3-1
季節は瞬く間に移り変わる。
激しく照りつけていた日差しが柔らかくなり、庭の木々が赤く染まった葉を落とす頃、レナは決められていた通りにシルヴェストル家に移って行った。
当日はひどい大嵐で、シルヴェストル家の中にはレナのことを『嵐と共にやって来た花嫁』などと揶揄する者もいた。
しかしいざ屋敷に現れたレナは驚くほど控えめな性格で、想像していた成金のウォルバート家の娘とかけ離れていることに皆一様に驚いていた。
行儀見習いのために婚前にシルヴェストル家へ出されたレナだったが、実際は行儀見習いなどただの名目だった。ウォルバート家の娘の素行を面白おかしく噂する人間がいたため、きちんと教育を受けさせているという体裁を繕うために屋敷に呼び寄せたのだ。
そのため、レナはシルヴェストル家に来ても特にやるべきこともなく、エリックの父からも自由に過ごして構わないと言われていた。嫁入りに必要な最低限の勉学や行儀作法などは、少女時代に女学校でとっくに習得していたからだ。
レナとエリックは、同じ屋根の下で暮らすようになっても余所余所しい関係のままだった。
会食の席などで二人並んでいても、エリックがレナに言葉をかけることはなく、そのためレナもまたエリックと話をすることもなかった。
寝室も別に与えられ、食事の時間も別々だった。顔を合わせるのは客人をもてなすときくらいのもので、それ以外は、レナはほとんどの時間を与えられた自室の中で過ごした。
エリックが散歩や観劇にレナを誘い出すこともなく、屋敷には手話の分かる者もいない。レナは知らない人間ばかりのシルヴェストル家の中で、ひたすらに孤独だった。
そんなレナを、シルヴェストル家の家人たちはしだいに変わり者とみなすようになっていった。口も利けず、婚約者に愛される様子もなく、陰気な顔で一日中部屋に篭っている姿は、確かに結婚を控えた健康な若い娘らしからぬものだった。
あるとき、客人の夫婦の相手をするために、レナはエリックについて庭園を回っていた。
とはいえ口の利けない自分が会話に混ざることはなく、いつものように黙ってエリックの後をついていくだけだ。
シルヴェストル家の庭園は、ウォルバートのそれとは違いとても簡素だ。季節ごとに違う花が咲き乱れる賑やかなウォルバート家の庭園とは異なり、一年を通して緑の葉を宿す背の低い針葉樹が、棺のように整然と刈り込まれて伸びているばかりだった。
レナはこのシルヴェストル家の庭園が好きではなかった。一糸乱れることなくきっちりと刈り込まれた庭木が、近付きがたく付け入る隙を与えないエリックそのものに見えて、逃げ出したくなるのだ。
この庭にいると、たまらなくあの懐かしいウォルバート家に帰りたくなる。あそこには、いつも心を和ませてくれる花が咲いている。自分の存在を許してくれる人の笑顔がある。
油断するとこぼれ落ちそうになる涙をこらえながら庭に目を走らせると、庭の端に見覚えのある木の幹を見つけて、レナは客人がいることも忘れて駆け出した。
近付いて見れば、やはりそれは立派な桜の木だった。
レナが愛惜しげにそっと幹に手を添えたとき、背後から声がかかった。
「まあ珍しい。桜ですわね」
客の夫人が、追いついてきてたくましい幹を見上げた。
レナはこの国では珍しい桜を夫人が知っていることが嬉しくて、はじけるような笑顔を向けた。
それを見て、夫人は意外そうな声を漏らす。
「まあ……。あなた、そうやって笑うととても愛らしいのね」
驚くレナに、夫人は優しく言葉を続けた。
「子爵様にもそうして笑いかけてさしあげたらよろしいのに。その笑顔を見れば、あの生真面目なお方だってきっと頬が緩んでしまうに違いないわ」
あの無表情なエリックが笑う姿などまったく想像できない。
レナが即座に首を振ると、その様子がおかしかったのか、夫人は上品な笑い声を立てた。
そうして諭すように穏やかな表情をレナに向けた。
「殿方というのは、至極単純で、子供のように素直な生き物よ。そして、とても不器用なの。どんなに見目麗しく理知的でも、上手に愛を囁けない鳥もいる……」
言いながら夫人はついと上方に細い指を向けた。
指差した先には、木の枝で羽を休める一羽の鳥の姿があった。鮮やかな青と冴えた黄色の美しい羽は暗い枝葉の陰でも目を引いたが、近くに仲間の姿はなく、代わりに見慣れた灰褐色のムクドリたちが連れ立ってその前を横切って飛んでいった。
「……哀れな鳥には、こちらから手を差し伸べてあげるの。元は単純な生き物ですもの。一度心を許せば、存外簡単に懐いてしまうものですわ」
そう言って悪戯っぽく片目を閉じて見せると、夫人は夫たちの方へ戻って行った。
レナは傍らの桜の木を見上げた。いつだったかアランが、一緒に植えた杏が花をつけたら見せに来てくれると言っていた。
