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11-3

 アランがウォルバートの屋敷に来て間もない頃、レナは読み書きを教える一環として、よく子供向けの絵本を読ませた。


 なんの苦労も知らない裕福な王子と美しい姫が織りなす幸福な運命の物語は、正直なところ、アランにとってひどく退屈なものだった。

 しかし、吐息が耳たぶにかかるほどの距離でレナが自分の言葉に頷いたり微笑んだりしてくれることが嬉しくて、アランは毎日のように絵本を読んでみせた。


 動機は不純だったが、おかげで読み書きの上達は目覚しく、オリビアも感心するほどだった。


 懐かしい記憶に薄く笑みを浮かべながら、アランは薄暗い塔の最上階に置かれたガラスの棺の前に座っていた。


 花開く時を待つ蕾のように、可憐な眠りの中で、王子様が助けに来るのを待っているお姫様。


 棺の中で眠るレナは、物語に出てくる薄幸の姫君そのものだった。

 立ち込める冷気のせいで白い頬に血の気はなく、微かな寝息が時折空気を白く染めるだけだ。


 それでもその姿には、見る者を惹きつける不思議な魅力があった。儚く溶けてしまう雪粒のようなその美しさに、アランの心はひたすらに魅入られた。


 少しでも彼女の熱を感じたくて指を伸ばすが、透明なガラス板がそれを阻み、爪の先でカツンと硬い音がする。


 触れたいのに触れられない。すぐ傍にあるのに手が届かない。


 思えば、自分とレナの関係はいつもそうだった気がする。


 ガラスの表面に這わせた指の感覚が失われていることに気が付いて、アランは指先に目をやった。


 赤く霜焼けた指は確かにそこに在った。いつかのように消えているわけではなく、寒さゆえに感覚が失われていただけだった。


 そういえば、もう何時間こうしてガラスの中で眠るレナを見つめていただろうかと我に返る。


 世界はいつの間にか夜に変わり、辺りを包む空気は冷気と静謐さを増していた。


(あいつは、まだ来ないのか――)


 もう一度会ったなら、最期に文句くらい言ってやりたかったのに。

 そんな思いは、靴の先に視線を落とした瞬間諦めに変わる。


 かすかな違和感を覚えた足先は、影に溶けるようにして消えていた。


(もう、時間切れみたいだ……)


 冷え切った石床から腰をあげると、アランは後ろを振り返った。


 いつからそうしていたのか、階段を背にして暗闇に立つ魔法使いと目が合う。


「……どこに行く?」


 アランは眉を下げ苦笑した。

 これから消えゆく運命の自分よりも、どうしてこの男の方が不安そうな顔をしているのだろう。


 黙っているアランを見て、答えを拒否したと思ったのか、魔法使いは噛みつくように言葉を投げた。


「僕も連れて行ってくれ! 死でも無でもなんだっていい! きみが消える場所に、僕も連れて行ってくれ!!」


 言葉は依頼形なのに、これほど乱暴な嘆願もないだろう。

 心の中で小さく笑いながら、アランはしかし、首を振ってそれを拒んだ。


「断る」


「――どうして!?」


 悲鳴にも似た声を上げ絶望を露わにする魔法使いに、アランは簡潔に答えた。


「運命が、あんたに生きろと言っている」


「な――んだよ、それ……。なんだよそれ!! 生きろなんて……それが僕にとって、どれほど残酷なことか――」


「――だからだよ。運命が終わりにして良いと言うまで、あんたは生きるんだ……」


「そんな贖いないよ――! きみは一人で楽になって、僕にはずっと不幸な生を続けろって言うのか? たった一人で、この憎しみを抱えたまま!!」


 アランは魔法使いの前に立ち、正面からその瞳を見上げた。自分よりも大きな体をしているくせに、この男ときたら、なんて怯えた目をしているんだろう。


 過去も未来も怖くて仕方がない。それでいて孤独も恐ろしい。

 どうしたら良いのかわからないという怯えきった瞳は、ついこの間まで自分にもあったものだ。


 だから解る――なぜ怖いと思うのか。


 それは、彼がまだ希望を捨てていないからだ。


「――もう良いんだよ。誰もあんたに望んでなんかいない――仇をとってほしいなんてさ。あんたは、世界に報復なんてしなくていいんだ。もう許してやれよ……自分自身を」


「ち、がう……僕が恨んでいるのは理不尽で不公平な運命で……だから、僕からすべてを奪った運命から、今度は僕が奪ってやろうって……」


 ぶつぶつと必死で口にする言葉たちは、どれも皆自分に言い聞かせているように見えた。


「あんたが恨んでいるのは、生き残ってしまった自分自身の運命だ。その運命に大儀を見出して、正当化したいだけなんだ。自分は報復をするために生き残ったんだ、だから生きていても許されるんだって」


「ちがう……」


「だけど本当は許すも許さないもないんだ。生きているから生き続ける。生きていることに意味なんてそれしかないんだよ。そこに大儀も何もないんだ。理由なんて必要ない。あんたは生き残ったんだから、ただ生きていくという運命しかないんだ」


