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1-3

 レナが声を失ったのは、アランが屋敷に来て間もない頃だった。ある悲しい出来事があり、それ以来レナは話すことを放棄してしまったのだ。


 アランはいつか彼女が再び声を取り戻すまで心穏やかに過ごせるよう、自分にできることをしようと心に決めていた。


 レナの父親もまた、娘が再び話せるようになるのを待っていたが、そうしている間に十八歳を迎えてしまい、やむなく傷が癒えぬまま嫁がせることを決めたのだった。


「大丈夫ですか、お嬢さん……?」


 屋敷に戻っても気落ちしたままのレナに、アランはそっと声をかけた。


 あのいけすかない婚約者と何があったのかは知らないが、レナにとって気分の良くない逢瀬だったことは火を見るより明らかだった。


 オリビアはしきりに何があったのか――子爵に失礼な振る舞いはしなかったかとレナに尋ねたが、レナは頑なに口を閉ざしたままだった。


 アランも子爵との逢瀬のことは気になったが、無理に詮索しようとはせず、代わりにレナを庭園へと誘い出した。


「見てください、お嬢さん! ほら、この木、こんなに大きくなりましたよ!」


 アランは庭園の一角に植えられた、自分の背丈程の高さほどの細い木を示した。先日見ごろを終えたばかりの枝には青々とした若葉が茂っている。それは、かつてアランがレナに贈った杏の若木だった。


 オリビアからレナの好きな花が桜だと聞いたアランが買ってきたのがこの杏だった。

 事実を知った時の当時のアランの落胆ぶりを思い出し、レナは小さく吹き出す。その微かな笑顔をアランは頬を染めて嬉しそうに眺めると、植えられた木に慈愛を込めた視線を落とした。


「あの時、俺が桜と間違えて買ってきたのに……。お嬢さんは、一緒に植えようって言ってくださったんです。桜じゃなくても嬉しいって――ありがとうって言ってくれて……。お嬢さんは、いつも優しかった。慣れない生活で、俺がどんな失態をしても、大丈夫だって笑ってくれた。俺は――そんなお嬢さんの笑顔にいつも救われていました……」


 傾き始めた陽が世界を柔らかな赤に染め、夕方の快い風がアランとレナを優しく撫でていく。

 レナは夕日を背にして立つアランの顔を見た。声音が悲しげな影を帯びていた気がしたのだが、逆光でその表情まではよくわからなかった。


「懐かしいなあ。あれからもう、五年も経ったんですね……」


 レナも懐かしそうに細い木を見つめる。


「……お嬢さんが、あの時俺を助けてくれなかったら、俺は今この世にいなかったと思います」


 レナが手話を返すと、アランは心外だとばかりに大きく首を振った。


「大げさなんかじゃありません! お嬢さんは俺にとって救世主なんです! お嬢さんがいなかったら、今の俺はなかった――。生きてさえいなかったかもしれない……」


 アランはかつて、窃盗団に身を置いていた。彼らは貧困街に暮らす身寄りのない子供を集めてきては奴隷のように扱い、自分たちの仕事の手伝いをさせていたのだ。


 アランもそうやって集められた子供の一人で、窃盗団の中で人とも言えぬ扱いを受けてきた。大人たちの理不尽な暴力によって命を落とす子供も少なくなかった。満足に食事も与えられず、見返りのない労働を強いられる。それはまさに地獄のような生活だった。


 しかし助けてくれる親も、他に行く当てもない子供たちは、逃げることも出来ずただ大人たちに従うしかなかった。一時的に逃れたとしても、死ぬのが多少遅くなるというだけだ。否、もしかしたら早まるかもしれないのだ。


 そんなとき、窃盗団が盗みに入ったのがウォルバート家だった。当時十歳だったアランは、部屋を物色している所をレナに発見された。しかしレナは駆けつけた警邏隊にアランを差し出すことはせず、代わりに園丁見習いとして雇うよう家人を説得してくれたのだった。


「本当に、お嬢さんにはいくら感謝しても足りません。お嬢さんのおかげで、俺は家畜のような生活から抜け出せました。お嬢さんが俺を救ってくださったんです。だから俺――お嬢さんには絶対に幸せになって欲しいんです」


