8-3
レナは小さく息を呑んだ。
たった今アランが目覚めたことに安堵したばかりの胸の中で、心臓が鈍い音をたてて疼きはじめる。
レナはすぐ目の前にあるアランの顔を見つめた。
あんなに健康的だった褐色の肌は今は不自然な蒼白で、まるで疲れきった旅人のようだった。少年らしくふっくらとしていた頬は無残にこけ、いつも笑みの形を作っていた唇は乾いてひび割れていた。明るく輝いていた瞳に光はなく、ただ空虚な絶望が満ちていた。
いつでもひたむきで純粋な愛情を向けてくれたアラン。どんなときもレナを決して責めたりせずに、傍で支え、励まし、寄り添ってくれていたアラン。彼のほっとする笑顔に、何度救われたか知れない。
そんな彼に、自分の正直な気持ちを伝えることは簡単にしてしまっていいことではない。
それでも、おざなりな感情で繕うのではなく、嘘偽りのない気持ちを告げることが、何よりも彼に対する感謝と親愛の証であると思った。
いつでもまっすぐであり続けた彼に、まっすぐに気持ちをぶつけることが、本当の意味での優しさなのだと思った。
だが、今、こんなにも衰弱しきったアランに、それをするのはあまりにも酷な気がした。
あれほど固く決意してエリックのもとを出てきたはずのレナの心が、アランを目の前にしてにわかに揺らぐ。
(アランに謝りたいだなんて、どんなに取り繕った所で結局そんなのはただの一方的なわがままに過ぎないのだわ。それでわたしは心が軽くなるかもしれないけれど、彼にしてみれば傷付いているところに追い討ちをかけられるようなものだもの――)
レナの脳裏に、エリックの言葉がよぎる。
『わたしが思うに、あいつはそんなことを望んではいまい。あの園丁は――決してお前に謝ってほしいわけではないだろう』
言葉に詰まるレナに、アランはふと微笑を向けた。
「声……戻ったんですね。あの男のおかげでしょうか。きっとあの男がお嬢さんの心を癒したんですよね……俺が何年もかけて出来なかったことをあの男は果たしたんですね……」
「違うの。これはあなたを――」
レナはそこで言葉を飲み込んだ。
アランの瞳には深い失望が満ちていた――自分の声などまったく届いていないと思わせるほどに。
「……どうして来てしまったんですか? 俺が求めていたのは、真実の愛なんです――。口付けする愛情もないのに、どうして俺を起こしたりしたんですか!?」
レナはアランの剣幕にたじろいだ。
「ア、ラン……?」
初めてアランから向けられる恨みがましい視線に、レナは心がえぐられる思いがした。
だが、自分が傷付いた顔をするのは筋違いだ。レナは小さく息を整えてから、少しでも自分の真心が彼に伝わればいいと願いながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「わたしにとってあなたは特別な人よ、アラン。何にも代えがたい、尊い存在なの。あなたがいなければ、きっとわたしはとっくに生きることに疲れて自棄になっていたと思う。あなたがいつでも傍でわたしを励ましてくれたから、わたしは今日まで生きてこられたの。あなたには、本当に感謝している。あなたの存在は、暗いわたしの人生の中での温かな光だった……」
アランはぐっと奥歯を噛み締めた――やってくる衝撃に備えるようにして。
「だけど、わたしはあの人と共に生きると決めたの。これから先の人生は、あの人を傍で支えていきたいと思っている」
アランは俯いたまま震える声で言った。
「……お嬢さんはただ、罪悪感から一緒にいるだけです」
「はじめは……確かにそうだったかもしれない。わたしを庇って大怪我をしたあの人を――そんな人を裏切ろうとしていたことへの罪悪感が大きかったかもしれない。償いの気持ちであの人といるべきだと思ったことは嘘じゃない……。でも今は違うの。罪の意識も償いも関係なく、ただあの人の傍にいたいの。あの人をずっと傍で支えて生きたいと思うの」
レナは小さく息を吸う。
反射的に、アランは体を強張らせた。
「――わたしは、あの人を愛しているから」
俯いたままのアランの肩が、波打つように跳ねた。
窓の外で降り続く雪の音が聞こえるほどの静謐な沈黙が、室内を満たす。
やがて、アランはぱっと顔を上げた。
「お嬢さん、ありがとうございます」
アランはにっこりと微笑んだ。
レナはその笑顔に、思わず拍子抜けする。きっと酷くアランを傷つけてしまっただろうと思ったのに。
