番外編3-2
――最近アランの足が遠くなった。
レナがそう気が付いたのは、窓から差す初夏の日差しが鋭さを増してきた頃のことだった。
庭園の緑は色濃く、豊かな葉の茂る枝の上で羽根を休める小鳥たちのさえずりが穏やかな歌を奏でている。
レナは何かに惹かれるようにして、窓辺に置かれた椅子に腰を下ろした。
窓の外、屋敷から少し離れた場所には常緑樹の低木が揃って丸みを帯びた形に整えられて並んでいる。その向こうに小さく見える畑で、小さな体が草花に埋もれるようにしてもくもくと作業を続けていた。
以前アランが部屋を訪ねてきたときに話していた。植物を育てるということを学ぶために、バーグから自分専用の小さな畑をもらったのだと。そこで何でも好きなものを育ててみろと言われたと、少し困った顔で、だけど嬉しそうに報告してくれた。
その畑が、この部屋の窓から見えることを知ったのは少し前だった。それ以来、こうしてアランの仕事ぶりを密かに眺めることが、いつの間にかレナの日課になっていた。
アランは器用で仕事の覚えも早いとバーグが感心していたとオリビアから聞いていた。
オリビアはアランを心配するレナを安心させるために話したのだが、実際の所、レナにとっては逆効果だった。
もちろん、アランがこの屋敷で居場所を見つけてくれたことは素直に嬉しい。しかしそのおかげでアランの中で自分の存在が薄らいでしまったように感じて、なんとも複雑な気分になるのだった。
今ではもう、情緒不安定でわがままなお嬢さんの相手をするよりも、静かに畑の世話をしている方がはるかに楽しいということに気が付いてしまったのかもしれない。
(わたしにはそのことを寂しいと思う資格もない。だってわたしはあの時アランを傷つけてしまった。文字を読むのが遅いとわたしが非難したと思っているのだから……。そんなこと、少しも思っていなかったのに)
――ただ褒めてやりたかっただけなのに。
レナは大きく息を吐き出した。一人きりの部屋の中でそれは大きな音となって響く。
上手く誤解を払拭できないのも、アランが自分を遠ざけるのも全てわたし自身のせいだ。そう思うと、水気を含んだ布団のように体が重く感じて、どうしても明るい外へ出る気持ちにはなれなかった。
暗い思考から気を逸らせようと息継ぎをするみたいに窓の外にいるアランの姿を探す。
しかし残念ながら、その姿はいつの間にか消えてなくなっていた。
さっきまでは確かにあの茂みの影にいたはずなのに。後で食べようと残しておいたスープをあっさり下げられてしまったような、ささやかな喪失感を覚える。
アランにはいつもどこかそういう雰囲気があった。当たり前に傍に在るのに、そう思わせておきながら、いつのまにかさらりと姿を消している。
その生い立ちゆえ、生に執着していないからかもしれない。
毎日楽しいですよと笑うわりに、ふと眺めた顔が恐ろしいほど虚ろなときがある。『楽しい』と言いながらその言葉の意味がわかっていない、そんな儚さや危うさを感じるのだ。
畑にはアランが使っていた道具たちだけが、虚しく転がっている。
さっきまでそこにあった主人の姿だけが、まるで景色から切り取られたように消えてしまっていた。
* * * * *
レモンバーベナの艶やかな葉が、爽やかな芳香を漂わせている。
自分用に与えられた畑で活き活きと茂るハーブたちに囲まれながら、アランは丁寧な手つきで剪定ばさみを動かしていた。
ぱちりという小さな音をたてて重なり合った細長い葉を間引くたび、レモンに似た香りが空気にはじける。生育の悪い葉を取り去り、その下にある健康な若葉によく日光を当ててやる。こうすれば、一層葉が広がって大きく元気に育っていくのだ。
アランは自分が思っていた以上に庭師の仕事が苦ではないことに驚いていた。それどころか、むしろ好きだと思えるほどだった。
貧困街に居た頃には花を愛でようなど考えたこともなかったが、こうしてひとつひとつの種を蒔き、肥料を与え、根気強く世話をしてやり、そうして見事に花が咲いたときなどは感動すら覚えた。奪うことしかしてこなかったこの手が、綺麗な何かを生み出すことが出来るなんて思いもしなかったことだった。
親方であるバーグは口が重い男で、作業中に余分な話をすることはほとんどなかったが、アランにとっては無遠慮に過去を探られるよりははるかに居心地が良かった。
一人静かに土をいじっていると不思議に心が安らいだ。楽な仕事ばかりではなかったが、人を欺き、傷つけ、奪う仕事しかしてこなかったアランにとっては、どんな重労働も新鮮で楽しいと思えた。
この一つ一つの仕事が、綺麗な花を生み出すことに繋がっている。そうして咲いた花たちは、大好きなお嬢さんの心をきっと癒してくれるだろう。
