかけ、白魚のような手で頭を撫でてくれた。


 ――父の前では。


 父の姿が見えなくなると、継母は人が変わったように嫌悪に満ちた目をエリックに向けた。継母は嫉妬深く、前妻のただ一人の忘れ形見であるエリックを忌々しく思っていたのだ。


 継母はエリックに冷たく接するだけでなく、まだ六つになったばかりだったエリックを虐げるようになった。


 少しでも意に反することを言えば、縄で縛り付けて冷たい地下室に閉じ込め、無理やりに従わせた。また態度が気に入らないと言っては、床に転がるほどの力で思い切り小さなエリックの頬を打った。冬になると寒風吹きすさぶ中エリックを丸裸にして外に連れ出し、氷の張った池の水を浴びせかけた。


 それでも、エリックは継母のことを好きでいようとした。普段は冷酷な継母も父の前では優しかったし、何より、幼いエリックが母と呼べる人はもうこの人より他には居なかったのだ。


 しかしあるとき継母は、必死に自分の後を追いかけてくる幼いエリックに向かって言い放った。

 わたしはお前のことなど大嫌いだ。可愛いと思ったことなど一度だって無いーー早く目の前から消えてくれたら良いのに、と。


 十二歳になったエリックは、父の住む生家から遠く離れた南の地方にある領地を収めるよう命じられた。成長し、継母に懐かなかったエリックは、体よく追い出されたのだ。


 許婚の存在を知らされたのもその頃だった。しかも相手はまだ五歳になるかならないかの幼女だという。エリックの意志など入る余地もなく、その事実だけが漫然と父親から告げられた。


 地位も屋敷も、将来の伴侶さえ与えられ、一見恵まれた境遇にさえ見えるそれは、本当の家族から切り離されたという疎外感をエリックに強く植え付けただけだった。


 必要なものは全てそろえてやるから、お前はお前で、別に家族を作れ――と。


 それからの十三年間を、エリックは孤独に生きてきた。十三年の間に両親に会ったのは、片手で数えられるほどだ。


 ただ、レナには一度だけ会ったことがあった。


 それは許婚の存在を知らされてすぐの花祭りだっただろうか。たまたま馬車で通りがかった花祭りの会場を窓から眺めていると、同乗していた使用人が教えてくれたのだ。


「エリック様! あそこにいらっしゃる方――ウォルバート家の奥方様ですよ! 手を引かれているのは、レナ様ではないでしょうか……。確か一人娘だったはずですし、エリック様より七つほど年下と聞いておりますから、ちょうど年頃も合います」


 エリックは我知らず窓に張り付き、食い入るようにして外を見つめた。

 優しそうな女性に手を引かれ、嬉しそうにはしゃぐ女の子。大きな桃色のリボンを髪に飾り、リボンとおそろいの花弁のようなふんわりとしたドレスを着て無邪気に笑う姿は愛らしく、大人の汚れた感情ばかり見てきたエリックには、本物の花のように眩く映った。


(あの子が、僕の将来の妻になる女の子……)


 エリックは馬車が通り過ぎてレナの姿がすっかり見えなくなるまで、その小さな姿を瞳に焼き付けた。


 その日から、エリックの乾いた心には一点のささやかな光が灯された。


 それは決して大きな光となってエリックの心を照らし出すようなことはしなかったが、それでもエリックの心の中では芽吹いたばかりの小さな若草色の芽のように、温かな存在感を持っていた。


 成長するにつれわかったことだが、奔放な継母の浪費癖が長い年月をかけて少しずつシルヴェストル家の家計を逼迫させ、ついには父が身内に金策をして回るようになっていた。

 両親は普段からウォルバート家のような成金を見下していたが、背に腹は代えられなかったのだろう。多額の金銭的支援を交換条件にこの婚姻話を成立させたのだった。


 そんな愚かな両親を蔑みながらも、彼らに抗う統べも力も手に入れた成人となってもなおエリックがウォルバート家との婚約を破棄しなかったのは、レナもまた自分と同じように幼い頃に母親を亡くしたと知ったからだった。


