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8-2

「――起こさないで!!」


 レナは悲鳴の主を見て目を丸くした。

 叫んだのは棺の上にいる鴉だった。鴉はまるで人間のように口を開け、はっきりと人語を話した。


「彼には魔法がかけられている……。真実の愛を以て捧げられる口付けによってしか目覚めることができないという魔法だ。……きみに、彼の魔法を解くことができるというの……?」


 レナの肩が、小さく跳ねる。

 それを答えと捉えたように、鴉は悲しげな声を出した。


「……彼を愛していないのなら、このまま起こさないでやってくれ……。頼む――」


 搾り出すような声で懇願する鴉に、レナは困惑する。


 自分の中にはアランを大切だと思う気持ちが確かにある。それは紛れもない事実であり、アランをかけがえの無い尊い存在だと思っていることは疑いようもない真実だ。


 だがその気持ちは、果たしてアランが自分に向けるものと同質のものだろうか――?


 レナは迷いをたどるようにして硝子を隔てて眠るアランを見つめた。蒼白な肌に見える生気は微かで、今にも消えてしまいそうに儚かった。


(このままアランを起こさなければ、いずれ死んでしまうわ……)


 躊躇ったのはわずかな間だった。


 たとえそれが自分のエゴだといわれても、アランを失いたくはないという気持ちに嘘はつけない。今目の前で、衰弱しきって眠るアランを捨て置いていくことができないということは嘘偽りのない真実の心だ。


 レナはまっすぐに鴉の瞳を見つめ返した。


(わたしにとってアランが大切な存在だということに変わりはないもの。わたしはわたしのやり方で彼を起こして見せる。アランに伝えたいことがあるの――。ちゃんと言わないと――わたしが言わないと、終わらない)


 突然言葉を発した鴉を呆然と見つめていた魔法使いだったが、我に返るとすかさずレナの両手を後ろ手に捕えた。


「おっと、危ない危ない。まだ彼を起こしてもらったら困るんだ。この鴉の言う通り、アランを愛する覚悟がないのなら彼を起こさないであげてよ。辛い現実を突きつけるよりもその方がずっと親切というものだよ」


 レナは束縛から逃れようと身をよじりながら、きっと魔法使いを睨んだ。

 その瞳に宿る強い決意を見出し、魔法使いはわざとらしく目を丸くした。


「――へえ、驚いた。きみは本当に終わらせに来たんだね。優しいお嬢さんだとばかり思っていたのに、意外に薄情だったんだな」


 魔法使いはしっかりとレナの両手を押さえつけながら小馬鹿にしたような顔でレナを見下ろした。


「だけど残念だったね。声を失ったきみが、一体どうやって彼を起こそうというの?」


 レナはもどかしさに魔法使いを睨むことしかできない。

 こうして体を拘束されてしまえば、確かに声を出せない自分ではアランを起こすことは難しかった。


(せっかくここまできたのに――。すぐ手が届く所にアランがいるのに――!!)


 レナは助けを求めるように鴉を見た。


(伝えたい――アランにわたしの気持ちをちゃんと伝えたい。わたしの言葉で伝えないといけないの……!)


(――伝えるって……何を……?)


 すると鴉は突然大きく翼を広げた。そのまま棺の上で暴れるようにして羽ばたくと、激しい風が巻き起こった。


(イヤダ!! ヤメテヨ――!! キキタクナイ――!!!!)


 警笛のようにけたたましく鳴り響く鴉の思念が、レナの頭に流れ込んでくる。

 荒々しく舞い散る黒い羽と激しい羽音に、レナは思わず目を閉じた。


 鴉の羽ばたきはたちまち大風となり、棺を中心にして竜巻のような渦を巻きはじめる。

 近くにいたレナも魔法使いも、すさまじい突風に煽られて壁に弾き飛ばされた。


(アランが――!!)


 レナは風に抗いながら何とか身を起こすと、細く目を開けた。


 狭い視界に、淡く輝く硝子の棺が映る。

 棺は渦の中とは思えないほど静謐に置かれていた。まるでそこだけが別の空間のように、横たえられたアランがひっそりと眠っている。


 その時、レナはぐらりと視界が揺れるのを感じた。


 見れば、足元の床が今にも崩れ落ちそうになっている。塔全体が、大きく斜めに傾きはじめているのだ。


 レナは踏みしめた足に力を入れると、両腕で頭部を庇いながら一歩ずつアランのもとへ進んでいった。


(塔が崩れる前に、アランを助けないと――)


 うねりを上げる突風と不安定に揺れる足元に、何度もその身を倒されながらも、レナは少しずつアランに近付いていく。


(アラン、お願い、目を覚まして――!!)