結局の所、今の自分にできるのは、そうやって地道に花を咲かせて間接的にレナを喜ばせることくらいなのだ。
この小さな手でできることといったら、レナの大好きな花たちを一つでも多く花開かせ、より美しく咲かせる手助けをすることくらいだ。
レナには婚約者が居るのだという。
いずれどこかの金持ちの男の元へ嫁いでいくことが決まっているのだ。
そのことを初めてレナから聞かされたとき、アランはみっともなく激昂してしまった。悔しくて、頭に来て、幼稚っぽく声を荒げてレナを責めてしまった。
(あの頃はまだお嬢さんは口がきけて……顔だって、ちゃんと笑ってた……)
レナは優しく諭すようにアランに弁明した。
「……もう、ずっと昔から決まっていたことなの。わたしの家には、資産はあるけれど地位がない。相手の方の家には、地位はあるけれど財力はない。双方の家の利害が一致しているのよ」
アランにはレナの説明が少しも理解できなかった。納得できないと首を振るアランの頭を、レナはそっと撫でてやった。
「後生だから聞き分けてちょうだい。あなたにはまだわからないかもしれないけれど、結婚ってそういうものなのよ。家と家を結びつけるためのもので、本人たちの気持ちなんて後付なの。女として生まれた以上、家の架け橋として役に立つことは生まれたときからの使命であり、運命のようなものなのよ」
「――運命なんて、くそくらえだ」
「アラン……」
「運命なんてかっこつけていたって、そんなの、ようするに態の良い諦めだ。それが運命だから仕方ないって、そう自分に言い聞かせてるみたいに俺には聞こえるね」
「――そうかもしれない。あなたの言うように、もうとっくの昔に、わたしはわたしの生を諦めてしまっているのかもしれないわね」
そう言って寂しそうに微笑んだレナの顔が蘇り、アランは当時の自分の幼稚な振る舞いを一人恥じた。
今思えば、なんて失礼なことを言ってしまったのだろう。いくら知らされた事実にショックを受けていたとはいえ、主人に向かってずいぶんな物言いだ。
それでも、あの頃のレナはアランを叱ることも軽蔑することもせず、無知で無礼なアランにも優しく微笑みを向けてくれた。
(あの頃から、お嬢さんは自分らしく生きることを諦めていたんだろうか――)
だとしたら、あの悲惨な事件に際し、言葉を失ってしまった今、どんな気持ちで部屋にこもっているのだろうか。
それを思うと、アランはすぐにでも駆け寄って行って冷たい手を取り、傍についていてやりたい気持ちになるのだった。
(だけど……俺のこの手じゃ、駄目なんだ――)
古びた鉄の剪定ばさみを握る自分の掌に目を落とす。
小さな手だ。幼い子供の手そのものだ。例えそこらに居る大人よりも壮絶な生を歩んできたのだとしても、それでもこの手は、貧しくてちっぽけな子供の手に過ぎなかった。
(こんな手じゃ、お嬢さんに触れることだって出来やしない。お嬢さんの手を取って、どこか遠い所に連れ出してやることなんて、到底無理な話なんだ……)
運命なんて大嫌いだ。
生まれたときから未来が決まっているのなら、今どんなに努力しても全て無駄じゃないか。無駄だと解っているのに、どうしてわざわざ努力なんてしなくちゃいけないんだろう。
――そう考えると、息をするのが辛くなる。
何のために今を生きればいいのかわからなくなってしまう。
(だから俺は――運命なんて大嫌いだ)
決められた未来になんて、目を向けたくない。
そこにきっと、自分の望む幸せなんか在るはずがないのだから――。
アランはそっと背後を振り返り、レナの部屋の窓を見上げた。
白いレースのカーテンが掛かっていて中は見えないが、きっと今も、レナは一人きりでそこにいるのだろう。
畑の場所はどこが良いかとバーグに聞かれたとき、アランは迷いなくこの場所を選んだ。何度か庭園で作業をしているうちに、この一角からちょうどレナの部屋の窓が見えることに気が付いたのだ。
あの日拒まれて以来、なんとなくレナの部屋に通いづらくなってしまったアランだったが、日に何度も畑の様子を見に行くと言ってはこうしてレナの部屋を眺めていた。
会いたいのに――そこにいることは分かっているのに、決して手が届かない。
自分には、いつも見つめていることしか叶わない。
(それでも良い。今の俺には、直接お嬢さんに触れることも、喜ばせることも出来ないかもしれないけど、それでも良いんだ……)
今はただ、自分にできることをするしかない。それしか、自分がレナの傍に居続ける方法は他にないのだ。
例えそれが、どんなに遠回りだったとしても――。
(ずっとお嬢さんの笑顔を見守ることが出来るのなら、それで構わないんだ……)




