番外編2-4
「このお屋敷で働くことになった以上、あなたにもここにふさわしい人間になっていただきます」
アランの教育係を任されたオリビアは鼻息荒くふんぞり返って、みすぼらしい格好の子供を見下ろした。
園丁見習いとして雇うことが決まるまでの間、アランはオリビアの元に身を置いていた。
その間、使用人の部屋に来てはいけないという忠告も無視して、レナは毎日アランの様子を見にやって来た。少し前に異母兄弟が生まれたとはいえ、ずっと一人っ子だったレナにとって、アランは弟のようなものだった。
アランもまた、かいがいしく世話を焼くレナをうっとおしいと追い払うこともなく、素直に言うことを聞いていたので、なおさらレナはアランのおせっかいに夢中になったのだった。
そんな二人にはじめは困惑しかしていなかったオリビアだったが、アランの世話を焼いているレナのいきいきとした表情を見て、あまり強く注意することも出来なくなってしまった。
とはいえ使用人の子供と主人の一人娘が仲良くするなど到底褒められたことではない。
立場上放って置くことも出来ずレナの父親に報告を上げたオリビアだったが、返って来たのは娘の将来を心配する言葉ではなく、「好きにさせておけ」という非情なものだった。
以来、オリビアはアランと過ごそうとするレナを諫めようとはしなかった。
赤ん坊の頃よりずっとレナの傍近くで仕えてきたオリビアだ。傍目にも実父から見放されたように見えるレナが憐れでしかたなく、「旦那様がお許しになったのだから」という口実を得てむしろ堂々とできるとばかりに開き直ったほどだった。
そうはいっても大切なウォルバート家のご息女の傍に置くのだから、この粗野な子供をなんとかして「それなり」に教育し直さなければ。
見下ろした子供のあまりの野暮ったさに、オリビアはやりがいを感じすぎて身震いするほどだった。
「まずはその身なり、それから言葉遣いです! 二日に一度は風呂に入って体を清潔に保つこと! もちろん髪もきちんと洗う! 着る物はこちらで用意いたしますから、着崩したりして旦那様やお嬢様に不快を与えることなど絶対にありませんよう!」
「……レナは、清潔な方が好きなのか?」
「当然ですとも! お嬢様に限らず、髪が乱れていたり、だらしなくシャツがズボンからはみ出していたり、破けたズボンを履いていたりする男性が好きな人間など、この屋敷にはおりません!」
アランは慌ててはねた髪を押さえ、シャツをズボンに突っ込み、ズボンの破れた箇所を足を組んで隠した。
「それからその言葉遣い! お嬢様のことは名前で呼んだりせず、『お嬢様』とお呼びなさい!」
「……なんで?」
「女性の名前を名指しするなど、無礼なことだからです!」
「……そうなのか」
感心したように呟くアランを見て、オリビアは呆れを通り越して驚いてしまう。どうやら本当に何も知らないらしい。貧困街にいたとはいえ、ここまで素直な無知も珍しい。
「口の利き方も改めなければ。これは一朝一夕にはいかないとは思いますが、最低限敬語で話すようになさい。字が読めなくとも、敬語はわかるでしょう?」
「……レナは――おじょうさまはその方が好きなのか?」
「当然です! それでなくても、お嬢様とあなたでは五つも年が違うのです。目上の人間に馴れ馴れしい言葉遣いで話しかけるなど、とても無礼なことなのですよ」
「……わかった」
オリビアの眼鏡が、鋭く光る。
「! わ、わかりました……っ」
オリビアは満足そうに頷いた。
「よろしい。まあ、最初はこんなところでしょうか。一度に話しても理解できないでしょうし」
それからオリビアは使用人宿舎の中を簡単に案内した。
雇用が決まった以上、アランは使用人の一人としてこの宿舎で寝起きすることになる。宿舎には個室などは無く、炊事場も洗面所も共有の簡素な作りだったが、アランには十分すぎるほどの設備だった。
オリビアは広い寝室の中にずらりと並ぶ使用人たちのベッドの中からアランのベッドを教え、用意したシーツや着替えを手渡すと、改めてアランに向き直った。
「あなたはもう、ウォルバート家の――この屋敷で働く使用人の一人です。少しずつ、ここでの生活に慣れていくのですよ」
アランは腕の中の着替えを握り締め、ゆっくりと頷いた。
いつ親方が報復にやってくるかわからない。不安が全て無くなったわけではない。
だが少なくとも今は、自分には新しい清潔な寝床が用意され、今までとは違う生活が与えられた。そのことがアランにはまだ夢のようで、慣れない布団の中でどこかこそばゆい気持ちのまま、その夜は床に就いたのだった。
温かい布団の中で目を閉じたアランは、明日改めてレナに礼を言おうと心に決めた。
彼女は間違いなく、自分を救ってくれた救世主だ。彼女がいなかったら――あそこで自分を助けてくれなかったら、今自分はこの世にいなかったかもしれない。
アランはもう一度、あの日自分を守ってくれていたレナの勇ましい横顔と温かい腕の熱を思い出した。
