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12-3

「――ねえ、エリック。ハンナに頼まれたオイルはこれでいいかしら?」


 レナとエリックは、村から少し離れた所にある小さな町を訪れていた。月に一度開かれる市を見に来るのが、二人のささやかな楽しみの一つだった。


 エリックはレナの手の中にあるアーモンドオイルの入った小瓶を覗き込みながら小首を傾げた。


「オイルなんて――家にあるものでは駄目なのか?」


「これは石鹸を作るのに使うのよ。ナッツ系のものが良いと言っていたから、これにしようかしら……」


 不思議そうな顔のエリックに笑みを返しながら、レナは露天の店主に代金を支払う。


 村で暮らし始めてから、三年の月日が流れた。


 エリックとレナは土地を借りて畑を耕し、山羊と鶏を飼いながらつつましく暮らしている。レナもエリックも、今ではすっかり村の一員だ。


 レナの記憶は相変わらず戻らないが、それでもエリックはこの穏やかな生活が、今までの人生の中で一番幸せな時間だと感じていた。


 大きな屋敷も、豪華な食事も、上等な衣服もない。自分を敬う者もいなければ、命令を聞いてくれる使用人もいない。


 その代わり、自分には愛する人がいる。いつでも隣に居て、安らぎを与えてくれる人がいる。

 何にも変えがたく、何よりも尊い存在。彼女さえいてくれれば他の瑣末なことなどどうにでもなるのだと、この三年間でエリックは何度も思い知った。


 一通りの買い物を終え、エリックとレナは村へ帰る乗合馬車を待っていた。


 春の陽射しはぽかぽかとして心地よく、花の香りを運んでくる風が優しく鼻腔をくすぐる。


 辺りを満たす穏やかな空気に、木陰でなくてもついうとうとしてしまう。レナは気を抜けばあくびが出てしまいそうになるのを必死でこらえていた。エリックの前ではしたない振る舞いをするわけにはいかない。 エリックは決して眉を顰めたりしないが、きっと笑われてしまうだろう。


 ちょうど二人の前を、子供たちが駆け抜けて行く。鬼ごっこでもしているのか、少し遅れて一番体の小さな男の子がべそをかきながら先に行った数人を追いかけていった。


 その光景をほほえましく眺めながら、レナはふと昨日の朝家に届いた不思議な手紙を思い出した。


「それにしても、昨日の手紙はなんだったのかしらね。何も書かれていなくて、ただ子供のボタンが一つだけ入っているなんて」


 宛名も差出人も書かれていないその手紙は、二人の家の扉の隙間にひっそりと差し込まれていたのだ。


「さあな。誰かの悪戯だろう。あまり気にしない方が良い」


 言いながら、エリックはわずかに眉をひそめた。


(あれは――間違いなく、私が子供の頃に着ていたシャツの飾りボタンだ。実の母が作ってくれた特別なものだったから間違いない。だが、どうしてそんなものが今頃ここに届くのだろう?)


 エリックもレナも、生家には連絡を取っていない。一度だけ心配しているであろうオリビアに、レナの無事を知らせる手紙を書こうと思ったこともあったが、結局思い直した。


 自分たちの居場所を知らせてしまえば、今後何かの形でオリビアに害が及ぶとも限らない。

 シルヴェストル家の人間がおそらく見限った自分を探すことなどないだろうが、それでも、どんな思惑を抱く人間がいるかわからない。

 不用意に自分たちの居場所を知らせてしまうのは、必ずしもオリビアのためにならないと思ったのだ。


(そして――レナのためにも)


 エリックは傍らで仄かな眠気と戦っているレナを見下ろした。


 自分もレナも、お互い以外のすべてを失った。特にレナは、その記憶さえもなくしてしまった。

 それでもエリックは今のレナが幸せなのだと信じていた。日常の中で見せるレナの安らいだ表情が、それを顕著に伝えていた。


(失ったものは多いが――二人で作り上げ、得たものもたくさんある)


