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12-2

 舞い散る雪の中を進んでいたエリックは、ふと違和感に足を止め、顔を上げて空を仰ぎ見た。


「雪が――」


 相変わらずの曇天からは、無数の小さな白が降り注いでくる。

 それが冷気を帯びていないことに気がついて、エリックは疲労で重くなった腕をそっと天へ差し伸べ、その白いものを掌に捕らえた。


「雪が――花びらに変わっていく」


 それはとても不思議な光景だった。


 空から落ちてくる雪たちは、中空で花びらに姿を変えながら、はらはらと踊るように舞い落ちてくる。


 やがて、頑なに光を拒んでいた冬が唐突に終わりを迎える。

 淀んだ雲はたちまち薄らいで、空に懐かしい青が覗き始める。久しぶりに遮るものなく地上を照らし出した太陽は、地表を覆う分厚い雪を、あっという間に溶かしていく。


 エリックは急激に訪れた暑さに耐えかね、着込んでいた上着を脱ぎ捨てた。額に滲む汗を拭えば、霧が晴れた木々の向こうに、崩れかけた塔の姿が見えた。


 体の痛みも、空腹も疲労も忘れ、エリックは塔に向かって駆け出した。

 足元で解けた雪が長靴を濡らしたおかげで重さを増したはずなのに、噓のように足が軽かった。


(あそこに彼女が――レナがいる――!!)


 途中で何度も転びながら、そのたびに起き上がり、無心に駆け続ける。やがて、エリックは塔の最上階へ続く階段にたどり着いた。


(あの園丁も、レナと一緒にいるのだろうか……)


 アランを思うと、エリックは複雑な気持ちになった。彼の犯した罪は到底許すことはできないが、それでも自分がレナにした仕打ちを思えば、アランが憤るのも無理はないと思った。レナが大切であればあるほど、自分を憎く思ったことだろう。なんとしてでも救ってやりたいと、大切であればこそ考えただろう。


 今ならば、その気持ちが理解できる。


(それでも、わたしはレナを失うわけにはいかない。つまらない矜持に捉われず、心のままにレナを愛そうと――彼女を幸せにすると覚悟を決めたのだから――)


 崩れかけた塔の最上階。

 無機質な石床の上に置かれたガラスの棺の中で、レナは静かに横たえられていた。

 仰向けに寝かされ、胸元で両手を組んだ姿はまるで神聖な遺体のようだ。


「レナ――!!」


 ガラスの中で眠るレナを見つけると、エリックは杖をつくことも忘れ、転がるようにして駆け寄った。

 エリックはその存在を確かめるように繰り返しレナの名を呼んだ。名前を呼ばれたことに反応したのか、レナの胸がゆっくりと上下し、長い睫がわずかに震えたかと思うと、静かに瞼が開かれた。


「レナ……!! 良かった!! レナ!!」


 エリックは棺の蓋を外すと、汚れた手袋を外し、そっとレナの頬に触れた。

 温かい熱を指先に感じた途端、エリックの胸に計り知れない安堵が溢れる。再会の喜びに呼吸が震え、うまく言葉を紡ぐことができない。それでも、体は素直に喜びを表現し、気がつけば棺の中から救い出したレナをきつくその腕に抱きしめていた。