どんなに恐ろしい不安があろうとも、ここにいる限りまた彼女に会えるのだ。
明日が来ることがこんなにも楽しみだと思う生活は、生まれて初めてのことだった。
* * * * *
翌日、風呂に入り髪を整えて、支給された真新しい白いシャツに身を包んだアランは、見違えるほどこざっぱりとして見えた。
泥臭く思えた日に焼けた肌も、こうして見れば健康的にさえ映る。
感心したレナに素直に賛辞を向けられると、褒められることに慣れていないアランはあまりの気恥ずかしさにもじもじと身を捩った。
「あ……この服、昨日オリビアから――じゃなくて、オリビアさんからもらったんです。昨夜は風呂にだって入ったんですよ。俺、一人でも入れるって言ったのに、オリビアさんが無理やり体を洗いに入って来て……。こんなふうに、すごい顔してブラシでごしごし擦るんです。血が出るかと思いましたよ。オリビアさんて、俺のこと芋か何かと勘違いしてるんじゃないかな」
アランが昨夜の出来事を面白おかしく話すので、レナは堪えきれず両手を口に添えて吹き出した。アランを洗うことに悪戦苦闘するオリビアの姿を思い浮かべることがあまりにも容易で、笑わずにはいられなかった。
「お嬢様も、そんなふうに笑うんですね」
初めて目にするレナの無邪気な表情に、アランが思わず感嘆の声を漏らと、レナは驚いた顔でアランを見た。
「え? お、俺、何かおかしなこと言ってしまいましたか?」
「そうじゃなくて……その呼び方……」
「? 『お嬢様』……?」
その言葉に、レナは『それだ』とばかりに眉をしかめた。
「『お嬢様』って……呼ばれるのが嫌なんですか?」
頷くレナを見て、アランは困ったように頭を掻いた。
「だけど、オリビアさんは、お嬢様はそう呼ばれた方が嬉しいって……」
頬を膨らせたレナが「嫌々」とばかりに首を振るので、アランはさらに困ってしまう。
今朝も起きて早々オリビアに言葉遣いについて執拗に注意を受けたばかりだった。
それによると、自分がオリビアに敬語を使わないでいることは彼女を見下しているような印象を与えるばかりでなく、アランのような身分の低い人間に馴れ馴れしい口の利き方をされていることで、レナまで周囲から低俗で常識がないという目で見られてしまうというのだ。
アランは少し考えた後で、申し訳なさそうにレナを見た。
「その……さすがにもう、名前で呼ぶことは出来ないので、『お嬢さん』と呼んでも良いでしょうか? 当たり前だけど、まだここの連中――ここの屋敷の人たちは、俺のこと怪しい奴だと思っていると思うんです。俺は……俺を雇うように説得してくれたお嬢さんの面目を潰すようなことだけはしたくないんです」
レナは一生懸命なアランの目を見て、仕方ないという顔で頷いた。
「わかった……。あなたがそうしたいのなら『お嬢さん』で構わないわ」
許しを得て安堵したのか、アランの顔にぱあっと明るい笑顔が浮かぶ。
「よかった……! 俺、一生懸命頑張ります! いつかお嬢さんが、俺を雇って良かったって思ってくれるように、まじめに働いて、立派な園丁になりますから!」
レナはまっすぐなアランの表情に目を細めた。
その笑顔が眩しくて、つられたようにアランも目を眇める。
自分が不躾にレナの顔を見つめていたことに気が付くと、アランは赤く染まる頬を隠すようにぱっと顔を背けた。
「あ、あの……! バーグさんから聞いたんですけど、お嬢さんは花がお好きなんですよね。どんな花が好きなんですか?」
恥ずかしさを誤魔化すために浮かんだ質問だったが、大事なことを忘れていた。
「……って言っても、俺、花のことなんて全然知らないんでしたっけ……」
レナは照れた様子で頭を掻くアランを見て笑った。
それから何か思いついたらしく、突然アランの手を取ると誘導するように手を引いた。
大人しく手を引かれながらも、無防備だった所に突然触れたレナの手がひんやりと滑らかで、アランの心臓は大きく脈打つ。
「え? お嬢さん、どこへ行くんですか?」
レナが連れてきたのは、庭の端、池の畔に立つ桜の大樹の前だった。
「――立派な樹ですね…」
植物に詳しくないアランがありきたりな感想をこぼしても、レナは少しも気分を害した様子はなかった。
「桜というのよ。亡くなったお母様が植えたの。わたしはこの樹が咲かせる花がとても好きなの。白や薄桃色の小さな花びらがこんな風にくっついていて、とても可愛らしいの」
言いながらレナは拾った小枝で地面にがりがりと桜の花の絵を描いて見せた。その幾何学的な線の集合を覗き込みながら、アランは首を傾げる。
「可愛らしい……花……ですね?」
「――そうでしょう!!」
嬉々として顔を上げたレナがあまりにも無邪気に喜ぶので、アランはそれ以上描かれた花について尋ねられなくなってしまった。
(桜……白や薄紅色の小さな花を咲かせる樹……)
仕方なくアランは、与えられた少ない情報を脳裏に深く刻み込んだのだった。




