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エリックは、庭園に出ても一言も口を利かなかった。
年頃の男女がいかにもつまらなそうな顔を浮かべながら押し黙って歩いている姿は、傍目から見るとひどく不思議な光景だった。
「務めとはいえ、お前も難儀なことだな。わたしと歩いても何一つ楽しいことはないだろうに」
ふいに投げられた皮肉に、レナは隣を歩くエリックを見上げた。
「だが、お互い様だ。わたしとて、こんな馬鹿げた時間など早く終わればいいと思っている」
レナは気付かれないようにそっとため息をついた。自分が口が聞けないこともあり元々会話を弾ませることは苦手だったが、これほど沈黙が苦痛に感じたのはエリックが初めてだった。
黙って行進のように歩く二人の目に、見覚えのある背中が映った。生垣の裏側で草取りをするアランの姿を見つけた途端、レナがぱあっと顔を輝かせたのをエリックは見逃さなかった。
アランもレナたちに気がつくと、作業を止めて手袋をはめたままの手を大きく振って見せた。
レナもそれに答え、細い腕を高く伸ばして手を振り返す。
エリックはレナの無邪気な様子に密かに驚いていた。感情の薄い人形だと思っていた婚約者が、傍らでこんなふうに生き生きと動く様を見たのは初めてだった。
レナはというと、アランの態度に違和感を覚えていた。いつもなら自分の姿を見つけると真っ先に駆け寄ってきてくれるのに、今はただ遠くから手を振っているだけなのだ。
どうしてだろうと考えて、ふと、隣にいるエリックに気がついた。そうか、彼がいるからアランは気を使っているのだ。
少し考えてから、やはりと思い直してアランの元へ向かう。さっきの薔薇のお礼をどうしても伝えたかったのだ。
レナが自分の方へ向かってくることに気がついて、アランも慌ててレナの元へ走り寄る。主人の婚約者との逢瀬を邪魔するなど、屋敷の誰かに見つかれば間違いなく咎められるだろうが、自分の元へ駆け寄って来るレナを拒むことなどアランには到底出来なかった。
エリックは少し離れた所から、手話を交わす二人の姿を見つめていた。手話の覚えが無いエリックには、二人が交わす言葉の内容がまったく理解できなかった。
こうして離れた所から見れば、人形などという印象を抱いたことが不思議なほどに、レナはよく動きよく笑う、はつらつとした女性だった。
楽しげに笑い合う二人を見つめるエリックの瞳は、次第に熱を失っていく。胸に押し上がってくる疎外感が鉛のように重く、息を吸うことさえ苦しく感じる。
やがて、何もかも馬鹿らしいと思い至る。自分がここにいることも、こうして遠くから彼女を見つめていることも、一体何の意味があるのだろう。
膨大な虚しさに襲われ、エリックはその場から立ち去ろうと踵を返した。
レナは図らずもエリックを除け者にするような形になってしまったことに気がついて、慌ててエリックの元へ戻る。
駆け寄ってきたレナに気がつくと、エリックは全てを拒む冷え切った一瞥を向けた。
「――汚らわしい娘が。わたしにそれ以上近づくな」
嫌悪に満ちた声の響きに、思わずレナの足がすくむ。
その様子を見て、エリックは嘲りを込めた冷笑を浮かべた。
「――ああ、そうか。お前の父も、元はそこの園丁と同じ卑しい身分だったな。なるほど、それで土臭い輩とも気が合うというわけか」
レナを心配して駆け寄ってきたアランの耳にも、エリックの冷たい声が届いた。
アランはすかさずレナを背に立つと、怒りに満ちた目つきでエリックを睨みあげた。
「――お嬢さんに謝れ」
「何だと……? みすぼらしい園丁が、一体誰に向かって口を利いている!!」
「謝れ! お嬢さんを侮辱したこと、謝れよ……っ!!」
猛犬のような勢いで今にもエリックに掴みかかろうとするアランを、レナは慌てて制した。
