2-3
夜になって、アランはレナの姿を探した。
夕方、シルヴェストル家の馬車を見送る場に、レナの姿はなかった。オリビアに尋ねると、食後にエリックと庭へ出てから姿を見ていないという。
「まったく、見送りもなさらないなんて!」とオリビアは嘆いていたが、レナを案じ、仕事が終わったら彼女を探すようアランに頼んだのもまた彼女だった。
「こういうときは、いつでもあなたの方が先にお嬢様を見つけるものね」
オリビアはそう言って苦笑した。
アランは屋敷の片付けを終え、敷地の北側にある池へと向かった。
日中も仕事をしながら屋敷の中や庭園を探したが、どこにもレナの姿は見当たらなかった。あと、心当たりがあるのはあの池だけだ。
(お嬢さんがあそこに行くのは、決まって自分を責めているときだ……)
そう考えると、自然に池へ向かう足は早くなった。
月と星の仄かな明かりの下で、レナは畔にある切り株に腰掛け暗い水を湛えた池を眺めていた。
水面を滑る涼しい風が、レナの栗色の髪を弄ぶように撫でていく。
レナの姿を見つけたアランは息を呑んだ。夜闇の中に薄く照らし出されたレナの背中は今にも消えてしまいそうなほど儚く翳んで見えた。
「――お嬢さん!!」
怒涛のようにせり上がってくる不安がアランの心を襲う。胸苦しさを覚えて吐き出した呼びかけは、今にも泣き出しそうに掠れていた。
レナがゆっくりと振り返ると、肩で息をしているアランの姿がすぐ後ろにあった。
「屋敷に戻りましょう? ここは、こんな時間に来るには寂し過ぎる……」
レナの瞳は悲哀に満ちて沈んでいた。その双鉾に潜む底深い闇を認め、アランは思わず足を止めた。どんな希望も活力も見出せない、悲哀と自棄しか存在しない不穏な瞳は、レナの心を絡め取る闇そのものだった。救いさえも拒むほどの孤独を宿した瞳に、アランは怖気づきそうになる足を必死で踏みとどめた。
レナの瞳と同じく、夜の池もまた空の黒を映し、墨を流したような漆黒だった。その暗い水面の一点を見つめ、レナは苦しそうに眉を寄せた。
闇の中に浮かぶレナの白い肌は陽炎のように儚く揺れ、アランはその神秘的な光景に目を奪われる。同時に、今レナの瞳に映っているであろうものを思うと、痛ましさに胸が締め付けられた。
――レナは池に、あの女の亡霊を映しているのだ。
いつもそうだった。自分を責めるとき、あるいは自分を追い詰めるとき、レナは決まってこの池の畔へやって来た。
この場所に来れば、ごく自然に自分を咎めることができる。
この場所は、レナにとって呪いだった。自分の罪を、自分自身に思い知らせるための場所――。
エリックとの結婚が決まったときも、レナはここへやって来た。まるで、自分が嫁ぐことを、自分自身に承服させようとするかのように。
「もしも――」
アランは持ってきていたレナの羽織を、そっとその肩にかけた。
「もしも、お嬢さんが望むのなら――俺が全部、ぶち壊してさしあげます。お嬢さんがそう願うなら……」
背後からかけられた声の仄暗い響きに、レナは思わずアランを振り返った。
アランの瞳に宿る不穏な熱に気がついて、レナの背中を冷たいものが降りていく。
これは冗談でも励ましでもない――。本気を帯びたアランの気迫に、レナは慌てて首を振った。
アランは己の冷たい声に自分でも驚いた様子で、すぐに我に返ると慌てて笑顔を作ってみせた。
「嫌だな。冗談ですよ。そもそも俺には、何の力もありませんから……。俺に出来ることといったら、ここで庭仕事をしながらお嬢さんの幸せを祈ることくらいです」
そう言って笑うアランの笑顔はもうすっかりいつもの朗らかなものだった。どうやら自分の考えすぎだったようだと思い至りレナは安堵する。
「お嬢さんは立派です。旦那様の――父親のために、自分を犠牲にして嫁ぐのですから。俺はお嬢さんのその優しさを尊敬します。誰にでも出来ることじゃない」
向けられたアランの顔は笑顔だったが、その言葉にわずかな非難が滲んでいたことにレナは気がつかなかった。