「うるさい!! お前に何がわかる!! 僕の孤独が!! 僕の憎しみが!! お前にわかるわけがない!! 僕からすべてを奪った運命の恩恵を受けて生きてきたお前に、僕の何がわかるっていうんだよ!!」


 魔法使いの怒声を、アランは薄く笑みを浮かべて受け止めた。


「そうだな……俺にはあんたの気持ちなんてわからない。俺だけじゃない。他の誰にだって、あんたの気持ちはわからないよ。だからこそ、あんた自身が、あんたの心を受け止めてやれよ。生きていたいと思うのなら、生きていけばいいんだ。誰に申し訳ないと思う必要もない。与えられた生を全うすることがあんたの運命なんだから」


「そんなこと――そんなこと、できるわけがない。生きるなんて――今更ただ意味もなく生きるだなんて、そんなこと――」


「できるさ。あんたは、自分で自分に魔法をかけてるだけだ。一人だけ生き残ってしまった自分は憎しみを忘れちゃいけない、幸せになっちゃいけないんだって」


「――僕は魔法使いなんかじゃない」


「……知ってるよ」


 アランは肩をすくめてから、ふと試すような視線を向けた。


「だけど――そうだな。俺はあんたに恩がある。さっきも言ったけど、俺は一応あんたに感謝しているんだ。だからあんたが望むなら、その記憶の中から望むものを消してやろう。家族のことでも、忌まわしい戦火のことでも、運命に翻弄された日々のことでも――あんたが望むだけ、その心から消してやる。それであんたがこれから先を生きるのが楽になるというのなら」


 アランの言葉に、魔法使いは瞠目した。自分の運命を呪い、そこにあるのは忌まわしい記憶ばかりだと思っていたのに。

 いざ消してやると言われれば、どれもみな失い難いものなのだと気がついて愕然とする。

何より、どんなに辛い記憶であっても、それを手放せば正真正銘逃れようのない孤独に陥ってしまう気がした。


 そうだ。自分は孤独を恐れている。

 たった一人この世界に残されて、これ以上の孤独なんてもう御免だ。


 そうして孤独を恐れるのは、生きたいと思っているからだ。

 孤独でない生を生きたいと望んでいるからだ。


 幸福な世界を蔑みながら、自分こそが誰よりも幸福を渇望している。

 報復だ理不尽だと騒いでおきながら、自分の真の望みは最初から一つだったのだ。


 ただ、幸せになりたいと――。


 魔法使いは崩れ落ちるように床に膝をつくと、悔しげに顔を伏せた。


「必要ないものなんて、ない……。ぜんぶ……全部、僕には必要なものだ……」


「……そうか」


 アランは床に手をついてうなだれる魔法使いの背中に、そっと手を重ねた。


 叩くでも撫でるでもなく添えられたその掌から、ただ懐かしい温もりを感じて、魔法使いは眼球だけを動かしてアランを見上げた。


 ――そうだ。自分が初めてこの子供を抱えて攫って来た時にも、同じようにその体が温かいことに驚いたものだった。

 鍵だなんて大層な運命を背負っているくせに、なんだ、そこらにいるただの子供と同じじゃないかと。


 かつてのアランは運命の加護を受けているとは思えないほど貧弱な体をしていた。体だけでなく、言葉も満足に話せず、意思の疎通さえままならない、感情表現も出来ない、壊れた人形のような子供だった。


 貧民街に捨てた後にも、こんな脆弱な子供が一人で生き抜けるのかと、つい観察に日参してしまうほどだった。


 案の定、何度も悲惨な目にあったり死にかけたりしながら、それでもどうにか生き抜いてきた。その度に、やはり彼は『特別』なのだと思い知らされた。


 そんな『特別』な存在は、束の間の幸福と深い絶望を幾度も繰り返し、仕向けた通りに運命を恨んだ。


 醜くもがきながら生きるアランを見ながら、自分よりも不幸だと信じて、蔑み、憐れんだ。

 アランを貶めることで、自分が高みに上ったような仮初の優越感に浸っていた。


 そうして今、その矮小だと蔑んだ存在に、自分の方が見下ろされる立場になった。

 見上げてみれば、そんな自分の方が遥かに醜く、憐れだったと思い知る。


 なぜならアランは、こんな絶望の淵にいても、そこへ追いやった張本人である自分にまで慈悲を示せるのだから。

 真に大切な者のために、幸福な生という希望すら手放すことができるのだから。


「……少し休むと良い。あんたもずっと、走り続けてきたんだろう――?」


 自分よりもずっと年下で、世間のことを知らない餓鬼のくせに。生意気な口をきいて偉そうに。

 そう悪態をついてやりたかったのに、思考がどろどろに溶けたみたいに鈍くなって、頭がうまく働かない。

 唇も思うように動かせなくて、出てきたのはぶつけたかった悪態とは全く別の言葉だった。


「噓だ……お前が消えるなんて……そんなの、うそだ……」


 目の前にある顔が、哀しく笑ったような気がした。


 それが、魔法使いが見たアランの最後の姿だった。



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