8-1
アランは夢を見ていた。
遠い昔の夢だ。
まだレナの婚姻も遠く、初めて抱いた切ない恋心に甘く胸を痛めながら毎日を過ごしていた、平穏だが眩しく輝いていた日々――。
山積みにされていた記憶の箱が、一つ一つそっと開けられていく。
次々と襲ってくる懐かしい記憶に、アランは流されるように身をゆだねた。
その身に負った宿命と存在する意味。自分が生まれた場所。そこから掬い出され、放り出された暗く汚れた町の鼻を突く腐敗臭。野蛮な大人たちの暴力による痛みと口内を満たす不快な血と涙の味――。
やがて初めてウォルバート家に来たときの記憶が蘇ると、アランの波立った心はしだいに凪いでいく。
瞼に焼き付いている、自分を匿ってくれたレナの勇ましい背中。「今日からあなたもこの屋敷の家族よ」と微笑む慈愛に満ちた笑顔。庭園の木陰で本を読んでくれたこと。読み書きを教えてくれるときにすぐ近くで香る甘い髪の香り。「一緒に行こう」と自分に向けてまっすぐ伸ばされた小さな白い掌――。
レナはいつでも、自分に手を差し伸べてくれた。慣れない生活に戸惑い、困惑する自分を、迷いなく受け入れ導いてくれた。
だから自分もそうしようと思ったのだ。あの悲しい事件以来、固く心を閉ざしてしまったレナに、あの頃自分がそうしてもらったように、いつでも彼女に手を伸ばそうと思った。
初めて会ったときからレナはいつもどこか寂しげだった。裕福な家庭に生まれ、たくさんの人間に囲まれて大切に育てられたはずのレナ。豪華な部屋を与えられ上等な衣服に身を包み、多くの人が羨んで止まないものをいくつも手にしているはずなのに、レナはちっとも幸せそうに見えなかった。
レナはいつでも誰に対しても親切で温厚だったが、時折見せる表情は息を呑むほど空虚で、まるで心を失った人形のように見えることがあった。
記憶の海をたゆたうアランの意識が、ぴくりと小さく疼く。
幼い頃母を失っているのだと教えてくれたレナを、そんなことと、笑い飛ばしてしまったことがある。
自分など、何一つ持っていないと。
それは幼いアランの口から出た、何の悪意も無い無垢な言葉だった。だがレナは、複雑な様子で眉を歪めたのだ。
今ではわかる――持っていたものを失うのと、初めから何も持っていないのとではわけが違うのだと。
しかしレナはそんなアランにも気を悪くしたふうを見せず、優しく頭を撫でてくれた。
「以前のあなたはそうだったのかもしれない。でも今のあなたは、たくさんのものを持っているわ。その中には失うことを避けられないものもあるでしょうけど――あなたにとって一番大切なものだけは、いつまでも失くさないでいてね」
それはとても哀しいことだから――そう言ったレナの微笑がどこか痛ましく、瞼に焼き付いていた。
(お嬢さん、すみません……。俺、約束を違えてしまいました。一番大切なもの、自分で手の届かない所へやってしまいました――……)
薄い意識の中で、アランは儚い謝罪を告げた。
記憶の箱たちはたちまちもろく崩れ去り、漆黒の闇に呑みこまれる。
闇からぬらりと浮き上がったのは、あの忌々しい子爵の姿だった。
子爵の腕の中には、自分が切望して止まないレナがぐったりと目を閉じて抱かれていた。
「――諦めろ。お前がどれほど望もうとも、この娘がお前のものになることはない」
きっぱりと断言する子爵の口調が、嘲りのように耳に響く。
「お前の運命と彼女の運命は決して交わることがないのだ」
いつの間にかアランはエリックと対峙するように立っていた。
ぎりりと奥歯を噛み締め、猛禽類のような眼光でエリックを睨み据える。
「うるさい!! お前など地位や金という不純な力でお嬢さんを手に入れたくせに!! 純粋な愛情など抱いてもいないくせに!!」
アランの咆哮が届いていないかのように、エリックは表情一つ変えない。どこか余裕ぶったその顔が、余計にアランの神経を逆撫でした。
どうして自分ばかりがこんなにも苦しんでいるのだろう。なぜこの男は、こんなにも満たされた表情で立っていられるのだろう。
――運命は理不尽だ。どうしようもなく不公平だ。
「俺はあんたから、金も、地位も、何もかも奪ったのに――どうしてお嬢さんだけ――俺が一番奪いたかったものだけまだ持っているんだ!?」
握り締めた拳の爪が皮膚を破り、紅い血が滲む。
悔しい。悔しい。悔しい――!!!!
