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9-3

 冷たい夜が明け、白い朝がやってくる。

 塔の壁も天井もあちこち崩れ落ち、曝け出された曇天は、頑なに眩い太陽をその背に隠していた。


 虚ろな瞳のまま窓の外に目を向けるレナを、アランは鳥籠の外から見つめていた。

 レナは薄い眠りと覚醒を繰り返した。そうして目覚めている間は、決まって窓の外を眺めていた。

 無意識の行動なのだろうが、だからこそ尚更、小さな体の奥に押し込められたレナの本心が『帰りたい』と言っているようで、アランは激しい罪の意識に苛まれた。


(お嬢さんから自由を奪って、無理矢理傍に繋ぎとめておくなんて。これじゃ、あの子爵と同じ――いや、あいつより、もっとずっと残酷だ)


 アランは冷たい格子の向こう側にいる愛しい人に目を向けた。


 アランにとってレナは、色彩の乏しい世界に咲く、ただ一輪の花だった。

 雪に覆われた今だからそう思うのではなく、もうずっと前――初めて出会ったそのときから、レナだけがアランの世界で温かな熱を持ち、鮮やかに輝いているただ一つの存在だった。


 孤独と恐怖にまみれた無機質な世界から、救い出してくれた人。差し伸べた手で自分を導き、その手を隣でずっと繋いでいてくれた人。人は温かいのだと教えてくれた人。


 例の事件以来感情をあまり表に出さなくなったレナだったが、アランの前ではいつでも屈託無く無邪気に笑って見せた。年下のアランに弱いところを見せまいと思ったのかもしれないし、アラン相手には気負わずにいられたのかもしれない。それでも、アランがいつでもその笑顔に救われていたことは確かだった。


 それまで浮浪者のように過ごしてきたアランにそんなふうになんの衒いもなく微笑んでくれる存在などいなかったのだ。


 ――そんなレナが、今、活き活きとした輝きを失った双牟で、声にならない救いを求めている。


 鳥籠の中に閉じ込められているのは、健やかな生気に溢れる小鳥ではない。温かな血肉を抜き取られ、美しい羽を薬品で固められた、剥製の小鳥なのだ。


(――俺は勝手だ。こんな形でお嬢さんを自分のものにしておきながら、求めていたものと違うだなんて……)


 最低だ――。アランはそっと口の中で繰り返した。


(俺が望んだとおりに、お嬢さんの心からあの子爵は消え去った。それなのに、俺はどうしてこんなにも苦しいんだろう。お嬢さんは、今まさに、俺が望んだ形でこの手の中にいるのに――)


 アランは無性に泣きたくなった。

 もう、何をどうしたらいいのか、自分でもよくわからなかった。

 ただ確かなことは、レナが愛しくてたまらないというこの醜悪な情念だけだ。


「お嬢さん……俺、どうしたらあなたを幸せに出来ますか……? 答えはもうわかっているのに……それでも俺は、この鳥籠の扉を開けて、お嬢さんを外に出してさしあげることが出来ないんです……。たとえ偽りでもいいから、ずっと傍にいて欲しい。その声で、俺の名前だけを呼んで欲しい。その瞳に、俺だけを映して欲しい――!」


 格子に取り縋るアランの方に、顔を向けることさえレナはしなかった。まるで何も聞こえていないかのように、無心に雪景色に見入っている。


「俺、お嬢さんのこと大切にしますから――!! もう二度と悲しい思いなんかさせないって約束します! 他の誰よりも深く愛するって、誓いますから――!!」


 力なく膝をつき、救いを求める孤児のように、必死に声を絞り出す。


「――だからどうか、もう一度俺に笑いかけてください……。どうか俺のことを……愛してください……っ」


 絞り出した声は悲しく震え、ひどく惨めだった。


 アランは歯痒かった。愛しく思えば思うほど愛情は空回り、運命は思い描いていた理想とはかけ離れた現実を強いてくる。


(ああ――そうだ。いつだってそうだった。運命は、決して俺には優しくない――)


「アラン――」


 唐突に名前を呼ばれ、アランは目を丸くして声の方を見た。視線の先では、冷たい格子を隔ててレナがまっすぐに自分を見つめ返していた。


「アラン……あなたを泣かせているのは、わたし? わたしのせいであなたは悲しんでいるの……?」


「!! 違います!!」


「でも、わたしといても、あなたはちっとも幸せそうじゃない……。あなたがわたしに向ける目は、いつもとても悲しい……」


「――!!」


「……どうしたらあなたは笑ってくれるの? わたしはあなたに、いつだって笑っていてほしいのに」


「お嬢さん……」


 アランは信じられないものでも目にしたようにレナの顔をまじまじと見つめた。

 頑なに外の世界に向いていた空っぽの瞳は、今、確かにアランを映していた。


(ああ、お嬢さんはやっぱり、どうやってもお嬢さんなんだ。俺に笑っていて欲しいと、幸せそうに見えないと、そんなふうに俺のことを気にかけてくれるのはお嬢さんだけだ。どんな状況になっても、この人の澄んだ心が曇ることはない――)


