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7-3

 貧しいが穏やかな日々を過ごしていたある日。

 仕事からの帰り道を急いでいたレナのもとに不思議な黒い鳥が現れた。


 一面の真っ白な世界を飛ぶその黒い鳥は、まるで自分の存在を主張するように際立っていた。


(珍しい鳥……)


 レナが戯れに手を差し伸べてみると、驚いたことにその黒い鴉は人懐っこくレナの手の中に舞い降りてきた。


(お前、この雪で仲間とはぐれてしまったの……?)


 通じないことは承知でレナが鴉に話しかけてみると、不思議なことにレナの頭の中に言葉が返ってきた。


(あなたを待っている人がいる)


(え!?)


 レナは驚いて手の中にいる鴉を凝視する。

 鴉は無邪気な様子で首をかしげながら、小さな黒い瞳をレナに向けた。


(あなたがその人を大切に思うなら、彼を助けてあげてほしい)


(彼をって――それは誰なの?)


 レナの質問には答えずに、鴉は黒い羽を持ち上げると小さなくちばしで毛繕いを始めた。

 その様子を見守っているレナの頭の中に、また声が聞こえてくる。


(彼はあの日からずっとあなたのことを待っている)


 レナの脳裏に、一人の少年の姿が浮かんだ。


(それって――……)


 鴉はレナの言葉を遮るように大きく羽根を広げると、ふわりと空へ舞い上がった。


(彼はこの先の森の奥にある古い塔にいる。あなたにしか、彼を救うことは出来ない)


 鴉はあっという間に白い空の向こうに消えていった。


 レナはごくりと唾を飲み込んだ。

 あの日から色々なことがあったが、決してアランのことを忘れたことはなかった。


 あの日――。杏の木の下で落ち合う約束をしたあの日、結果的に自分はアランとの約束を破ってしまった。


 自分が辛いときには彼の優しさに甘えておきながら、そのくせ、それを非情に踏みにじってしまったようなものだ。


 あの火事の日に、シルヴェストル家の敷地内でアランの姿を見たという者が何人かいた。皆、アランがエリックへの報復として屋敷に火を放ったのだと疑わなかったが、レナはそれがどうしても信じられなかった。


 あの優しくて純粋なアランが、そんな恐ろしいことをするとは思えない。あれほど慕ってくれていた自分が屋敷の中にいると知りながら、それでも火を放つなどということができるとは思えない。


(でも、もしも――)