 不意に棺に暗い影が落ち、レナははっとして頭上を振り仰いだ。


 天井を覆っていた岩盤がゆっくりとはがれ、アランの眠る棺の上に落ちてくるところだった。


 レナは無意識に口を開いていた。固く閉じられていた喉の奥が裂けるような痛みに似た感覚が走る。


「ァ――……!!」


 音になりきらないくぐもった声が、虚しく喉の奥から吐き出される。


 レナの目の前で、大きな岩盤が、今にも硝子の棺の上に覆いかぶさろうとしていた。


 レナは小さく息を吸うと、胸の奥深くに溜まった澱を吐き出すようにして思い切り声を発した。


「――アラン――!!!!」


 めいっぱい伸ばした指の先が、冷たい硝子に触れる。


 棺の中でアランはじっと静かに目を閉じていた。



  * * * * *



 アランは不思議な夢を見ていた。


 夢の中で、自分は真っ黒な羽を持つ鴉になっていた。

 夢の中のアランの視点は鴉になった自分を客観的に見つめているのだ。


 鴉の姿でありながらも、アランは相も変わらず主人であるレナのことを崇拝していた。

 アランにはそれが酷く滑稽に映った。


 婚約を憂うレナを、鴉は何とか励まそうとする。


「俺がこんな姿でなかったら……あんな意地の悪い子爵よりも先にお嬢さんのことを嫁にもらっていたのに」


 冗談めかして笑うが、その瞳の奥には、言い知れない悲しみと悔しさが滲んでいた。


 アランは醜い鴉の身を嘆いた。


「……俺がこんな姿じゃなかったら……お嬢さんの不安を、もっとぬぐってやれたのかな? お嬢さんの心を、支えてやれたのかな……?」


 気が付けば、アランの姿は人間に戻っていた。


 人間のアランの視点から、間近にあるレナの顔を覗いている。


 ――そうだ、覚えている。

 これはあの時の、実際にあった記憶だ。

 婚姻の話を聞いてショックを受けるレナを、幼い自分なりに慰めようとしたのだ。


 そんなアランに、レナは寂しそうな視線を向けた。

 アランは自分の言葉ではレナの瞳に光を灯すことができなかったことに愕然とする。


「あなたは優しいのね……。あなたかがもう少し大人で、わたしの手を引けるだけの大きな手を持っていたなら良かったのに……」


 アランの頭を撫でながらレナが何の気なくつぶやいたその言葉は、アランにとってあまりにも残酷なものだった。


 どうやっても、アランは今すぐ大人になることなど出来ない。大人になるだけの時間をレナが待ってくれるとも思えなかった。



 その時初めて、アランは本当の意味で絶望したのだ。



(――そうだ。本当はあのときからわかっていた)


 アランの意識が、漆黒の波に飲まれていく。


(お嬢さんはいつだって、俺を選ばない――)


 抵抗することもなく、アランの全身はあっという間に波に飲み込まれ、闇色の海の中を荒々しく揉まれながら流されていく。


(初めからわかっていたことじゃないか。お嬢さんがその愛を以て俺を目覚めさせに来てくれるなんて、そんなことありえない。つまらない幻想だって――)


 暗い水面をたゆたいながら、アランはすべてを放棄せんとばかりに固く瞼を閉ざした。


(このまま、闇に飲まれて消えてしまいたい……)


 そう思ったとき、アランはふいに瞼の外が白むのを感じた。


(おかしいな……この世界は、暗く汚い闇ばかりのはずなのに。光なんて差し込むはずがないのに……)


 うっすらと瞼を明けたアランの目に飛び込んできたのは、空からはらはらと舞い落ちてくる、無数の小さな白たちだった。


「――雪……?」


 手にとって確かめようと、天に向かってゆっくりと手を伸ばしてみる。


 指先が白い色に触れた瞬間、それはふわりと弾けて掌の形に広がり、アランの手をしっかりと掴んだ。


「え……?」


 思わず手を引こうとしたアランだったが、白い手は力強くアランの手を握り締めてくる。


 アランはその温かい手を見つめて信じられない様子で呟いた。


「お嬢……さ、ん……?」


 その声を受けるようにして、黒い海は光を浴びながら徐々に白い世界へ塗り替えられていく――。



 いつの間にか、あれほど激しかった風は止み、室内には冷たい静寂が戻っていた。


 長い長い夢から目覚めたアランが最初に見たのは、涙でぐちゃぐちゃに濡れたレナの顔だった。


「アラン……!! 良かった!! 目を覚ましたのね!!」


 大粒の涙を流しながら喜ぶレナを、アランはまどろんだ意識のまま不思議そうに見つめた。


「どうして、お嬢さんが――……」


 まだ焦点の合わないアランの視線を塞ぐように、レナはその頭をそっと胸に抱いた。


「わたし、あなたに会いに来たのよ……ずっと、待たせたままだったから……」


 懐かしいレナの匂いに、アランの胸に熱い感情がこみ上げてくる。


(ああ、やっぱり幻想なんかじゃなかった。お嬢さんは、こうして俺を救いに来てくれたんだ――)


 レナの温かく柔らかな胸の感触に頬を高潮させながら、アランは期待に満ちた目でレナを見上げた。


「お嬢さん……――」


 しかし、震える声で紡ぎかけた言葉は、レナの瞳を覗き込んだ瞬間音を失う。



 自分を見下ろすレナの瞳に宿っていたのは、愛しい人を想う熱情ではなく、憐れな友を労わる同情だった。



 吐き出すべき言葉を失ったアランは、呆然とレナを見つめる。


 あんなにも願って止まなかったものが今目の前にあるというのに。アランの心を深い悲しみが満たしていく。


 すべてを悟り、レナを映したままのアランの両の瞳から、熱い涙が零れ落ちた。


「お嬢さんは……俺に別れを告げに来たんですね……」



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