 彼女はきっと、自分と同じ孤独を抱いているに違いない――。


 子供の頃にたった一度見たことがあるだけの婚約者に、エリックは不思議な親近感を覚えていた。


 しかしいざ対面を果たしてみると、自分の思いに反し、レナは頑なに心を閉ざすばかりだった。


 エリックは恐れていた。


 自分が彼女に近付こうとすれば、無理やりその心をこじ開けてしまいそうで――そうしたら彼女が、もう二度と自分の元へは帰ってこないような気がして、恐くて近付くこともできないでいた。


 歩み寄ろうとして拒絶されるくらいなら――それならばいっそ、孤独でいた方が良い。ただ傍に置いておくだけで十分だ。


 自室に戻ったエリックは、懐から一枚の封筒を出した。


 つい渡しそびれてしまったそれは、オリビアの羽織と一緒に送られてきた手紙だった。裏返せば、拙い文字で差出人の名前が書いてある。


『アラン』


 エリックは一瞬の躊躇の後、勢いよく封を破いた。


『お嬢さん、お元気ですか? 寒くなってきましたが、風邪など引いていませんか?――……』


 決して上手いとは言えない文字で綴られた手紙に、エリックは目を走らせた。罪悪感から、文字を追う視線が早くなる。近況を綴った簡単な文面の最後の方に書かれた一文に、エリックは思わず目を留めた。


『俺たちの『桜』は、元気にしています。これならきっと、お嬢さんとの約束を果たせそうです。必ず、会いに行きます。だからどうか、俺を信じて待っていてください』


 読み終わったとき、エリックは我知らず手紙をぐしゃりと握りつぶした。


(『俺たちの桜』だと――?)


 そのいかにも特別そうな言い回しに、エリックの心は激しく波立つ。


 さっきあの娘は実家には桜の木はないと言っていた。あれは嘘だったのだろうか。

 それとも、あの急変した態度から察するに、他に何か事情があるのだろうか。

 彼女はそれを決して自分には明かそうとしなかったが、この園丁の少年には、全て打ち明けているのだろうか――?


 それにここに書かれている『約束』とは一体何を指しているのだろう――?

 必ず会いに行くとは、どういうことだ? あんな遠い所から、ただの園丁がわざわざ元の主人に会いに来たりするものだろうか?


 エリックの脳裏に、花祭りで見た二人の姿が浮かぶ――華やかに飾られた街の中で、親しげに手を繋ぎ、微笑みながら見つめ合っていた二人の姿が。レナはこれまで一度たりとも自分にはあんなふうに心穏やかな笑顔を向けたことなどないというのに。


 エリックの心に、どす黒い感情が湧き上がってくる。


 途端に、さっきまで隣に座っていたレナのすべてが、憎らしく思えてきた。

 毎日彼女があれほど愛惜しそうに桜に寄り添っているのは、亡くなった母を偲んでいるのではなく、あの園丁や二人で交わした約束とやらに思いを馳せているからではないのか。


 同じ屋根の下に居ながら自分の部屋を尋ねてきたことは一度もないのに、レナはあの桜の元には足繁く通う。それは、あの桜に園丁の姿を見ているからなのか――。


「……許さない……。わたし以外の男を思うなど、絶対に許さない……」


 そう呟いたエリックの瞳は、冷たい怨嗟に染まっていた。


 翌日、レナはいつものように桜の元を訪れると、変わり果てた景色に言葉を失った。


 あれほど立派だった大樹は、無残に切り倒されていた。


 見事に空を覆って広がっていた枝は消え去り、代わりにぽっかりと切り取られたような空の青色が虚しくのぞいていた。


 レナはその日、シルヴェストル家での貴重な居場所を失った。


 再び自室に篭るようになったレナは、一層孤独に苛まれるようになった。

 というのも、エリックはレナの世話係をその任から外したのだ。そうしてレナが何をするにもまず自分を通すようにさせた。

 レナの方でも、この屋敷に他に頼る者はなく、必要なことがあるときにはエリックを頼らざるを得なかった。


 とはいえエリックは始終屋敷にいるわけではなく、他の家人たちもまたレナの様子を窺いに来る者はなかったので、レナは一日中与えられた自室の窓際に座り、一人ぼうっとして時を過ごすしかなかった。



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