 乗合馬車に揺られて村に戻ってきた頃には、すっかり日が高くなっていた。


 馬車を降り家路を歩きながら、エリックは本格的に熱を増してきた太陽を見上げた。


 すると、視界に白いものが舞う。


「雪……?」


 不思議そうに青空を見上げるエリックの隣で、レナが小さく首を振った。


「違う――杏の花びらよ」


 風に乗って舞う花びらに導かれるようにして、レナは農道の脇にある杏の木の前に立つ。


 杏の木は、すっかり温かくなった春の空気を祝福するかのように、白い花をその枝いっぱいに咲かせていた。


「おかしいわよね。季節はずれなのに、この木は決まって毎年この時期になると、こうして花をつけるのよ」


 なぜかわからないが、レナは杏の花が――この木の咲かせる花がとても好きだった。小さくて可憐な白い花は、控えめに、だが鮮烈にレナの心に染み込んで、囁かな熱でその内を温めてくれる気がした。


 レナは毎年春になると咲くこの花を、雪深く過酷な村の長い冬を耐えたご褒美のように感じていた。


(忘れてやって来た贈り物のように、この花は毎年私の心を慰めてくれる……)



『悲しいことや辛いことがあっても乗り越えていけるように、お嬢さんが笑顔でいられるように――』



 ふと、誰かの声が聞こえた気がして、レナは辺りを見回した。


 しかし、そばにいるのはエリックただ一人だ。


(気のせいだったのかしら……。なんだかとても懐かしい声だったような気がするのだけど……)


 その時、ふいにぽとりと雫が足元に落ちる。

 雨だろうかと空を仰いでも、爽やかな空は青いばかりだ。


「レナ――どうして泣いているんだ?」


 心配そうにエリックがそう尋ねて、レナは初めてその雫が自分の涙だということを理解した。


 気付けば涙は次々と瞳から溢れ出し、レナの頬を濡らしていた。


(どうしてわたし、涙なんて――)


 そう考えながら、心のどこかではその答えを知っているような気がしていた。


 よくわからないけれど、とても大切なものを失った時のような、空虚な喪失感が胸を満たす。


 それなのに、この舞い落ちる花びらを見ていると、なぜか優しい気持ちになってくるのだ。


 哀しいのに優しい――そんな何かを知っている気がして、郷愁に似た感覚が胸に溢れてくる。


「……不思議ね。わたし、この花を見るとなんだか温かい気持ちになるのよ。とても大切な贈り物を見つけたときのような、嬉しくて優しい、どこか懐かしい気持ちに」


 ――おかしいわよね。そう言って笑うレナの涙を、エリックは指先で拭ってやる。理由もわからず涙するレナの姿に、切ない痛みが胸に差す。

 エリックは宥める風にレナの背中を撫でながら、そっと愛しい人をその胸に抱いた。


「おかしくなんか無いさ。大切なものは、いつでも尊くて懐かしいものだからね……。きみにとってこれが、優しい花びらであるならばいい。凍てつく雪の欠片ではなく――」


 エリックの力強い腕の中で、レナはくすりと微笑んだ。自分の方がおかしなことを言ってしまったと思っていたのに、エリックの方がなんだか様子がおかしいだなんて。


 レナはエリックを励まそうと明るい声を出した。


「ねえ、後で一緒にハンナの所へオイルを届けに行きましょう。少し前から、西の村に嫁いだ娘さんが帰っているのよ。赤ん坊を連れて来ていて、とっても可愛いの。あなた、小さい子供が好きでしょう?」


 そう言ってエリックを見上げたレナは、彼の目元が煌いていることに気が付いた。


「……どうしたの?」


「いや……わたしは幸せだと、そう思っていた」


 レナはエリックの突然の告白に一瞬きょとんとしたが、すぐに朗らかに破顔した。


「――わたしも、とっても幸せよ」


 白い花びらが、微笑み合う二人をからかうように、風に乗って楽しげにひらめく。


 一つ落ちれば、その後を追うようにしてまた一つ。


 小さな白たちは、楽しげにくるくると踊りながら、果てることなく舞い落ちていく。



 

 ――この先もずっと、あなたが笑顔でありますように。




 美しく儚い春の雪は、幸せな二人に寄り添うように、いつまでもいつまでも降り続けた。






  ■END■



これでアランたちの物語は完結です。

たくさんの作品の中からこの作品を選び、そしてここまで読んでいただき本当にありがとうございました。

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