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9−1

 エリックはレナを見送った後、そのまま台所の椅子に腰掛けていた。


 心臓を押しつぶすのではと思えるほどの喪失感が胸に溢れ、上手く思考が働かない。


 どれほどの時間そうしていたのだろう。気がつけばすっかり日は傾き、窓からは淡い夕日が差し込でいた。


「夕日……?」


 久しぶりに見たその温かみのある色彩に、エリックは重い体を引き摺るようにして窓辺に寄った。

 最近はずっと雪が降り続いていたせいで、真っ当な夕日など見るのは久しぶりだ。

 窓からのぞいた空には、分厚い雪雲の向こうに微かに橙色が滲んでいた。


「雪が……止んでいる……?」


 それは喜ばしいことのはずなのに、なぜか無性にエリックの心を不安にさせた。

 去り際のレナの決意に満ちた表情を思い浮かべると、心臓がどきりと大きく脈打つ。


 ――なぜ、一人で行かせてしまったのだろう。


 レナは怪我の癒えぬ自分を置いていくことにひどく心を痛めていた。あのとき、もっと必死になって引き止めていたら、あるいは彼女はここに残ることを選んでくれたかもしれない。

 行かないでくれと――一人は心細いと、わたしにはお前が必要だと、まっすぐに気持ちをぶつけていたら。


 エリックは開くことのない扉を恨めしそうに睨みながら、つまらない自分のプライドを悔いた。


 その時、唐突に扉が叩かれた。

 エリックは弾かれたように椅子から立ち上がる。

 しかし開かれた扉の向こうから姿を現したのは、村に住む壮年の女だった。


「――誰も、いないのかい?」


 女は窺うようにゆっくりと室内を見回し――薄闇の中台所に突っ立っているエリックを見つけると「きゃっ」という短い悲鳴を上げた。


「なんだい、脅かすんじゃないよ。いるなら返事しとくれよ」


 女は「失礼するよ」と言いながら部屋に入ると、真っ先に部屋に明かりを灯した。

 彼女は名をハンナと言った。家が近いこともあり、レナたちのことをよく気にかけてくれていた。レナに仕事を紹介してくれたのも彼女だったし、「たくさん作りすぎたから」とシチューやマフィンなどを届けてくれることもあった。


「ハンナ……すまないが、レナは今留守にしていて……」


 エリックは困惑の滲む声で家の中を大またで歩き回るハンナに声をかけた。

 どうやら、差し入れらしき料理を運んでくれたらしい。スープの優しい匂いが彼女の持ってきたバスケットから漂っている。


「知ってるよ。あの子から昨日直接聞いたからね。しばらく仕事も休ませてもらうってさ」


 ハンナは戸棚から鍋と大きな皿を取り出し、持参した鍋からスープを移し変えると火にかけた。そうして赤いトマトのスープの中から大きな肉の塊を取り出して、慣れた手つきで薄く切り分け皿に並べた。


 カタン、と乾いた音をたてて、エリックの前に肉の乗った皿が置かれる。


「お食べよ。その様子じゃ、朝から何も食べていないんだろう?」


 ハンナが引き出しを漁って見つけ出したナイフとフォークも横に添えられた。


 エリックは突っ立ったまま呆然とハンナと皿を交互に見る。その間にも、ハンナはお湯を沸かし、手際よくパンを切ってバスケットに盛りつけると、エリックの前に置いた。


「今お茶を入れるから少しお待ち。スープもじき温まるから」


 エリックはわずかに躊躇った後、観念して椅子に腰を下ろした。本当は食欲などなかったが、ここまでされて食事を拒むのはいくらなんでも失礼だろう。


「――レナに、頼まれたのですか?」


「いーや。だけど、あんたが一人で大丈夫かとずいぶん心配していたようだったからね。あたしも気になって様子を見に来たってとこさ」


 ハンナはエリックに背を向けて、火にかけたスープを混ぜながら言った。


「――というのは建前でね。あの子が気になってさ。つい来ちまったんだよ」


 いないとわかっているのに、気になって訪ねるとはどういうことだろう。エリックが尋ねる前に、ハンナは言葉を続けた。


「昨日あの子が言ったんだよ。『もしかしたら長く戻らないかもしれないけれど、必ず帰ってくるから。それまでの間、時々でいいからエリックの様子を見に行ってやってほしい』ってさ」


 ハンナはスープを混ぜる手を止めると、エリックを振り返った。


「あたしはやめなって言ったんだ。こんなおかしな雪の中を、森の奥にいる友人に会いに行くなんて。動けない亭主を置いてまで会いに行かなきゃならないほど、大事な友人なのかってさ」


 黙っているエリックを見てから、ハンナは小さく息を吐いた。


「――あんたたち夫婦にどんな事情があるのかは知らないし、詮索したりもしない。だけど、上等な身なりをしながら、こんな世界が狂ったような雪の中をほとんど身一つでやって来たあんたたちが、何か事情を抱えているだろうってことは、頭が悪いあたしにだってわかるよ」


「……すまない」


「謝ってほしいわけじゃないよ。ただ、何か困っていることがあるなら――力になってやりたいと思うのさ。今では、あの子が――あんただって、この村の仲間だって思っているんだ。この先あの子がいなくなっちまったら、寂しいって思うくらいにはね」


 エリックはテーブルの下で、握った拳に力を込めた。

 窓の外では、静謐な白が息を潜めていた。

 白い雪の向こうに消えて行ったレナの小さな背中が、エリックの脳裏に蘇る。


 レナはどんな気持ちでアランに会いに行ったのだろう。

 きっと謝罪も弁明も――許しを請いに行ったわけでもない。彼女は、幼い頃からずっと近しく思っていたアランに別れを告げに行ったのだ。

 あの優しいレナが、どれほどの覚悟でここに戻ると――自分を選ぶと言ってくれたのだろう。


「……すまない」


「え……?」


「申し訳ないが、わたしは行かなくてはならない」


 ハンナは突然立ち上がったエリックを見て、呆れたような安堵したような複雑な笑顔を浮かべた。


「……お待ちよ。今スープが温まったからね。さあ、お茶も入れたし、まずはこれをすべて平らげてからお行き。雪が止んだとはいえ、外は寒いからね。その間に、あたしはあんたが出かける支度をしておいてやるよ」


 そうしてエリックが家を出たのは、すっかり夜が更けた頃だった。


 ハンナは明るくなるまで待ったらどうかと薦めたが、エリックは頑なだった。一刻も早くレナを迎えに行きたかったし、今ならまだレナの足跡がどこかに残っているかもしれない。

 村の男たちに同行してもらおうというハンナの提案も、丁重に断った。

 ハンナは一瞬戸惑った様子を見せたが、すぐに「わかったよ」と苦笑した。


 松葉杖をつき、まだ癒えぬ傷を庇いながら進むエリックの歩みは、決して速いとは言えなかった。


 夜の寒さは真冬のように厳しく、外の世界に暦の上では今が春だということを感じさせるものはまったく見あたらない。しかし雪のおかげで真夜中でも薄明るく、視界にはそれほど困らなかった。


 歩き始めて間もなく、エリックの額に嫌な汗が滲んだ。少し動いただけで傷が疼き、雪をも溶かすのではと思うほど熱を持つ。


 それでも、エリックの心は晴れやかだった。少なくとも、家の中で一人レナを待っているよりずっといい。


 レナの痕跡を探しながら、エリックは冷たい雪の中を一歩一歩進んで行った。



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