「お嬢さんの口から、そんなことを言わせてしまってすみませんでした。優しいお嬢さんのことです、きっと俺にそんなことを言うのは辛かったですよね」
「アラン……」
「だけど俺、お嬢さんにはっきり言ってもらえてよかった。これでやっと、前を向けるから。お嬢さん、自分の気持ちを、ちゃんと口にできるようになったんですね。俺、それが何よりも嬉しいです」
レナは自分に向けられたその健気な笑顔に、激しい心の痛みを覚えた。
自分がどれほど彼にひどい仕打ちをしたのか思い知らされているようで、今すぐ伏して謝りたいような衝動に駆られた。
こんな悲しい笑顔を見せられるくらいなら、いっそ罵詈雑言を浴びせられ責められた方がまだましだ。
アランはそんなレナの心の中の葛藤などすべて見透かしているかのように、すっと目を細めた。
「やっぱり、お嬢さんは優しいな。だけど――」
細めた目に、キッと黒い光が灯る。
「――そういう中途半端な優しさが、一番残酷なんです」
「――!!」
レナがはっとして身を固くしたときには、既に遅かった。
唐突にアランの顔が迫り、唇が噛み付くように重ねられた。
アランに口づけされていることに気がついてレナは慌てた。驚いて必死で身じろぎするが、アランの顔面に押さえつけるようにして後頭部に回された手が、それを力強く阻む。
レナはふと口内に苦味を感じ、反射的にアランの唇を噛んだ。
アランはやっとのことでレナを開放すると、血の滲む口角を上げて優しく微笑んだ。
「お嬢さんは愚かだ……。だけど俺は、あなたのそんな愚かな所も好きですよ」
「ア……ラン……?」
その笑顔に不気味な影を見て取って、レナは思わず後ずさった。
後退した手首に冷たく硬質な金属の感触が当たり、レナは背後を振り仰ぐ。
見れば、自分の頭上から床に向かって、黒い鋼鉄の格子が放射状に伸びている。
それが巨大な鳥籠だとわかったときには、レナとアランの間を幾本もの堅固な鉄柵が完全に隔てていた。
「どうして……さっきまでこんなものなかったのに――」
わけもわからず鳥籠を中から仰ぐレナだったが、不思議なことに、アランには少しも驚いた様子がない。
「ふふっ……」
空気が微かに揺れ、小さな笑い声がレナの耳に届く。
レナは訝しそうに眉を寄せて、格子の外にいる少年を見た。
「お嬢さんはわかっていない。あなたがいつも俺に与えてくれる優しさがどれだけ残酷か、どれだけ俺を苦しめるのか……。お嬢さんは純真すぎる。お嬢さんは人の欲望の醜さを知らな過ぎるんです――」
事態を飲み込めていないレナとは対照的に、アランは達観した様子でゆったりと微笑んだ。
「俺、思い出したんですよ。自分が何者だったのか。何のためにこの世に生まれたのか――」
「アラン……?」
「でも、もういいんです。俺がいなくなって、すべての運命は意味を成さなくなった。だからもう、俺は使命に捉われる必要もないんです」
意味がわからないという顔をするレナを、アランは愛おしそうに見つめた。
「ただ、名残というか――この世界は、どうしても俺の心の影響を受けてしまうみたいで。だからほら、今世界はおかしなことになっているでしょう?」
そう言って窓の外を眺めながらおかしそうにくすくすと笑うアランは、どこか異常だった。いつものアランと、何かが違う。
口調は明るいのに、その瞳は、まるですべてを諦めてしまったように暗い影を湛えている。
「初めからこうしていたら良かったんだ。俺はね、お嬢さん。どんな手を使ってでも、あなたを傍に置きたいと――こんなにも汚れた欲望を持っているんですよ。何を置いてもあなたを手に入れたい。片時も離れることなく、傍に留めておきたい――」
「アラン……?」
アランの纏う不気味な雰囲気に当てられて、レナはさらに後ずさった。それを追い詰めるように、アランが一歩近付いて身を乗り出す。
「お嬢さん、どうして逃げるんですか? 大丈夫、恐くなんてありません。ほんの少し、忘れてしまうだけです。お嬢さんの嫌なこと、頭の中からすっぽり抜き出して――」
アランは嬉しそうに――にたりと口角を上げた。
「――俺しか、見えないようにしてさしあげます」
さらに一歩後退しようとしたレナの足が、突如力を失って崩れ落ちる。言葉を発しようとした舌が上手く動かずに痙攣する。
傾いていく世界の中で、最後にレナの瞳に映ったのは、粘質な慈愛を帯びたアランの微笑みだった。