 もしもアランが本当にシルヴェストル家に火を放ったのだとしたら、それは自分のせいだ。

 彼の優しさにつけ込んで、それを無情に踏みにじった自分のせいだ――。


 レナは鴉が消えていった方角にもう一度目を向けた。

 止むことのない白い雪が、空までも白く覆っている。どこまでも広がる白い世界は、清廉でひたむきだったアランの心を連想させ、レナの胸は切ない痛みを覚えた。


  * * * * *


 家に戻ったレナは、エリックに鴉のことを話して聞かせた。


 エリックは不吉だから気にしない方が良いと言ったが、レナはアランのことが気になっていると正直に告げた。


「お前は、まだあんな園丁のことを――」


 不愉快を露わにするエリックを、レナは慌ててなだめた。

 今までアランの存在にどれほど助けられてきたか、そんな彼の優しさを利用してしまった自分がいかに狡猾だったのか、そのことがどれほどアランを傷つけてしまったのか――。


 必死で話をするレナを、エリックは複雑な気持ちで見つめていた。


 これが彼女の優しさなのだということは理解できた。

 だが、そんな怪しい鴉の言葉などを簡単に信じるなんてどうかしている。


「――とにかく、わたしは反対だ。だいたい、こんな雪の中をどうやって行くというのだ? もしその塔とやらが本当にあるのだとしても、正確な場所もわからないのだろう?」


 レナは何も言葉を返すことが出来なかった。

 だいたい、もし塔を目指すのだとしたら、まだ傷の癒えていないエリックをここに一人で置いていくことになる。


 躊躇いを見せるレナに、エリックは畳み掛けるように言葉を重ねた。


「それに、お前はそこへ行ってどうするというのだ? あの子供に謝罪でもするつもりか?」


 レナはハッとしてエリックを見た。


「わたしが思うに、あいつはそんなことを望んではいまい。あの園丁は――決してお前に謝ってほしいわけではないだろう」


 レナは小さく唇を噛んだだけで、何も言わなかった。

 この話はここまでだというエリックの言葉で、その日はもう鴉の話もアランの話も口にすることはなかった。


  * * * * *


 ある日の朝、エリックが起きると、狭い家の中からはレナの姿が消えていた。


 台所と寝室、小さなリビングがあるだけの簡素な家だ。探し回らなくても、レナがいなくなっていることは明白だった。


 エリックは嫌な予感に襲われ、まだ傷が痛む腹部を押さえて寝台から抜け出た。


「レナ……?」


 念のため呼んでみるが、返事は返らない。


 一体どこへ行ったのだろう。

 今までもレナが仕事や用事で家を空けることはあったが、どんなときでも必ずエリックの了解を得てから外へ出ていた。


 エリックの脳裏に、不吉な少年の顔が浮かぶ。


 まさか、あの男を追いかけて行ったのだろうか。自分の傍にいると見せかけて、安心させた頃に家を出て行く算段だったのだろうか。


(お前まで、わたしを置いていくのか――レナ……)


 壁を伝うようにして歩いて、やっとのことで玄関にたどり着くと、エリックはドアノブに手を掛けた。

 すると外側から、急にドアが開かれる。


「――!!」


 危ないと思ったときにはもう遅い。

 エリックの足は踏ん張りがきかず、ドアに手を掛けたまま引っ張られるような形で、体ごと前のめりに倒れこむ。


 ゴツンというどこかを殴打する鈍い音が聞こえ、エリックの体は柔らかな何かを下敷きにして地面に倒れた。


 目を開けてすぐ鼻の先にある顔に、エリックは素っ頓狂な声を上げた。


「レ、レナ!?」


 レナはエリックの体の下で、真っ赤な顔をしていた。


「す、すまない! 今すぐに退く!!」


 自分も耳まで真っ赤にしながら、エリックは慌てて体を起こした。激しい動揺のせいか、心臓が頭の中にまでうるさく鳴り響く。


 レナはドレスについた雪を払いながら呼吸を整えると、なるべく平静を装ってエリックに話しかけた。


『あなたが外へ出ようとするなんて珍しい。何かあったの?』


 レナの手話を見たエリックは、びくりと肩を揺らすと、諦めたようにため息を吐いた。


「――お前が、あの園丁のところへ向かったのだと思ったのだ」


 不機嫌な顔でそう言ったエリックだったが、レナはそんなことと笑い飛ばしてくれると思っていた。


 しかしレナは静かに息を飲むと、エリックを家の中へ入るよう促した。


 レナはテーブルの上に手にしていた大きな籠を乗せた。中にはたくさんのパンやチーズ、果物が入っている。

 林檎を一つ取り出しながら、買い物でもしてきたのかと尋ねようとしたエリックの言葉を、レナの真剣な瞳が遮った。


『わたしは明日、アランのところへ行こうと思う』


 エリックの手から、ごとりと音をたてて林檎が床に落ちる。

 レナはそれを拾うこともせずに、エリックから目を離さずに続けた。


『あなたが反対なのは知っている。だけどわたしは、どうしても行かなければならない』


 エリックは呆然とレナの手話を見つめていた。良いとも駄目とも言わず固まっているエリックに、レナはペンを取った。


『わたしはあの事件以来、自分の気持ちを正直に誰かにぶつけることを避けてきた。正直になるということは、必ずしも優しいことばかりではない。自分の偽りない気持ちが、誰かを傷つけてしまうことだってある。わたしはそれが恐かった。もう誰のことも傷つけたくなかった。自分の思いをぶつけることで、誰かが哀しむ姿を見たくなかった』


 アランはいつも自分に、『お嬢さんは優しい』と言ってくれた。

 でもそれは本当の優しさではない。ただ相手と真正面から向き合うということから逃げているだけだったのだ。


『――わたしはもう、逃げない』


 レナは小さく口を開けると、息を吸った。

 ゆっくりと、その唇が動く。


『帰ってくる』


 レナは慈しみ深く微笑んだ。


『必ずここに、帰ってくるから』


 彼女の深い決意を前に、エリックはもう何も言うことはできなかった。

 それほどに、彼女の笑顔からは強い意志が滲んでいた。


 エリックはレナの体をきつく抱きしめた。

 レナはその震える背中をそっと包み込むと、優しく慈しむように撫でてやった。


  * * * * *


 次の日の朝早く、レナは家を出て行った。

 エリックは遠くなっていくレナの背中をいつまでもいつまでも見送っていた。


 雪は、休むことなく降り続く。


 やがてレナの姿は、世界を包む白に飲み込まれるようにして見えなくなった。



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