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10-1

 もう、どれくらいの間まともに眠っていないのだろう。


 アランはぼんやりと窓の外を見上げた。星も月も見えない夜空は、分厚い雲の背後から漏れ出した月光が薄く滲んでいるだけで酷く寂しかった。


 硬い床に放り出した足元には、山吹色の見慣れない果実が二つ転がっていた。魔法使いが森で採ってきたものらしいが、アランはそれに手を伸ばそうとさえしなかった。

 糧を得るという行為は、命を繋ぐためのものだ。そう考えると、はたして自分に糧を得る必要があるのか、その意味を考えることすら億劫だった。


 鳥籠を見れば、レナもまた果実に手をつけた形跡がなかった。

 異様に重たく感じる体を持ち上げ、鳥籠のそばまで歩いていく。いつから起きていたのか、柔らかな羽布団に包まって横になったまま、レナもまたぼうっと窓の外を見つめていた。その姿からあまりにも生気が感じられず、アランは存在を確かめようと慌ててレナに声をかけた。


「お嬢さん、どこか具合でも悪いんですか?」


 レナは眼球だけを動かしてアランを見た。返事がないことに、アランの胸に嫌な焦りが走る。


「果物、食べてくださいって言ったじゃないですか! そんなふうに何も食べないでいたら……死んでしまいます……っ」


 アランの懇願を、レナは小さく首を振って拒否した。ささやかだが頑ななその態度に、焦りも手伝ってアランはわずかな苛立ちを覚える。


「お嬢さん、どうか言うことを聞いてください。何か口に入れないと、本当に体が持ちません……!」


 それでも果実に手を伸ばそうとしないレナに向かって、アランは脅迫じみた声を出した。


「それなら――どうしてもご自分で食べてくださらないとおっしゃるなら……俺が口移しで食べさせますよ……?」


 レナはやっと身を起こしてアランの方を向くと、小さな唇を動かした。


「……いいわよ」


 アランは予想外の返事に思わず息を呑んだ。


「お、お譲さん!? 俺の言っている意味がわかりますか? 俺は無理やり口移しで食べさせると言っているんですよ!?」


「だから、それでもいいと言っているの」


 レナの返事はあまりにも明瞭で、とても毒を含んで朦朧としている者には見えなかった。さっきまで虚ろだった瞳は仄かな月明かりを受けて煌々と輝き、射抜くような鋭さでアランを見据えていた。


「お、じょう……さん……」


 呆気にとられて開いたままの口を閉じるのも忘れ、アランは目を丸くしてレナを見た。

 頬が熱い。心臓が早鐘を打ち始める。何かを期待したい気持ちと怒りに似た感情が、小さな胸の中で渦を巻いて葛藤する。

 すっかり落ち着きをなくしたアランは、思わず声を荒げた。


「ば、馬鹿にしてるんですか? 俺にはそんなこと出来ないって!!」


 声が上ずってしまったことに気付かれただろうか。愚かにも緊張してしまっている恥ずかしい自分を悟られただろうか。

 探るように向けた視線は、レナの微笑によって柔らかに打ち砕かれる。


「出来ると思っているわ。だから、わたしに口移しで食べさせて見せてちょうだい」


 カッと熱い何かがアランの体の中をものすごい速さで駆け上がっていく。レナの微笑みは挑発なのか、嘲笑なのか。どちらにせよ、アランの頭の中で何かのたがが外れたのが自分でもわかった。


 その瞬間、アランの手の中に、冷たい金属の感触が現れる。

 覗き込めば、そこにあったのは数百の鍵の束だった。


「これ――」


 アランは渇ききった喉を上下させ無理やり唾を飲み下すと、恐ろしいものでも見るようにして自分の手に握られている鍵束を見つめた。


(これで――この手で鳥籠の扉を開けろというのか。扉を開けて、踏み入ってはならない聖域を侵すことを、俺の本心は望んでいるというのか……?)


 ゆっくりと扉に歩み寄り、南京錠の一つに手を触れてみる。不思議なことに、膨大な数の鍵束の中でどれが対となる鍵なのかアランにはすぐに理解できた。その鍵を間違うことなく選び取り、小さな鍵穴に差し入れる。


 差し入れた状態で、アランはもう一度許しを請うようにして鳥籠の中にいるレナに目を向けた。

 レナは何も言わなかった。何も言わず、ただじっとアランの手元を見つめていた。その視線からは何の感情も読み取ることが出来ず、アランの胸を不安が襲う。


 仕方なく鍵に視線を戻せば、鍵を握る指が小刻みに震え、静かな室内にカチャカチャという細かな音がやけに大きく響きわたる。

 緩慢な仕草に痺れを切らしたのか、レナの細い声が空間を裂いてアランの耳に届く。


「もしかして、こわいの――?」


 ぴたりとアランの手が止まる。子ども扱いされていることを不愉快に思いながらも、救いを求める気持ちでレナに尋ねた。


「……お嬢さんは、恐くないんですか?」


 レナはゆっくりと首を振った。


「わたしはあなたを信じているもの。あなたはわたしを傷つけるようなことは絶対にしない」


 レナが自分に向ける視線に深い信頼を認めた瞬間、アランは愕然とする。この期に及んで、信頼や安心といった認識がレナの中にあることに、憤りを通り越して落胆する。


「何で……そんなことが言えるんですか……? 俺はもう、あなたが思っているような子供じゃありません! もう以前のように、優しく触れることなんて出来ないんです。それどころか、今の俺はあなたを滅茶苦茶にしたい、壊して、ぼろぼろにして、俺だけのものにしてしまいたいなんて――そんな残酷なことを考えているんですよ!? それでもお嬢さんは、俺が恐くないって言うんですか!?」


 アランからぶつけられる感情を受け止めるように、レナは静かに一度瞬いた。そうしてゆっくりと瞼を開くと、わずかに目を細めて微笑んだ。


「――恐くないわ」


「どうして……」


「それであなたが、笑ってくれるのなら――」


 アランの手から、鍵束が滑り落ちる。派手な音をたてて床に落ちた鍵束は、無残に横たわり音の残照を広げた。

 音の波が引ききった後で、震えながら開け閉めしていたアランの唇から小さな声が漏れる。


「なんで、そんなこと――」


 渇ききった皮膚の上を、熱い雫が伝い落ちる。一つ落ちると、その後を追うようにして、雫は次々と頬を滑り落ちていく。


「俺――俺には、出来ません……。俺には……できません――」


 痛々しい懺悔を繰り返すと、アランはその場から逃げるように駆け出した。


 足音が消え去り、完全な静寂が戻ると、鳥籠の中から小さな吐息が漏れた。


「アラン……わたしはどうしたらいいの……? どうしたら、あなたは救われるの……?」


 吐息とともに落ちた何かが、冷たい石床に黒い染みを広げた。



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