「お嬢さん!? だってこいつ、お嬢さんのこと――」
レナはぶんぶんと首を振りながら、必死でアランをたしなめる。レナに体を張って止められ、アランはぐっと奥歯を噛みしめて怒りを堪えた。エリックの言葉は許せない。だが、ここでまた自分が感情的に振る舞えば、それをネタにエリックから嫌味を言われるのはレナなのだ。
アランはもう一度エリックを恨めしそうに睨んだ。
(せめて俺が、この男と同じくらいの大人だったなら。そうしたら、お嬢さんも俺を止めたりせず、俺にお嬢さんを守らせてくれただろうか――)
アランは失望に似た気持ちのまま、レナとエリックに向かって頭を下げた。
「すみませんでした。俺……少し頭を冷やしてきます」
そう言って立ち去ろうとした背中に、エリックの声が投げられる。
「――小汚い貧民め。お前など、ここを出れば生きている価値もないものを」
辛辣な言葉が、アランの心に突き刺さる。アランは言い返すことが出来なかった。悔しいが、その通りだと思ったのだ。
アランはレナの前で貧民と罵られたことにたまらなく羞恥を覚えた。惨めな気分で一刻も早くこの場を立ち去ろうと背を向けた途端、アランの耳に乾いた破裂音が響いた。
思わず足を止めて振り返ったアランの視線の先では、怒りに顔を真っ赤にしたレナが、エリックの頬を打った手を振り抜いているところだった。
エリックは打たれた頬を押さえたまま、何が起こったのか理解できないという顔で呆然とレナを見つめていた。
やがてハッと我に返ると、憎しみを込めた目でレナを睨みつけた。
「お前――わたしに何をしたか、わかっているのか……?」
レナは怯むことなくエリックに対峙した。本当は恐ろしくてたまらなかったが、アランを罵られた怒りを抑え切れなかったのだ。
『アランを侮辱しないで。この人は、わたしにとってとても大切な人なの』
エリックにはレナの手話が通じていないようだったが、アランにはしっかりと見えていた。
こんなふうに感情を露わにして怒るレナを見るのは初めてだった。しかも彼女は自分のために怒ってくれているのだ。そのことに驚くと同時に、誇らしさと喜びで体が震える。貶められていた心を温かいものが満たしていくのと同時に、アランの頬も熱を帯びていく。
エリックは額まで怒りに紅く染めて瞠目した。そうしてレナを見つめるアランを忌々しげに睨んだ後で、「くだらん」と小さく吐き捨てると屋敷の方へ引き返して行った。
レナは一瞬の躊躇の後、アランを振り返った。
アランはレナが手話を手繰る前に、全てわかっているとばかりに頷いてみせる。
「俺のことは気にしないで。お嬢さんも、どうか早く行ってください」
少しだけ寂しそうにそう言うと、アランはぺこりと頭を下げて植木の向こうに消えていった。
複雑な気持ちでアランを見送ったレナは、慌ててエリックの後を追いかけた。
エリックの歩みは速く、さっきまで隣に並んで歩いていたのが嘘のようだった。そうして初めて、彼が自分に歩みを合わせてくれていたことに気がついた。
レナは必死で走ってエリックの前に進み出ると、手話の通じないエリックへ謝意を伝えようと勢いよく頭を下げた。
エリックは立ち塞がった形になったレナを見下ろした。そうやって自分に謝る彼女の姿が、なぜか無性に不愉快だった。
「お前がわたしをどう思おうと、わたしはただ決められた婚約を遂行する――それだけに過ぎない」
なんの感情も含まれていない声音でそう言い捨てると、エリックは足早に屋敷の方へ戻っていった。
婚約は解消しないと言っているのに、その言葉から滲むのは激しい拒絶だった。
一人取り残されたレナはもうエリックの後を追おうとはしなかった。
呆然とエリックの後姿を見つめながら――何かに耐えるように小さく唇を噛んだ。