 そして自分は、こんなにも清らかな尊い人を、己の卑しい感情のために貶めているのだ。


 優しい喜びと痛みを伴う後悔が同時に胸に迫る。アランの瞳に涙が溢れ、静かにこぼれ落ちた。


「わたしのせい? わたしのせいであなたは泣いているのね?」


「違います。そうじゃない。お嬢さんは何も悪くなんかない。全部俺のせいなんです。全部、俺が悪いんです――」


 俯いた拍子に大粒の涙が静かな音をたてて床に落ち、黒い染みを作る。アランはとめどなく沸きあがってくる涙を、幼子のように手の甲で乱暴に拭った。


 ――本当にもう、どうしたらいいのかわからなかった。


 ただ幸せになりたいと――愛する人と笑い合っていたいという、そんなささやかな望みを叶えることが、こんなにも難しいだなんて。


 まるで太陽と月みたいだ。同じ世界にいるのに、絶対に並んで空に昇ることは出来ない。いつだって月は明るい太陽を追いかけて、暗い闇の中を孤独に走るしかないのだ。

 決して覆ることの無い、月と太陽の運命。運命に反すれば、こうして残酷な歪みが生じてしまう。


 ただ一つ確かなことは、今、幸福な人間は誰一人いないということだけだった。


「あ――」


 レナが急に小さな声を上げた。細い腕をゆっくりと持ち上げ、人差し指を伸ばして外を指差す。


「――雪。また降ってきたみたい」


 窓の外では、いつの間に降り出したのか、砂塵のように儚い雪がはらはらと舞っていた。


「この雪、なんだか泣いているみたい……」


 その時、階段を駆け上がってくる賑やかな足音が聞こえ、アランは慌てて肩口で涙を拭った。

 足元の黒い染みを靴の先で擦って掻き消したとき、魔法使いが姿を現した。


「ちょっと、これを見てごらんよ!」


 駆け寄ってきた魔法使いが手にしていたのは、真実の鏡だった。鏡面を大事そうに胸に抱え、いたずらっ子のように楽しげな瞳をアランに向ける。


「ここに、誰が映っていると思う?」


 魔法使いのいかにももったいぶったような口ぶりに、アランは苛立ちを露わにした。


「――そんなもの、俺はもう見たくない。それは『真実の鏡』なんかじゃない。ただ、俺の願望を映し出すだけのがらくただ」


「この世の至宝かもしれないのに、つれないね。まあいいや。鏡に映っているのは、そこのお嬢さんの婚約者様だよ。どうやら彼女を奪い返すために、ここへ向かっているみたいだね」


 魔法使いに向けていた背中が小さく揺れたが、アランは何も言わなかった。


「きみも見てみなよ。彼、まだ怪我が癒えていないみたいだ。雪の中を這いずり回るみたいにして進んでるよ」


「怪我? あいつ、怪我してるのか……?」


「ああ」魔法使いは面倒くさそうに口を開けた。


「不幸な事故があったんだよ。もしくは火事のときのものじゃないかな」


 魔法使いから返ってきたのはいい加減な答えだった。


「――あ、また転んだ。こいつ、このまま死んじゃうんじゃないかな。……まったく、人間の必死な姿って本当に無様だね。みっともなくて醜いったらないよ」


 アランは差し出された鏡を覗き込もうとはしなかった。

 エリックがこちらへ向かっていると聞いて確かに驚きはしたが、以前のように激しい嫉妬に襲われることはもう無かった。むしろ心のどこかで安堵している自分がいた。


(そうか。あいつはお嬢さんを救いに来たのか。この俺の、邪悪なの中から――)


 そう考えると、レナが窓の外ばかり眺めている理由もおのずと知れた。


 ――レナは、エリックが迎えに来るのを待っているのだ。あの一面の白い世界に、彼の姿を探しているのだ。心を失ってもなお、本能のように愛する人を求めているのだ――。


(お嬢さん、あなたはそんなにもあいつのことが――……)



 ――ガシャン。



 突然響いた金属音。アランと魔法使いは揃って音がした方向に目を向ける。


 

 ――ガシャン。

 ――ガシャン。

 ――ガシャン。



「なんの――……」


 音かと口にしかけた魔法使いの言葉は、荒々しく重なっていく金属音ですぐに掻き消される。



 ――ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。



 呆気に取られている二人の目の前で、無数の南京錠がものすごい勢いで増殖しながら、鳥籠の扉を埋め尽くしていく。



 ――ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン――……。



 赤銅色の南京錠に、金色の古びた錠前。頑丈な鉄製のものもあれば、おもちゃのような小さな鍵まである。ひしめき合うようにして、乱雑に、無秩序に、鍵は扉を覆っていく。


「ねえ――」


 先に我に返ったのは魔法使いだった。

 背中越しに、ゴクリと喉の鳴る音がアランの耳にも届く。


「――きみはすごいよ。だって……きみの気持ち一つで、こんなことまで出来るんだからさあ……っ!!」


 魔法使いは、既に数百はあろうかという膨大な数の錠前を見つめながら笑い出した。


「――あははははっ!! きみって傑作だよ!! 最高だ!!」


 涙を流しながらお腹を抱えている魔法使いを尻目に、アランは呆然と増殖を続ける錠前たちを見上げた。


「これも、俺のせいなのか……? あんな僅かな動揺で、こんな……」


 アランの体を小さなおこりが襲う。


 子爵がこちらへ向かっていると聞いただけで、こんなことになるなんて。これでもし目の前にあの男が現れでもしたら、一体どうなってしまうのだろう。


 もしもレナが、あの男の元へ駆け寄りでもしたら――。


 アランは震える体を抑え、ゆっくりとレナを見た。


(――俺は、尊いこの人に、一体何をしてしまうのだろう――?)


 アランの喉仏が、ぎこちない動きで上下して鈍い音を鳴らした。



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