11-1
夜が明けて塔に姿を現した魔法使いは、大きな体を幼子のように弾ませて窓へ駆け寄った。
はしゃいだ様子で窓から腕を伸ばして雪を掴む。差し伸ばした腕に触れる外気は冷たく、光を覆い隠したままの空も一段と暗い色を深めていた。
「……きれいだなあ。美しいよね、雪って。白くて眩しくて、その清廉な冷たさで、善も悪も関係なく、あらゆるものの命を公平に奪い去っていく」
窓辺に頬杖をつきながらうっとりと雪を眺める魔法使いを見て、レナはくすくすと笑った。
「あなたは、本当に雪が好きなのね」
「雪というか――僕は公平なのが好きなんだ。皆平等じゃないなら、運命は人間を生かす資格が無いよ」
「運命に資格が無いなんて、面白いことを言うのね」
「そうかな? 至極当然のことを言っているつもりだけど?」
魔法使いはアランを横目で見ながら続ける。
「運命は人間を裁くのに、人間が運命を裁けないなんておかしいだろう? だから僕は、運命を裁いてやるんだ。こんな馬鹿げた世界の運命、ぶち壊してしまえば良い。みんなみんな消えてしまえば良い。そうすればやっと、真の意味で公平になる――この雪みたいに」
「――残念ながら、もうすぐこの雪は止む」
きっぱりとそう断言するアランを、魔法使いは訝しげに見た。
「お前は勘違いしている。『鍵』はただ、運命を受け入れて、この世界に施行することしか出来ない。『鍵』には、運命を決めることなんて出来ないんだ」
「それと雪が止むこととどう関係があるの? きみの感情が世界の運命に影響を与えていることは確かじゃないか」
アランは答える代わりにじっと魔法使いを見つめた。
「お前が俺を攫った後、誰か俺を奪い返しに来たか?」
魔法使いは眉間に小さな皺を寄せて首を振った。
「そういえば不思議だったんだ。どうして追っ手がかからなかったのかな?」
「俺はこの通り、運命信仰なんてくそくらえと思っている。こんな、運命を否定している『鍵』なんて、連れ戻した所でもう『鍵』としては役に立たないからさ。それに、どのみちすぐにお役御免だった。運命を統べる『鍵』の役目は、無垢な子供でなければ務まらない。どうせいずれは放り出される運命だったんだ」
「……」
「きっと今頃は、別の『鍵』が運命を統べているだろう」
「そう……なの?」
「さあな。『鍵』の意識はあやふやだから、これはあくまでも俺の推測だ。だけどそれほど見当違いというわけでもないと思う。俺のことだって、今までは自分の力も、その使い方も知らなかったからそれほど害がないとみなされて放置されてきたんだろうけど――」
アランは窓の外に広がる季節はずれの雪景色と、無数の錠に覆われて聳え立つ異様な鋼鉄の鳥籠を見上げた。
「――こうなっては、いつまでも放置しているわけにもいかないだろう」
鳥籠の中に座るレナと、目が合う。レナは不思議そうに小首を傾げてアランを見つめ返した。その何気ない仕草が、健気な小鳥の姿と重なる。愛おしく思うと同時に淡い後悔が胸を締めあげ、アランは感情から目を背けるようにして固く瞼を閉ざした。
「――俺はもうじき、この世から排除される運命だ」
「そんな……それじゃ、この雪はどうなるの……? この世界の、運命は……?」
愕然とする魔法使いに、アランは冷めた視線を向けた。
「さあな。雪は消えるんじゃないか。もともと、不自然なものだし。たとえ残ったとしても、やがて日が出ればすべて溶かしてしまうだろう。残念ながら、お前の望んだ公平は訪れない。運命も――」
アランはそこで言葉を切ると、切なげに目を細めた。
「世界は、運命なんてなくても――鍵なんていなくても、ちゃんとまわっていたじゃないか」
アランはゆっくりと瞬いて、束の間遠い記憶に意識を馳せた。世界に災いや悲しみはあっても、温かく明るい光もまた確かに存在した。苦しくも穏やかだった自分の日常が、そうであったように。
