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番外編3-1

 レナとアランは姉弟のように寄り添って過ごした。


 慣れない生活を送ることになったアランにとってレナは唯一のよすがであり、レナもまた屋敷の中で唯一自分を必要としてくれるアランという存在がなくてはならないものになっていた。


 レナはアランに読み書きを教え、本の中にある多くの知識を授けた。アランは外の世界で見聞きしたことを面白おかしく話して聞かせ、レナに笑顔をもたらした。


 しかし、二人の穏やかな時間はあまりにも短かった。


 以前からレナにしつこく付きまとっていた父親の妾が事故死したのだ。


 以来、レナはまったく笑わなくなってしまった。

 それどころか、言葉まで失い、人形のように部屋に閉じこもる生活を送っていた。


 アランは死んだ妾を恨んだ。

 何があったのかはわからないが、お嬢さんがこんな風になってしまったのは全部あの女のせいだ。


 女が溺死したとき、傍にいたのはレナ一人だった。アランが池の畔に座り込んでいるレナを見つけて駆け寄ったときには、女は手遅れの状態で水面に浮かんでいた。


 父親をはじめ屋敷の人間たちは皆レナに何があったのかと詰問した。妾とレナの不仲を知る家人たちの中には、不穏な噂を口にする者まで現れた。

 結果、すべての答えを拒むかのようにレナは声を出すことを放棄したのだ。


 そんな風に考えていたアランは、他の人間と違って、唯一レナに何一つ尋ねなかった。早く言葉を取り戻すようにと責めることもしなかった。

 引きこもりがちになるレナを庭園に誘い、レナが嫌がるときには室内で一緒に過ごした。レナがどんなに邪険にしようとも、アランは決してめげることなくレナの傍に在り続けた。


 レナは態度ではアランを追い払いながら、その実普段は従順なアランが自分の命令に背いてまで隣に居てくれることに感謝していた。

 レナは一人きりになるのが恐ろしかった。夜などは、布団に入って目を閉じた途端、あの女の恨みがましい姿がすぐそこに見える気がして、震えながら夜を明かした。

 鬱々とする毎日の中でもアランが傍にいる間だけはあの女の亡霊に悩まされずにすんだ。


 情緒不安定だったレナは感情の赴くままに、アランを時に溺愛し、あるいは残酷に突き放した。

 アランは気まぐれなレナの態度にむことなく根気強くレナの傍に控え、幼稚な八つ当たりの末に無視されても辛抱強く返事を待ち続けた。


「お嬢さん、お茶をお持ちしました」


 この日もアランは、飽きることなくレナの部屋に通ってきていた。

 最初の頃には「お嬢様の私室に使用人が入るなどあってはならないことです」ときつく叱っていたオリビアも、今ではもう何も言わない。殻に閉じこもるレナの心に踏み込める唯一の存在がアランなのだと悟ったからだ。オリビアの許可を取ってからの訪問であれば、頭ごなしに咎めることはしなかった。


 とはいえ、アランも日中は仕事があるので一日中レナの傍にくっついているわけにもいかない。

 手が空いた時間や、気を利かせたバーグがレナの部屋に活ける花を代えるように言いつけた時などに、喜び勇んでレナのもとを訪れるのだった。


 ドアの外でアランの明るい声とティーワゴンに載せられた茶器が立てる軽やかな音が聞こえ、寝台に臥せっていたレナはのそのそと立ち上がった。

 不眠が続いているせいで今朝からひどい頭痛に襲われていた。本当は立ち歩くのも億劫なほどだったが、ドアの向こうで待っているであろう少年の期待に満ちた瞳を思い浮かべると、このまま無視しているのも妙な罪悪感で後味が悪い気がした。


 緩慢な仕草で細くドアを開けると、まるで何年も待ちわびていたかのように少年の顔がぱあっと輝いた。


「お嬢さん……!」


 ドアが開かれたことに無邪気に喜びを露わにしたアランだったが、覗いた顔色の悪さを目にした途端、表情をこわばらせた。


「大丈夫ですか? どこか具合でも悪いんですか!?」


 まだ声変わりを済ませていないアランの高い声が、レナの鈍重な頭を鋭く刺し貫く。思わず眉をしかめると、アランは慌てて声を落とした。


「あ――申し訳ございません。つい大きな声を出してしまいました……」


 レナは苦痛に耐えるため額に添えた手の下から、素直に謝る少年を見下ろした。

 猫っ毛の黒髪はお世辞にもきれいに整えられているとは言いがたいが、わざわざ着替えてきたのか作業着と脚絆を脱ぎ、洗い立ての白いシャツに身を包んでいる。

 どうせまた仕事に戻るのだから着替えてくる必要などないのに。そう思いながらも、アランの気遣いに胸が温かくなる。屋敷へ来て間もない頃は泥の付いたシャツのままで会いに来て、何度もオリビアに注意されていたというのに。わずかな間に、だいぶここでの生活に馴染んでくれたようで嬉しかった。