レナがこの結婚を望んでいないことは誰の目にも明らかだった。しかし良家の子女が家のために政略結婚をすることは特段珍しいことではない。またレナには歳の離れた幼い弟がいたので、どのみちいずれは屋敷を出ていかなければならないのだ。
だが、アランは内心納得できずにいた。
なぜレナばかりが辛い思いをしなければならないのだろう。彼女はもう十分苦しんだ。自分の望む選択をすることが、それほどいけないことだろうか。
「前にも言いましたけど――俺、お嬢さんには幸せになってもらいたいんです。お嬢さんは俺にとって大切な人なんです。そのお嬢さんが辛い思いをするなんて、俺には耐えられない……」
レナはアランの言葉に少しだけ微笑む。その笑顔は何かを諦めきった悲しい影を帯びていた。
『わたしは、幸せになんてなってはいけない』
そう答えたレナに、アランは激しく首を振った。
「そんなこと絶対にありません!! お嬢さんは自分を責めすぎなんです……!! あのときのことなら――あれは、お嬢さんのせいじゃない!! お嬢さんが自分を責める必要なんてないんです……!!」
思わず声を荒げてしまい、アランは瞠目して我に返った。
レナはアランの言葉を否定するように暗い水面の一点に目を移す。
『――違う』
レナの唇が小さく動く。
『わ た し が こ ろ し た』
無音の言葉は、呪詛となってレナの心を絡め取る。月の光を受けてぼうっと輝くレナの白い瞼が、すべてを拒絶するようにゆっくりと閉じられた。
その光景に息を呑んでいたアランだったが、すぐに我に返るとレナの肩を両手で掴んだ。
「――違う! 絶対にお嬢さんのせいなんかじゃない!! あなたは何も悪くない!!」
もう何度この言葉を口にしただろう。どんなに真心を込めて伝えても、レナの心に届かないことがどうしようもなく歯痒かった。
乱暴に肩を揺すり、懸命に言い聞かせようとするアランの姿が、レナの虚ろな瞳に映る。
(――ああ、そうだ。この人はいつもわたしの罪を否定してくれる。この人の前では、わたしは笑っていてもいいのだと許されている気がする――)
ゆっくりと、レナの白い腕が伸びる。救いを求めるように伸ばされたその腕を、アランは自分の方から掴み取ると、勢いよく引き寄せた。
引き寄せられたレナの頬が、アランの固い胸板へぶつかる。
それを逃がすまいとするように、逞しい腕がレナの体をしっかりと包み込んだ。
(お嬢さん、こんなに震えている……)
アランはレナを抱く腕に力を込めた。そうしていないと溢れそうになる感情を押し留めていられなかった。
「お嬢さんは初めて会ったときから、いつも俺に優しくしてくれた。罪を犯した俺にも、優しい言葉をかけてくれた。ここにいてもいいんだと、俺に居場所を与えてくれた――」
アランの指が、レナの柔らかな肌に食い込む。痛いはずなのに、きつく締め付けられるほど、レナは不思議な安心感を覚えた。
「俺にとってお嬢さんは、全てなんです。この月も、星も、美しい花も、温かい部屋も――傍にお嬢さんがいるから、素晴らしいと思うんです。夜眠るときも――明日もお嬢さんが笑っていてくれると思うから、その笑顔に会いたくて、俺は毎日を生きていきたいと思うんです。俺にとってあなたは、何よりも尊い存在なんです……!」
アランの口から紡がれる優しい言葉たちは、乾いた大地を潤す水のように、レナの心に染み渡っていく。
「だからどうか、もう自分を責めるのはやめてください。あなたが苦しんでいると、俺まで辛いんです。心が――張り裂けそうになる……っ」
レナはアランのシャツに頬をうずめた。白いシャツからは太陽と土の優しい匂いがして、レナの胸を甘く切ない苦しさが満たしていく。アランに抱かれていることに困惑する気持ちの裏で、その腕に確かな安らぎを覚えていることが不思議だった。
レナの細い腕が縋りつくように背中に回され、思わずアランの肩が跳ねる。
アランはレナの肩を掴んでゆっくり体から離すと、すぐ目の前にある瞳を覗き込んだ。
伏せられていたレナの長い睫毛の影が、白い肌の上で震えている。レナは小さく瞬いてからゆっくりとアランの瞳を見つめた。
触れ合った箇所が燃えるように熱い。
心臓が早鐘のように鳴り響く。