「――良かった。お前が無事で良かった。お前を失ったらと思うとわたしは――……」


 エリックはふいに違和感を感じてレナをその身から離した。

 追い求め待ち焦がれていた人は、感動の再会に応えることもなく、腕の中で不思議そうに目を丸くしてエリックの顔を見上げていた。


「レナ――」


「……あの……」


「レナ、お前言葉が――」


「――あなたは、どなたですか?」


「え――」


 エリックは瞠目して息を飲んだ。レナが言葉を話していることにも驚いたが、それよりも彼女が口にした言葉の方が鮮烈に心に突き刺さった。


「な、何を……。ふざけているのか? それとも、もしかしてあの園丁に何か――」


「えんてい? ごめんなさい。わたし、本当に何もわからなくて……」


 まだ意識が混濁しているのだろうと自分を納得させるものの、嫌な予感は不快な影を帯びたまま胸に染み付いて離れない。


「わたしは、エリックだ。エリック・シルヴェストル」


「エリック……?」


「そうだ。お前の――婚約者だ」


「こんやくしゃ……」


 自分の言葉を繰り返すばかりのレナを見て、エリックは確信する。嫌な予感は予感ではないのだと。何らかの事情で、レナは己にまつわる一切の記憶を失っているのだ。


「お前はレナ・ウォルバート。貿易商のウォルバート家の長女で――」


 レナに記憶を取り戻させようと口にしかけた言葉は、次の瞬間エリックの胸に湧き上がった疑問によって消滅する。


 辛い過去によって長く言葉を失っていたレナ。どのような経緯があったかは知らないが、今は言葉を取り戻しているようだ。もしもそれが、過去の記憶を失っている故のことだとしたら? 辛い過去を失ったからこそ、心が癒されているのだとしたら?


 そうだとしたら――自ら望んで過去を封じ込めたのならば、無理やりに辛い記憶を呼び覚まし突きつけることが、本当に彼女にとって正しいことなのだろうか?


 急に黙り込んでしまったエリックを、レナは不思議そうに見上げた。

 その無垢な表情を見下ろしながら、エリックは思案した。こんなふうに、自分に対して何の警戒も抱くことなく向けられる素直な表情は、とても尊いものだった。その表情には、以前にはあった傷を負った痛みの影も、罪の意識も滲んでいない。ただ心に浮かんだ素朴な感情だけがあるその顔は、間違いなく以前より穏やかだと思えた。


「あの……?」


「……いや。すまない。良いんだ。お前が無事で、こうしてまた会うことが叶ったのだから――」


 エリックはそう言うと、すべての言葉や思惑を胸深くしまった。


 なぜレナが記憶を失っているのかはわからないが、もしかしたら一時的なものなのかもしれない。


 自分のことを覚えていないというのなら、また新しく築いていけば良いだけのことだ。

 失ったものを悔やむより、これから先で得ていくものを考えながら生きていくほうがずっと良い。


 今はただ、目の前にいるレナをありのまま受け止めよう。どんな彼女であっても、無事で生きてさえいてくれればそれでいい。

 それこそが何よりも尊いのだから――。


「一緒に帰ろう、レナ。もう一度、このわたしとともにはじめよう。二人で、幸せになるために――」


 まっすぐに差し出された手を、レナは不安そうに見つめた。


「あなたは、わたしの帰る場所を知っているの……?」


『帰る場所』という言葉に、エリックの胸が切なく疼く。

 村を出るとき、ハンナは言ってくれた。またレナと二人で帰って来いと。

 今まで自分の居場所なんてどこにもないと思っていた。子供の頃も、大人になってからも、与えられた椅子はあっても、それは決して自分で選んだ居場所ではなかった。


 だけど今は、帰りたいと思う場所がある。

 一緒に帰りたいと思う人がいる。


 エリックは目頭にこみ上げてくる熱を堪えると、端整な顔をくしゃりと歪めて微笑んだ。


「ああ、知っているとも。わたしと一緒に、帰ってくれるか……?」


 レナは差し出された骨ばった手をたどるようにして、エリックの顔を見上げた。

 不健康そうにやつれた、血色の悪い肌。疲労からか目は落ちくぼみ、お世辞にも優しい顔だとは言えない。

 おまけにそこに浮かべているのはとても不器用な笑顔だった。いかにも笑い慣れていない、ぎこちない笑みだった。


 それでも、なぜかレナはその笑顔が好きだと思った。そこには偽りも虚飾も無く、ただひたむきな愛情だけがあると思った。


 差し出した掌にそっと乗せられたレナの手の重みを、エリックは固く握り返した。


(もう二度と、この手を離すまい。わたしには、愛する彼女だけがすべてなのだから――)



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