 レナは具合など悪くないとアピールするようにわざとらしく背筋を伸ばして見せた。心配そうに様子を窺っているアランを『大丈夫よ』と目で制す。


 ふと、アランの背後から漂ってくる甘みを帯びたツンとした香りに惹かれて、ティーワゴンを覗き込んでみる。ワゴンの上には、レナのお気に入りのティーセットが乗せられ、湯を注いだポットからは薄く湯気が昇っていた。どうやら、香りの正体はこれらしい。


 レナの視線に気が付いて、アランがなぜか恥ずかしそうに頬を染めながらワゴンを前に押し出した。


「ハーブティーを入れてみたんです。良かったら飲みま……召し上がりませんか?」


 レナが「あなたが淹れたの?」と目で問うと、アランは堕ちつかない様子で頷いた。


「最近、ハーブの勉強を始めたんです。オリビアさんがいつもお嬢様用の紅茶にハーブを入れていたので、お好きなのかなって思ったから。オリビアさんに頼んで今日は俺が淹れさせてもらったので、お口に合うかはわからないんですけど……」


 話している傍から、どこか清涼感のある華やかな香りが空間を満たす。良い香りを誘い込むようにして、レナはドアを開くと部屋にアランを招き入れた。


『この香りはラベンダーとペパーミント、あとはカモミールがブレンドしてあるわね』


 早速紙にペンを走らせてアランに手渡すと、受け取ったアランが短くはない時間をかけて文字を追う。


 眉を寄せ難しい顔で紙面と睨みあっていたが、ついに降参したとばかりに顔を上げた。

 髪の向こうからのぞいた瞳は、申し訳なさそうにしゅんとしている。


「すみません、お嬢さん。これと……ここの意味がわからなくって。これ、ハーブの種類を聞いていらっしゃるんですよね?」


 頷きながらレナは植物の図版が載っている本を書架から取り出し、一つ一つアランに示してやる。


「――ああ、そうです、ラベンダーとミントと……カモミール! さすがお嬢さん。あとは干した林檎の皮が入っているんですよ。一緒に入れるととても香りが良くなるってオリビアさんが」


 アランの注いだハーブティーを満足そうに口に運ぶレナを見て、アランはほっと胸を撫で下ろす。しばらくそうしてお茶を飲むレナを眺めていたが、ズボンのポケットにしまっていた先ほどの紙切れを取り出すとばつが悪そうにもう一度紙面に目を落とした。


「すみません。俺がもう少しまともに読み書きが出来たら、もっとたくさん話が出来たのに」


『あなたのせいではないわ』という意志を込めてレナは左右に首を振る。本意が伝わっているのかいないのか、アランは曖昧な笑みをその顔に乗せた。


 なんとなく気まずい雰囲気が部屋を満たし、それからはぎこちない沈黙が続いた。


 元より、いつもアランといるときには始終しゃべっているというわけではなく、どちらかといえばただ黙って同じ空間を共有しているということが多かった。アランにとってのレナは言うべくもなく、レナにとってもアランは既に傍にいることが当たり前の存在であり、押し黙って背後に座っていても別段邪魔に思うこともなかった。


 だからこううして沈黙すること自体は決して珍しいことではない。それなのに、なんとなくいつもと違う不自然さが二人の胸を占めていた。


 レナは空になったカップを置くと、すかさず紅茶を注ぎ足しに来たアランを盗み見た。

 アランの読み書きは、オリビアとレナが教えていた。表向きにはオリビアが空いた時間に教えてやっていることになっていたが、実際はレナが教える方が圧倒的に多かった。アランが読んで欲しいと本を持ってくるのはたいていレナのところだったし、読めるようになったので聞いてほしいと持ってくるのもレナのところだった。


 レナもまた、そうやって弟のように自分に懐くアランを憎からず思っていたので、出来る限りアランの要望に応じてやった。


 だからアランの読み書きの習得が、特段他人(ひと)よりも遅いなどと思ったことは一度もない。

 むしろ、まっさらな状態から習い始めたにしてはずいぶん早い方だとオリビアと感心していたほどだ。なぜかオリビアは若干呆れ気味だったけれど。


『あなたは頑張っていると思うわ』


 そう紙に書いて伝えてやろうと机の上に置いた羽ペンに手を掛けて、レナは躊躇った。


(ここでまた読めなかったりしたら、かえってプライドを傷つけてしまうのではないかしら)


 そんな不安が頭をもたげ、結局レナはペンに触れたままの姿勢で静止してしまった。


「……お嬢さん?」


 背後から様子を見に来たアランが、何事か察した様子で小さく息を吸い込んだ。


「お嬢さん、何か伝えたいことがあるんですね? なんですか? ハーブティー、やっぱりお口に合わなかったとかですか?」


 言ってしまってから、アランはすこし皮肉めいていただろうかと密かに後悔した。さっきあれほどおいしそうに紅茶を飲み干していたのだ。今更不味いなどとレナが言うわけがなかった。