アランの顔がゆっくりとレナに近付く。大きな黒い瞳は熱っぽく潤み、闇の中で水面に映る月のように妖艶に揺らめいて、レナはそこから目が離せなくなる。
いつもとは違うアランの大人びた雰囲気に思わずレナの体がこわばる。しかし、逃げることを阻むように、肩を掴むアランの指に力がこもる。
これがあの、いつも隣に居たアランだろうか。元気で明るく、無邪気な笑顔でいつも自分を笑わせてくれたアランだろうか。自分は姉のようなつもりでアランを愛しく感じていたが、いつの間にかアランは弟と呼べるほどの子供ではなくなっていた。
逃れることも出来ず、レナが硬く目を閉じたときだった。
さっきまでの力強さが嘘のように、アランはぱっと手を離した。
「……すみません。俺、何やってるんだろう……」
アランは表情を隠すようにレナに背中を向けた。薄いシャツごしに日々の庭仕事で付いたしなやかな筋肉が見て取れて、レナの心臓は落ち着きなく跳ねる。
アランはレナに背中を向けたまま言った。
「俺、ちゃんとわかってますから。俺じゃお嬢さんを幸せに出来ないって、ちゃんと理解してますから……。だからこそ、お嬢さんには幸せになってもらいたいんです。幸せになってくれなきゃ、俺は……俺の気持ちは――……」
最後の方は声が小さくて、レナにはよく聞き取れなかった。
背中が小さく震えているのを見て、レナはアランが泣いているのかと思って慌てた。
思わず腕を伸ばし、柔らかな黒髪に手を重ねると、震えていた肩がびくりと上下して固まった。
レナはアランの動揺には気付くことなく、そのまま駄々っ子をあやすようにして頭を撫でてやる。
アランが屋敷に来て間もない頃から、いつもアランが落ち込んでいるときには、こうしてレナが頭を撫でてやった。
幼いアランはこうしてもらっている間だけは自分がレナに特別に可愛がられている存在になったようで嬉しかった。レナもまた、素直に甘えてくるアランを弟のように慈しむことで、自分を姉然として律し、穏やかな気持ちを保つことが出来た。
アランの黒髪は昔から毛並みの良い猫のようだった。柔らかく艶やかで、こうして撫でるたびにレナはその感触を楽しんでいた。
(アランの髪を撫でていると、不思議とわたしの心も落ち着いてくる…)
なぜか嬉しそうに自分の頭を撫でるレナを、アランは恥ずかしさと悔しさが入り混じった複雑な気持ちで見つめ返した。
「お嬢さん……」
結局、レナの手を払いのけることも出来ずにアランは諦めに似た心地で撫でられるままにしていた。
(お嬢さんにとって俺は、いつまで経っても頭を撫でてやるような子供でしかないんですね……)
密かに拳を握り締め、己の中の葛藤を殺す。頭に触れる柔らかな手を取り、乱暴に掴み上げて地面に押さえつけ、感情のままに唇を重ねたい衝動を、アランは頭の中で掻き殺した。
(俺だって、もう立派な男なんですよ……。あなたを、一人の女性として愛してしまうほどに……)
無性に泣きたくなって、アランは深くうなだれた。このまま子供のように泣きじゃくってこの思いをぶつけることができたらどんなに良いだろう。駄々をこねてレナを繋ぎとめることができたら、とっくにそうしているのに。
しかしそれが許された時は既に過ぎてしまった。レナも自分も大人になり、それぞれに判別できる思考を以て将来を選択できる歳になってしまった。
(もうあの頃には戻れない――。どんなに望んでも、あの頃の俺とお嬢さんの関係のままじゃいられないんだ……)
レナは急に俯いてしまったアランの顔を心配そうに覗きこんだ。まるで悲しんででもいるようなアランの様子に、自分は何か間違ったことでもしてしまっただろうかと不安になる。
しかし顔を上げたアランは、いつもの穏やかな笑顔で明るい声を出した。
「――そろそろ部屋へ戻りましょうか。戻ったら、俺がおいしいハーブティーを入れてさしあげますよ」
その笑顔にかすかな違和感を覚えたが、レナは深く追求することはしなかった。
なぜだかアランが急に大人びてしまったような気がして、ほんのりと赤い頬のまま頷くと、ずり落ちていた羽織の前を合わせながらアランの後について屋敷へ戻っていった。




