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番外編2-1


 花祭りが終わり、日常が静けさを取り戻すと、レナの気分は一気に現実に引き戻された。


 目障りなあの女――父の愛妾アンナが、毎日レナの元へ自分が手ずから焼いた焼き菓子を運んでくるのだ。

 食事にも午後のお茶の時間にも同席を許さない自分へのあてつけの様で、レナはアンナのこの行為にすっかり辟易していた。


 閉じられたままの自室のドアの向こう側に立っているであろうアンナを睨みつけてから、レナはお決まりのセリフを投げつけた。


「いらないと言っているでしょう。もう二度と持ってこないで!」


「……あの、でも今日はいつもより少しバターを増やしてみたの。きっとおいしいと思うわ」


 ドアの向こう側から返ってきたアンナの声を聞いて、レナの体をカッと怒りが駆け上がる。

 いつもよりおいしいかどうかなんて知るわけが無い。なぜならレナは、彼女の焼き菓子を一度も口にしたことなどないのだから。


「しつこいわよ! さっさと持って帰ってちょうだい!」


 わずかな沈黙の後、いつもと同じ言葉が返ってくる。


「……それなら、ここに置いておくので後で食べてみてね」


 レナはじっとドアを睨んだまま、遠ざかっていくアンナの足音を聞いていた。


(またこんな所に置いて行って、わざとらしいのよ。他の人から見たら、わたしが彼女をいじめているみたいじゃない。わたしが食べないと知りながらそうしているのだから、きっとそれを狙っているのだろうけれど……)


 レナは悔しさに唇を噛んだ。


(アンナの思惑通り、今ではすっかりこの屋敷の中でわたしは悪者扱いよ。最初の頃こそわたしに同情してくれる者もいたけれど、弟が生まれてからはわたしの気持ちを理解してくれる人間なんて誰も居なくなってしまった……)


 あのオリビアでさえ、自分の行為を大人気ないと責めるのだから。


(わたしはまだ、大人じゃないわ……。母様を忘れて代わりにあの女を母だと思うことが大人な振る舞いだというのなら、わたしはずっと子供のままでいい……)


 アンナがレナに焼き菓子を届けるようになったのはいつからだったろう。


 レナが母親の作った焼き菓子を好んで食べていたことをオリビアから聞いて以来、アンナは毎日レナへ焼き菓子を届けに来るのだ。


 屋敷の人間たちは皆、アンナの行為を褒め称えた。料理人に作り方を教えてもらい、毎日厨房を借りて焼き菓子を作る。一日も欠かすことなくレナの元へそれを届け、義理の娘に認めてもらおうと尽くす継母。


 周囲の人間の目には、その姿が健気でいじましく映ったのだろう。アンナが健気に振舞えば振舞うほど、周囲の人間はレナを冷血だの強情だのと非難した。


 そのことを抜きにしても、アンナの献身はレナの神経を逆撫でするだけだった。


(図々しいのよ……。母様の代わりになれるだなんて、本気でそう思っているの? どんなにたくさん焼き菓子を作っても、どれほどおいしく出来たのだとしても、それは母様の作った焼き菓子じゃない。わたしはあの味を忘れたくない……。他の皆が忘れても、わたしだけはずっと覚えているわ……)


 噛んでいた唇が小さく震えだし、堪えきれずに瞳から涙がこぼれ落ちる。


 アンナが大嫌いだ。あの女が自分に歩み寄ろうとすればするほど、本当の母親はもう居ないのだと思い知らされる。

 ――自分は孤独なのだという現実を、突きつけられる。


(もうこの屋敷にわたしの居場所なんてない……。母様……わたしも早く母様の元へ行きたい。わたしを必要だと言ってくれた母様のところへ――)