 なんと言ってフォローしようかと脳内で必死に言葉を探すアランに、レナはただ哀しげな瞳を向けた。紙に書かなくてもわかる。『そんなこと思っていない』という非難に満ちた目が、悲しくアランを睨んでいた。


 その潤んだ瞳を見た途端、アランは激しく後悔した。いくら思うように文字が読めず体裁が悪かったとはいえ自虐が過ぎた。大切なお嬢さんを傷付けるつもりなどさらさらなかったというのに。


「も、申し訳ありません……っ。俺はただ……ただ……」


 自分が情けなかっただけなんです。そう言いたいのに、一層情けなくなる気がして口に出せない。お嬢さんの前で弱音を吐くなんて余計に惨めになるだけだ。


 そのまま口を噤んでしまったアランを、レナは恨めしそうに見た。

 イライラする。何もかもうまくいかない。それもこれも、全て自分のせいだ。私があの時、あの女を――


(殺したから)


 思い出だしたように頭痛が蘇り、レナは小さく息を詰まらせて床にしゃがみこんだ。


「お嬢さん!?」


 アランがうろたえた様子でレナの顔を覗きこむ。


 レナはその日に焼けた顔を、片手でぐいと押し退けた。

 今の醜い顔を見られたくない。アランはいつも自分に憧憬と尊敬の混じった目を向けてくれた。自分を見上げるきらきらとした子供のように純粋な瞳。

 どんなときも変わらず素直な好意を伝えてくれるその瞳に罪人の醜い自分を映さないでほしかった。


 レナに邪険にされたアランは、ショックのあまり失意のまま硬直していた。

 確かに無遠慮に顔を寄せた自分の行為は、女性に対する態度としては決して褒められたものではなかった。無作法でデリカシーがないと嫌われてしまったかもしれない。


「お嬢さ――……」


 慌てて弁解しようとしたアランを見上げる、レナの拒絶に満ちた瞳。


 来ないで。

 それ以上近付かないで。

 今すぐここから出て行って――。


 頭に浮かぶどの言葉も全て正しい気がして、アランはそれ以上何も言えなくなってしまった。


(今言葉を重ねても、きっと尚更嫌われるだけだ――)


 一礼してから逃げ出すように部屋を飛び出したアランの背中を見送って、レナは一層暗い気持ちで膝に顔をうずめた。


(ああ、何もかもうまくいかない――。全部あの女のせい。あの女を殺してしまった私のせい――)


「人殺し」


 誰かの声が聞こえた気がして、レナの体が痙攣のように引きつる。


 胸を冒す吐き気に、抗え切れずに嘔吐した。

 いくら吐こうともこの胸の底に汚らしく沈んだ澱までは吐き出すことが出来ない――。そう思うと、辛いと流す涙さえも上澄みのように濁っている気がして、レナはもう一度嘔吐した。


「お嬢様――!?」


 開いたままだったドアの外で、オリビアの悲鳴じみた声が名を呼んだ。

 見れば、後ろにアランも立っている。きっと心配してオリビアを呼んできてくれたのだろう。


 床に広がる吐瀉物を見やり、レナは羞恥に頬を染める。嫌だ。今だけは絶対に来ないで欲しい。


 涙目のレナと汚れた床を見てすぐに察したオリビアが、アランだけを廊下に残してあっという間に扉を閉めた。


「あなたは仕事に戻りなさい、アラン」


 閉め出しを食らったアランはドアの内側から投げられたオリビアの冷たい物言いに戸惑う。


「だけど、俺もお嬢さんが心配で――」


「早く戻りなさい! お嬢様も、あなたがいたのではゆっくり休めません!!」


 ぴしゃりと叱責され、アランは何も言えなくなってしまう。


 閉ざされた扉の向こうで、オリビアが「大丈夫ですか」とか「どうして」とか、なにやら話している声がする。そこにぐすぐすと鼻をすする音が混じり、アランは気が気ではなくなってしまった。


(お嬢さん、泣いているんですか――?)


 慰めてやりたいと思うのに、自分は近付くことさえ許されない。


 木製のドアが鋼鉄の厚壁に思えて、忌々しげに睨み付ける。

 あの事件以来心に傷を負ったお嬢さんを少しでも癒してさしあげたい――こんなにも強く願っているのに、どうして叶わないのだろう。


 アランはドアに押し付けていた自分の小さな掌を見つめた。


(なんてちっぽけな手だろう。こんな卑しい子供の手じゃ、お嬢さんの手を取ることさえ許されない。その手を引いて明るい場所に連れ出してさしあげようなんて、身の程知らずな願いだったんだ――)


 決して開かれることのないドアを一瞥して、アランは静かに身を翻した。



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