淡々と言葉を紡ぐアランとは対照的に、想定外の事態に動揺しているのか、魔法使いは彼にしては珍しく感情的な声を出した。
「そんな……そんなの……きみが有効期限付きの鍵だったなんて、聞いてないよ! それなら、僕は一体何のためにここまでやって来たんだ!? 何のために鍵を攫って――」
怒りにうち震え、理不尽に自分を責め立てる青年を前にして、しかしアランは大人びた苦笑を滲ませた。
「……そう言うなよ。少なくとも、俺はお前――あんたに感謝してるんだ。あんたが俺を救い出してくれたおかげで、俺はお嬢さんと出会えた。空っぽの鍵として生きるのではなく、一人の人間として、愛情も憎しみも悲しみも、知ることが出来た。楽しいことばかりじゃなかったけど、そんなの、あんただって、他の人間だって皆同じだろ。だから俺は、単純に、あんたには感謝している。たとえあんたの目的が何であったとしても――俺にとってそれは救いだった」
魔法使いは込み上げる苛立ちに強く唇を噛んだ。アランの落ち着き払った口調がかえって神経を逆撫でする。なおも食って掛かろうと口を開けたが、目の前にあるアランの表情を見た途端、吐くべき言葉を見失う。
今、自分の目の前にいる十五歳の少年は、長い年月観察してきた中で初めて見る、心の底から安らいだ表情でそこに立っていた。
凪いだ湖のように深く静かなその顔には、理不尽に狂わされた運命への恨みも怒りも無かった。かといって無表情というわけでもなく、和らいだその表情からは、彼が自分の運命すべてを受け入れ切っていることが窺えた。
その覚悟が魔法使いはなぜか恐ろしいと思った。
「なんでそんなに落ち着いているんだよ……?」
「なぜだろう。だけど……なんだか無性に、ほっとしているんだ。自分でも、よくわからないんだけど」
そう言って微笑むアランは、寂しげではあっても決して憐れではなかった。
達観しきって悟りの境地に達したのか、それともすべてを諦めきった故なのか。
どちらにせよ、絶対に自分にはできないその表情を目の当たりにして、魔法使いは初めてこの少年に対して悔しいという感情を覚えた。
「彼女は――きみの大事なお嬢さんはどうするの? こんな寂しい場所に、たった一人置いていくって言うのか?」
魔法使いが揺動のために投げた言葉にも、アランは穏やかな表情のまま、ゆっくりと首を振った。
「俺はお嬢さんの傍にいるべきじゃない。俺では、お嬢さんを不幸にするばかりだから――」
「そんなの今更じゃないか! 散々貶めておいて、いざとなったら放り出していくの!? 彼女を苦しめた贖いもしないで!!」
辛辣な言葉をぶつけられても、アランは小さく笑うだけだ。
「そうだな。今更だよな。だからせめてもの償いとして――お嬢さんから、俺の記憶を消そうと思う」
「なん、だって……?」
瞠目する魔法使いには構わずに、アランは言葉を続けた。
「俺が消えれば、お嬢さんに効いている毒の力も消滅するはずだ。だけど記憶が戻れば、お嬢さんはきっと自分を責めるだろう。俺にすまないことをしたと――救ってやれず申し訳なかったと。俺はお嬢さんの幸せを願っているのに、他でもない俺自身の存在がお嬢さんを苦しめるなんて……そんなの、俺が辛くて耐えられない。それならばいっそ、俺のことなんて思い出さないでくれていい――永遠に」
アランはそこで言葉を切ると、くしゃりと顔を笑みの形に歪ませた。
「――なんて。そんなのはただの建前で、本当は怖いだけなんだ――俺の仕打ちを思い出したお嬢さんに嫌われるのがさ。俺、やっぱりお嬢さんが大好きだから」
そう言ってはにかんだように笑うアランは、ごく普通の――年相応のあどけない幼さの残る少年そのものだった。大人になりたいけれどなりきれない。そんな未熟な葛藤が隠し切れない、至極素直な笑顔だった。
わずかな悔しさと歯がゆさを滲ませながらも、どこか吹っ切った風に笑ってみせたその姿からは、強がりも衒いもない本心が窺えた。




