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10-2


 ――何かが、ゆっくりと壊れていく。


 そんなふうに感じはじめたのは、一体いつからだっただろう。

 魔法使いと一緒に塔に来てからな気もするし、もっと前からだったような気もする。

 真っ黒な暗幕に覆われた鳥籠を見つめながら、アランはぼんやりと考えた。


 この暗幕は、少し前に現れたものだ。

 あるとき、カチャカチャという金属音が間断なく続いていることに気がついて音のする方を見れば、鳥籠の中では、レナが扉の裏側でなにやら小さく動いていた。


「お嬢さん? 何をやっているんですか……?」


 レナの行動を目にした瞬間、アランの体から血の気が引いた。レナは素手で鍵をこじ開けようとしていたのだ。


「お嬢さん――!!」


 アランの怒声を受けて、レナは初めてその存在に気がついたとばかりに顔を上げた。それほど集中して鍵を弄っていたのだろう。額には薄っすらと汗が滲み、指先は皮が剥けて赤い血が滲んでいた。


「アラン……? どうしたの、そんなに恐い顔をして」


「どうしたのじゃないですよ! こんなに手が擦り剥けて……血が出ているじゃないですか!!」


 レナはぼんやりと自分の手元を見つめ、それからよくわからないとばかりに小首を傾げた。


「わたし……ただ扉を開けようと思って。そうしたら、鍵がたくさんあったから……」


「そんなの、手で弄った所で開きませんよ! 鍵が無ければ開かないに決まっているじゃないですか!!」


「だけど……あなたが鍵を持っているのに、開けてくれないから……」


 アランは手の中で持て余している鍵を握り込んだ。


「だから、ですか……? 俺が鍵を開けてくれないから、だから自分で開けようとしたんですか? そんなに外に出たいですか……? こんなに――こんなに自分を傷付けてまで……」


 レナは不思議そうにアランを見た。なぜ彼がこんなに悲しそうな顔をするのか理解できなかった。


「わたし――……」


 アランの肩が、びくりと跳ねる。


(聞きたくない。お嬢さんの口から紡がれる拒絶の言葉なんて、もう二度と聞きたくない――!!)


 強い願いは黒い感情となって湧き上がり、あっという間に心を闇に染め上げていく。


「お嬢さん……あなたはもう、外の世界なんて見なくていいんです……そんな必要、ないんですから――」


「わたしは――……」


 レナの言葉は、どさりという重厚な布の音でかき消された。


 突然姿を現した真っ黒な暗幕は、文字通り鳥籠を覆い隠していた。

 分厚い暗幕は中にいるレナの声も容赦なく閉じ込めた。中から響くレナの悲しげな声が聞こえないことにアランは心の底から安堵した。


 これでもう、レナの憐れな姿を見なくてもいい。


 何かが間違っている気がするが、何が間違っているのか、どこから間違えていたのか、もう考えることすら億劫だった。


 考えない方が良いと、頭の中で誰かが警鐘を鳴らしているせいかもしれない。

 自分の侵した罪と向き合うことが、恐ろしい。そう考えれば考えるほど、窓の外に降り続く雪はその勢いを増した。


 その時、背後から場違いに明るい声がかけられた。


「今度は暗幕かあ……! 自由も、婚約者も、心も奪った上、さらに光さえ取り上げるなんて。これも深淵なる愛情のなせる業ってやつかな」


 くっくっと笑いを堪えながら、魔法使いはじっとアランを見つめた。


「――ていうかさ。きみが彼女に向けるそれは、本当に愛情なのかな?」


「……!!」


 思いがけない指摘に、アランは目を丸くした。レナへの愛情を疑われるなんて思いもしなかった。魔法使いの馬鹿げた問いかけに軽く怒りを覚える。こんなに激しい執着が愛情でないというのなら、一体何だというのだろう。


 だが、すぐに否定しようと思ったのに、なぜか言葉が喉につかえてうまく吐き出せない。

 そんなアランの様子を見て、魔法使いはにやりと口角を上げた。


「僕が思うに、それは愛情なんかじゃない。きみは――彼女を憎んでいるんだ」


「――違う!!」


「違わないね。きみは本当は彼女を愛しているんじゃなく、憎んでいるんだよ。散々期待させておきながら、結局他の男を選んだ彼女のことを……」


「違う!! そんなことあるわけない!! そんなこと――……」


「そうかなあ? 可愛さ余って憎さ百倍というやつじゃないかな、自覚がないだけでさ。愛と憎しみは表裏一体。思いが強ければ強いほど、その境は曖昧になる。簡単に裏返って、すぐにはそうと気がつかないくらいにね……」