 ぽろぽろとこぼれ落ちる涙を拭いもせず、レナは床にしゃがみこむ。


 母が生きていた頃は、こうして泣いていると必ず慰めてくれた。

 そっと背中を撫で、「わたしはあなたの味方よ」と心に寄り添ってくれた。


 ――だが、そんな人はもう居ない。


 虚しく広い部屋の中で、レナは一人、誰にも聞こえないよう声を殺して泣いた。



     * * * * *



 マイクの死からしばらくして、アランはマイクのいた奉公先に身を置いていた。


 決してアランが望んだことではない。マイクの死後、ソフィアに喧嘩を売りに行ったのだと因縁をつけられて、強制的に放り込まれたのだ。


 当然、親方――ソフィアの父親から受ける待遇は最低なものだった。ろくに食事も与えられず、気まぐれに暴力を振るわれる。


 表向きは造園業を営む業者としてふるまう奉公先は、実の所ただの窃盗団であり、造園を名目に入り込んだ客先で盗みを繰り返す悪辣な組織だった。


 客先で実際に手を汚すのは、いつでもアランたち末端の子供の仕事だ。自分たちは安全な場所にいてそ知らぬ顔で名目どおりの造園業を行う。そうすれば、万が一子供らの悪行が見つかったとしても、自分たちは知らぬ存ぜぬを通せるからだ。それどころか、乞食の子供を拾って世話してやったのに飼い犬に手を噛まれたと――自分もまた被害者だという顔が出来る。


 子供たちは警邏隊につかまっても、留置されたり施設に送られたりすることは無い。親も無く年端も行かない子供たちは、再び親方の元に帰されるのだ。


 アランはそうやって戻ってきた子供たちがもう何人も、大人たちからの非道な折檻を受けて死んでいくのを見てきた。

 死んだ子供は、貧困街に遺体を捨てられるか、川に放り込まれるかのどちらかだ。その作業すら、大人たちはアランたち子供にやらせた。

 まるで『へまをすればお前たちもこうなる』と見せしめにするかのように――。


「……――ラン! おい、アラン!!」


 名前を呼ばれていることに気が付いて、アランははっと我に返った。

 焦点を合わせた視線の先では、自分と同じくらいの年頃の少年が心配そうにこちらを見つめている。


「しっかりしろよ。傷、まだ痛むのか?」


 彼は名をジョンといい、『仕事』において常にアランとペアを組むことになっていた。

 ジョンはひょろりと背が高く、赤みを帯びた髪に大きくて釣りあがった目は路地裏を徘徊する猫を思わせた。実際その俊敏な身のこなしはまさに猫のようで、特にその逃げ足の速さにはアランも何度救われたか知れない。


 そういえば、今は『仕事』の最中だったのだとアランは思い出す。

 今日の獲物はウォルバートとかいうこの辺りでは有名な大富豪らしい。親方たちが外で表向きの仕事をしている間に、自分たちは屋敷に忍び込んで本来の『仕事』をこなすように命じられているのだった。


 ぼうっと自分を見つめ返しているアランの顔を、ジョンは間近で覗きこんだ。

 最近入ったこの新入りは、親方のお気に入りだ――もちろん、悪い意味で。いつも意識がなくなるまで執拗に暴力をふるわれ、一番危険で汚い仕事を押し付けられている。


 最初はこんな奴とペアを組まされたことにうんざりしていたが、いざ仕事となれば、アランは黙々と為すべきことを遂行した。どんなに理不尽な目に遭おうとも、アランは決して愚痴をこぼすことはしなかった。


 昨夜も、賭け事で大負けして帰ってきた大人たちの怒りの捌け口にされていたが、アランは抵抗することもなく、ずた袋のようになるまで殴られていた。


 その傷が、今もまだ生々しくシャツの首元から覗いていた。

 親方たちは、目に見える場所に傷を残すような愚かなことはしない。服で隠れる見えない場所にだけ、残忍な制裁を与えるのだ。


 傷は見えなくとも、小さな体にはダメージが蓄積されている。特にアランは、連日のように暴力を受けているのだ。足を引き摺るおかしな歩き方からも、アランの体への負担の大きさが滲んでいた。


 目的の部屋の前まで来ると、ジョンはもう一度アランに尋ねた。


「本当に大丈夫か? お前が見張りをやっても良いんだぞ?」


「いい……親方に、俺が盗むように言われている……」


 仕事のペアには、役割が決まっている。一人が盗みをし、もう一人が見張りに立つのだ。

 いざとなったら見張りだけでも逃げるように言われている。当然、逃げおおせるだけの有能な子供の方が、見張り役を与えられるのだ。


 いわば、盗み役の方は捨て駒だ。見つかったときに簡単に切り捨てられ、最悪死んでも構わないという、窃盗団の中でも末端の更に下のごみ同然の存在という意味なのだった。



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