アランは涼やかな表情のままのエリックを睨む目に力を込めた。
(俺はこの男にはどうやっても敵わない。きっとそういう運命なんだ……)
口惜しさに唇を噛んだとき、思いもかけない言葉がエリックの口から発せられた。
「――お前は、本当に自分の方が彼女を幸せに出来ると思っているのか?」
似たようなことなら以前にも何度か言われたことがあった。だが決定的に違うのは、今投げられた言葉には、明らかな憐れみが滲んでいたことだった。
「俺は――」
アランはそこで言葉を切ると、答えることを拒否した。
* * * * *
硝子の中のアランを眺めていた魔法使いは、頬杖をついていた顔をふと持ち上げた。
閉じられたアランの両方の瞼から、大粒の涙がこぼれ落ちたのだ。涙は次々と溢れ、白い頬を濡らしていく。
「きみは、夢の中でまで苦しんでいるの……?」
魔法使いは、小さく首を傾げてアランを見た。
そのとき一陣の風とともに、開いていた窓から黒い物体がさあっと舞い込んできた。
「うわっ!!」
魔法使いは思わず腕を上げて身をかがめる。黒い物体はその上をすうっと風を切りながら滑空すると、硝子の棺の上に舞い降りた。
「どうしてこんな所に鴉が……」
魔法使いは驚いて艶やかに濡れた羽を持つ黒い鳥を凝視した。鴉はまるで初めからそうしていたようにちょこんと棺の上に座り、小さく首を傾げながら魔法使いを見返している。
「きみは――……」
魔法使いが鴉に手を伸ばしたときだった。
誰かが石の階段を登ってくる音がして、魔法使いはびくりと体を揺らした。
こんな場所に誰も来るはずがないのに――。
不吉な気配に、思わず鴉に目をやる。鴉はとぼけた様子で、つぶらな瞳を魔法使いに向けていた。
「まさか、きみが連れて来たの――?」
思わず声が震える。「誰を……?」と聞こうとした魔法使いの口は、部屋の入り口に現れた人物を目にして閉じられた。
そこにいたのは、まっすぐに棺を見据えて立つレナだった。
魔法使いは忌々しげに棺の中で眠るアランを振り返り、彼を守るようにしてその上に鎮座する鴉に目を移した。
「――なるほどね。迎えに行きたいけれど行く勇気のないきみの思念が具現化したというわけか。鴉を飛ばすなんて反則だよ――と言うか、そんなことも出来るなんて、きみってやっぱり『本物』だったんだね」
レナは魔法使いの存在に気が付くと、怒りに顔を赤くした。
(間違いない――この男は、あの夜わたしを殺そうとした男だわ。やっぱり、すべてこの男の仕業だったんだ。火事だって、この男が裏で糸を引いてアランをたきつけたに違いない……)
自分を睨みつけるレナの気迫に、魔法使いはわざとらしく怯えてみせた。
「おお、恐い。もしかして僕のことを怒っているのかな? そんな恐ろしい顔をしては、せっかくの美人が台無しですよ――『お嬢さん』」
魔法使いのおどけた態度に、レナはかっと頭に血が上る。
荒々しい足取りで魔法使いに近付くと、怒りに任せて腕を振り上げた。
「――僕を打つの? 言葉が通じないって不便だよね。そうやって暴力でしか怒りを示す方法がないなんてさ」
レナは振りかぶった腕を中空で止めた。激しい怒りと屈辱で、全身が打ち震える。
そんなレナの様子を面白そうに眺めながら、魔法使いは言葉を続けた。
「きみの想像の通り、アランの運命をここまで導いてきたのは僕だよ。彼はね、本当は運命を統べる側の存在だったんだ。だけど僕が彼からすべての運命を奪ってやった――いや、今はまだその途中というところかな。だから今きみに邪魔をされては困るんだ――」
魔法使いは振り上げていたレナの腕を掴むと、乱暴に背中の後ろへねじった。
「――っ!!」
苦痛に歪むレナの表情を見て、魔法使いはくすくすと笑う。
「大丈夫、殺しはしないよ。僕、本当は平和主義者だからね」
言いながら、魔法使いはレナをアランが眠る硝子の棺の前に立たせた。
「ご覧――。きみが手ひどく傷つけたおかげで、彼は残酷な現実から逃げ、優しい夢の世界を漂っている……」
レナは棺の中に横たわるアランを見て息を呑んだ。
アランの頬は異常なほどに白く生気を失い、苦しげに歪んだ瞼の下には涙の跡が残っていた。慌てて胸に目をやり、わずかに上下していることを確認すると、レナはひとまず安堵した。どうやら本当に眠っているだけのようだ。
魔法使いは言葉を失っているレナに、責めるような視線を向けた。
「これが、彼の選んだ幸福なんだ。きみにそれを邪魔する権利がある? 彼がやっと手に入れた平安さえ、きみは彼から奪おうというの?」
レナはアランの頬に残る涙の跡を見つめた。どんないきさつがあったのかはわからないが、魔法使いの言葉が真実ならアランをこんなふうに追い詰めてしまったのは間違いなく自分のせいだ。
(わたしはまた、自分の愚かな振る舞いで尊い人を傷つけてしまった――)
胸が痛い。
激しい自己嫌悪に、涙が滲んでくる。
そのときふと、棺の上に止まっていた鴉の小さな瞳と目が合った。この鴉は、レナが森に入った途端、待ち伏せていたかのようにレナの前に姿を現し、ここまで導いてくれたのだ。
『彼はあの日からずっとあなたのことを待っている』
初めて会ったときの鴉の言葉が蘇る。あの時以来鴉が言葉を話すことはなかったが、その言葉はずっとレナの心に焼きついて、凍える空気の中雪を踏みしめて進むレナの背中を押し続けた。
(そうだ。わたしはまだ、アランを待たせたままだ。まだ何も、彼に伝えていない――)
レナは覚悟を決めると魔法使いの手を振りほどいた。そのまま、棺を叩こうと握った拳を振り上げる。
拳が硝子にぶつかる寸前、掠れた悲鳴が響き渡った。