「黙れ!! 違うと言っているだろう!! 俺は愛している!! お嬢さんを愛しているんだ――!!」


 アランは獣の咆哮のごとき剣幕で、魔法使いの言葉を否定する。しかし魔法使いはそれすらも滑稽だとばかりに嘲笑を向けた。


「本当に? それなら、彼女が誰を選んでも、決して憎んだりしないって言い切れる?」


「――!」


 喉を鳴らし、口を噤んでしまうアランを見て、魔法使いはふっと表情を緩めた。

 穏やかに目を細めたその顔は、迷える我が子を導く母を思わせる。その慈愛に満ちたまなざしは、粘質を帯びてアランの体にまとわりつくようだった。


「……だけど、僕はどっちだって構わないよ。彼女に酷い仕打ちを強いているきみはとても苦しそうで――見ていてすごく、気持ちが良いから」


 そう言って魔法使いはにっこりと微笑んだ。


「そういえばあの子爵様、この雪の中を彷徨ってもう何日になるだろうね……? さすがの僕も、恐くて鏡を覗けないよ。だってさ、もしもそこに死体でも映ろうものなら――……」


「うるさい――!!!! 黙れ!! もう黙ってくれ!! これ以上俺を責めるのはやめてくれ――!!!!」


 アランの咆哮は頼りなく震え、室内に反響する音は泣き声そのものだった。魔法使いは耳鳴りを厭う仕草で耳に手を添えると、呆れた様子でため息を吐いた。


 運命の鍵だ何だとどんなに大層な境遇に立っていようとも、やはり目の前にいるのは十五歳の子供だ。自分の気に入らない真実から目を背け、理解することを拒否するのだから。これじゃ、幼い駄々っ子と変わらない。


「きみは――きみたちは愚かだ。そんなだから、誰も幸せになれないんだよ……」


 誰にも聞き取れないほど小さな声で呟くと、やがて魔法使いは興ざめしたとばかりに肩をすくめて部屋を出て行った。


 塔の階段は常に光が届かず、昼夜に関わらず薄暗い。それでも足を踏み外すことなく上り下りできるほど、この階段にもすっかり慣れてしまった。


 階段を下りきると、見慣れた白く濁った世界が現れる。雪原を『銀世界』と表現する者がいたが、目の前に広がるそれは、そんな美しいものではない。冷たく生を否む淀んだ灰色の世界だ。


 誰もが忌まわしく思うこの世界が、今の自分にとってはとても愛おしい。孤独に己の不幸を憂う必要がない世界。皆が不幸で――自分よりも憐れだと思える者が目の前にあるこの世界は、息をするのがとても楽だ。安らかですらある。


 そんなふうに思う自分は、もうずっと前から、多分壊れているのだろう。


「はは……」


 息を吐いてみれば、笑いの形になって空気を白く染めた。吐き出された笑いはちっとも楽しそうではなく、むしろこの世の何よりも孤独な音となって空気を震わせた。


 命の気配が感じられない世界は、なんて心穏やかなんだろう。命なんて、初めからなければよかったんだ。そうしたら、その尊さも、それがこの手の中で消えていく恐怖も、知らずに済んだのに。何も出来ない己の無力を呪うこともなかっただろうに。


『おにいちゃん、アイリもいっしょにつれていって』


 幼い妹の声が耳に蘇り、魔法使いは苦しげに眉を寄せた。


 なぜあのとき、一緒に隣町へ連れて行ってやらなかったのだろう。妹の誕生日祝いに頼んでいた服が仕上がったから、当日まで見せずにおいて驚かせたいだなんて、どうして自分はそんな愚かな判断をしたのだろう。


 ――そんな日は、未来永劫こないというのに。


 あの時、せめて妹だけでも連れて行っていれば。いや、隣町に行ったのが、自分ではなく母さんたちであったなら――。


 何度陥ったか知れない思考に沈みかけた意識を、魔法使いは乱暴に頭を振って払いのけた。


 そんなこと、考えたって無駄だ。だってもう、運命は初めから決まっているのだから。誰が死んで誰が生き残るのか、最初から運命によってさだめられているのだから。


 運命は、ささやかな希望すら無残に打ち砕く。こうであったらと願うことさえ無意味なのだ。


 雪を孕んだ風が頬を掠め、その冷たさに背中を押されながら魔法使いは静かに塔を振り仰いだ。


(アラン、きみの苦しみだけが、僕を救ってくれる……)



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