とはいえ、ウォルバート家の屋敷がある街は、ここから遠く離れている。アランが本当に来てくれると思っているわけではなかったが、あの小さな若木に花が咲く姿を思うとひどく懐かしく、孤独に削がれた心が穏やかに凪いでいく気がした。
桜は、レナの亡くなった母親が好きだった花だ。
この国で桜は珍しく、母は貿易商の父に頼んでわざわざ遠い異国から苗木を取り寄せ庭園に植えたのだという。
毎年温かくなると淡いピンク色の花が、伸びた枝のあちこちに繚乱と咲き乱れた。そうしてまもなく、その小さな花弁は雪のように風に舞い、儚く散り落ちていく――。
幼いレナと母は、風の強い日に庭に出ると、キャッキャッとはしゃぎながら舞い散る花びらをつかまえて遊んだ。
『どちらがたくさんつかまえられるか競争よ』そう言って吹きすさぶ風に髪を乱しながら屈託なく笑う母は、とても美しかった。
そんな無邪気だった母は、やがて舞い散る桜のように儚く逝ってしまった。レナがまだ八つの時だった。
レナの母親は地方の伯爵家から嫁いで来た人だったが、自分の窮屈だった少女時代を省みてか、華やかな場を好まないレナの振る舞いにも寛容だった。父親に内緒で、二人で小さな畑や薔薇の花壇を作ったりしたこともあった。
幼いレナの目には、飾り立てられて大人しく父の隣に納まる母よりも、頬に土を付けながら日差しを受けて笑う母の方が遙かに魅力的に見えた。
そんな母が愛してやまなかったのが、この桜だった。
薄紅色の花弁は控えめな母の印象と重なって、レナもすぐにこの花が好きになった。子供の頃庭にあった桜の木は、母が自分に遺してくれた大切な思い出だった。
レナは母が亡くなってからも、寂しくなるといつもその桜の元を訪れた。硬い幹に耳を添えれば、母と二人ではしゃいだ懐かしい笑い声が聞こえてくる気がした。
レナは尊い記憶を慈しむように、そっと今目の前にある桜の木に触れた。
母の大切にしていた桜と同じ懐かしい香りがして、レナは思い出を取り戻そうとするかのように思い切り息を吸い込んだ。
母の桜は切り倒されてしまったが、アランと一緒に植えた杏の木も、いつかあのくらい見事に花を咲かせるようになるのだろうか……。
夢中になって桜を見上げていたので、どのくらい時間が経っているかわからなかった。
気がつけば、背後にエリックの影が伸びていた。
「――良いご身分だな。客人の見送りもせず、暢気に木陰で一休みとは」
レナは慌てて空を見上げた。日はすっかり傾き、いつの間にか空には紅が差していた。
レナは申し訳なさに身を縮ませ、エリックに向かって勢いよく頭を下げた。いくらなんでも客人の相手を放り出すとは、嫌味を言われても仕方がないことだった。
エリックは必死に謝るレナをつまらなそうに見て、それから背後に伸びる桜のごつごつとした幹を見上げた。
「……ずいぶん無骨な木が好きなんだな」
いかにも関心が無さそうな声で言うと、エリックはさっさと屋敷の方へ戻って行った。
* * * * *
レナがいなくなってから、アランは張り合いのない日々を送っていた。
まるで世界から色が消えたようだった。
あれほど華やかに見えていた庭園が、賑やかだった屋敷が、今では空虚な箱庭に見える。
心にぽっかりと穴が開いてしまったみたいだった。今まで当たり前にそこにあったものを、突然取り上げられてしまったような喪失感に気持ちが付いて行けず、アランは日中もぼうっとすることが多くなった。
つい先ほども仕事で失敗をして、親方に叱られたばかりだった。
「最近ずっとこうじゃないか。お嬢さんがいなくなって寂しいのは分かるが、仕事は仕事だ。ここできちんとやるべきことをやっていりゃ、またいつかお嬢さんに会える日も来るだろうさ。その前にクビになっちまったら、もう二度と会うことも叶わんぞ」
親方の言うことはもっともだった。ここはレナの生家だ。ここで働き続けてさえいれば、いつかきっと再会できる日が来るかもしれない。
(でもそれは一体いつのことだ? あの子爵の子供を見せに来てくれるときだろうか? その時お嬢さんは、あの男の隣で幸せに笑っているんだろうか……?)
アランの手の中で、握り締めていた鋏がぎりりと鈍い音をたてた。
(お嬢さんが幸せならそれでいいじゃないか。あの方は、何もかも受け入れて嫁いでいかれるのだ。俺がその覚悟を踏みにじってどうなる? 生まれも身分も違う、ましてやまだ独り立ちも出来ていない半人前の俺には、あの方を幸せにしてさしあげることは出来ないというのに……)
握っていた鋏を縁台に置き、ふらふらとどこかに歩いていくアランの後姿を、親方は心配そうに見つめていた。
「大丈夫か、あいつ……」
ふと、アランが置いていった鋏に目を落とす。
剪定用に作られた頑丈な鋏は、金具が不自然に歪んで壊されていた。