 今にも泣き出しそうな切実さで紡ぎ出されたアランの言葉が、夕風に冷えていたレナの胸にじんわりと温もりを持って響く。


 幸せに、なってもいいのだろうか――自分のような人間が。


 レナはすぐさま首を振って自分の甘い考えを打ち消した。あの意地の悪い青年のもとへ嫁ぐことがせめてもの償いになるのなら、自分の幸せなど望まずにあの人の妻になろう。あの人がどれほど意地悪く自分に接しようとも、自分にはその境遇こそがふさわしい。


 なぜなら、わたしは――。


 レナの表情が再び影を帯びてしまったのを見て、アランは慌てて話題を変えた。


「――あ、ねえ、お嬢さん、見てください! ここにほら、まだ一つだけ花が咲いていますよ!」


 アランは杏の枝の先に、若葉に隠れるようにして咲く薄紅色の花を見つけ、レナに示した。

 レナは『本当だ』と口を動かすと、嬉しそうに小さな花に顔を寄せた。


「こいつ、ずいぶんのんびり屋だったんでしょうね。仲間が皆散った後に一人だけ咲くなんて」


 淡い色の花弁は目いっぱい開き、瑞々しく輝いていた。小さな花はたった一つでありながら凛とした存在感を放っている。


『きれい』


 レナの口が動いた。言葉を継ぐように手話を手繰る。


『でもきっと、この子ももうすぐ散ってしまう……』


「そうですね……。でもきっと、来年もまた花をつけますよ。俺、この木が花をつけるたび、きっとお嬢さんを思い出します。桜とは少し違いますけど――でも、俺にとっては、これがお嬢さんとの思い出の『桜』ですから」


 笑顔で頷いたレナの顔に、ふいに寂しげな色が宿る。来年の春この木が花を咲かせる頃には、自分はもうこの家にはいないだろう。


 そんなレナの心を読んだのか、アランは耐えかねたようにレナの手を取った。

 

「花が咲いたら、俺、真っ先にお嬢さんに見せに行きます。来年も、再来年も、その先もずっと――。悲しいことや辛いことがあっても乗り越えていけるように、お嬢さんがさっきみたいな笑顔でいられるように、この花を届けに行きます。だから待っていてください。俺、きっと行きますから」


 力強く握られた手が温かく、レナは僅かに瞠目して目前にある純真無垢な笑顔を見つめた。

この少年は、自分のことを必死で励まし、前に進むよう背中を押してくれているのだ。その拙いながらも真摯な優しさが嬉しくて、レナは無性に泣きたくなった。


 アランはいつも、こうして落ち込んでいるとどこからともなくやってきて自分を励ましてくれた。他愛もない話をしたり、一緒に花を植えたりして、忘れていた笑顔を取り戻させてくれた。

 自分の存在がどうしようもなく許せないときにも、アランは必死になって、いかにレナが自分にとって特別で大切な存在かを説いてくれた。

 こんな自分を必要な存在だと、自分がここにいることを嬉しいと言ってくれた。


「わっ! す、すみません! 俺、つい勢いで手をーー!!」


慌てて離れていく温もりをどこか名残惜しく感じながら、レナは切なげに目を細めた。


(アランはいつでもわたしに自信を取り戻させてくれた……。わたしを救世主と言うけれど、わたしの方こそ何度もアランの存在に救われてきた……)


 レナが手話で「ありがとう」と伝えると、既に赤らんでいたアランの頬が、耳まで真っ赤に染まる。


「そんな、感謝なんて……! 何よりも、俺がお嬢さんと一緒に見たいと思ったんです。お嬢さんが礼を言う必要なんてありません」


 そのまま二人は、夕日が山の向こうに見えなくなるまで杏の傍に並んで座っていた。

 時折他愛もない話をしては黙り、また言葉を交わす。

 

 どちらも『屋敷に戻ろう』とは言い出さなかった。

 まるで残り少ない時間を惜しむかのように、二人は身を寄せ合っていた。

 


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